映画観た(ミッドサマー)
いやー……何なんでしょうね、この映画。
巷で絶賛(?)されるほどの面白さや怖さというのはわたしは全く感じなくて、わたしは小説やゲームの摂取しすぎで日本のとある県の山奥にはいまでもサイレンみたいに独自の村ルールとか座敷牢だとか過剰な排他主義だったり逆に稀人信仰みたいな土着文化に縛られた村があると思っている人間なので(羽入田村は異界だけど)、本作の舞台であるホルガ村がそれに当たるコミューンだとして別にそもそも驚きも無く。金田一耕助シリーズを見たり、サイレンだの零だのホラーゲームやってると特段珍しくも無いんですよね。そういう文化。
アマプラのあらすじの引用です。
スウェーデンの夏至祭というものをそもそもよく知らなかったのでとりあえず記事を書くにあたって軽く調べはしたのですが、メイポール(カバー画像の中央のやつ)を中心にカエルのダンスと言われるものを踊るだとか、草花を敷き詰めたベッドで寝ると未来の結婚相手が見えるだとか、なんだかとてもファンタジックなものが多くてああ普通の(?)祭りだなー、と思いました。そもそもお祭りというもの自体が何かへの信仰(アニミズムだとか)発祥であるので、その点に関しては主人公一行は異国文化に迷い込んだマレビトという設定以外の何物でもないなーとは思いました。クトゥルフTRPGみもある。
細かいあらすじの説明などは面倒なのでしないのですが(考察記事はたくさんあるので気になる方は映画を見るかそういう記事をご覧頂きたい)、これはまず最初にホラー映画では無いですね。完全にサイコホラーだと思っていたのでわたしは楽しみにしていたのですが、蓋を開けてみれば鬱、パニック障害、パートナーへの過剰な期待からの失望、そしてある理由で家族を失った主人公が独自の土着文化のある村(コミューン)で新たな家族を見つけるというある種の救済……わたしには洗脳にしか見えませんでしたが、そういうドロドロした女性(或いは男性)の感情をミッドサマーという祭りに乗せてファンタジックに描いたのがこの作品でした。
なのでそういう土着文化に馴染みが無い方やそれらに本能的に恐怖を感じる方にとっては確かに怖かったり、カップルの倦怠期のようなものについても思い当たる節がある方はたくさんいるんだろうなあ、とは思いますが……この映画観た程度で別れるカップルは所詮その程度だと思うので、遅かれ早かれだと思う。
カップルで見ると別れるとは?
わたしは主人公であるダニーにまったく感情移入が出来なかったので終始3歩ぐらい引いて登場人物を観察していたのですが、妹の失踪から家族を失ってしまい、情緒不安定かつパニック障害になってしまったダニーのことをクリスチャンはそれでも支えていたように思うんですよね。確かに本当は別れたいことを伝えられなかったり誕生日を忘れていたり、女心として「それ、無くない?」みたいなこともあるのだとは思うんですけど、ダニー本人も言ってましたが、念押しをしなかったダニーも悪い。ダニーにとってその言葉は自分を納得させるための言葉でしかなかったんでしょうが、事実悪い。そして忘れてたくせに友人に言われて誕生日を思い出したのは良いけど、おざなりな祝い方してきたクリスチャンも悪い。どっちも悪い。
何でもかんでも先回りして察して動いて欲しい、恋人であるクリスチャンが卒論のためにスウェーデン旅行に行くという話も「行きたい」というのは聞いていたけれど「行く」と決定したことは聞いていなかったと怒りというか悲しみを露にする彼女の姿は、世の彼氏彼女がいる男性女性諸君に重なるなと思う部分も大きかった。男の方が旅行が決まったことを話せなかったのが現状不安定なダニーにどう切り出せば良いか分からなかったせいというのも何とも。所謂テンプレ的に面倒くさいって話なんですけど。万人に当てはまるって話はしてないよ!テンプレ的な話をしてる。
これはわたしの偏見100%の話ですが、世の中の人間は所詮他人でしかない相手に期待をしすぎです。分かって欲しい、察して欲しいじゃ相手は気づかないし、何事においてもそうですけど勝手に期待して勝手に失望するのって凄く自分勝手。せめて自分がしてほしいこと、どうして自分が怒ったり悲しい気持ちになったのかを相手に理解してもらうよう努めてから嘆いた方がまだ建設的ですし、マジで察してくれるのが当たり前とか思っちゃいけない。これ彼氏だの彼女だのに限らず、友人関係においてもそうですよ。
言わなきゃ何も伝わりません。相手はたとえどれだけ距離が近かろうと他人です。育ってきた環境も違ければ、教育も違う。全てを理解してやりたくともそれは所詮無理な赤の他人なんですよ。だからこそ言葉があるのですし、コミュニケーションという概念がある。
そんな中でクリスチャンは、当初出来る限り一応ダニーのことを気遣っていたように見えたんですけどねえ……。ダニーのタイミングに行動を合わせようとしたり、逐一気遣うような言葉をかけていたし。吹替を見ていたので前野さんのお声の効果かもしれないけれど。なんかすごく真摯なイケボだったのでクリスチャンがマトモに見えている気がするけど、まあディレクターズカット版だとクリスのクズなところがもっと描かれているということで、クリスに全ての罪を負わせたい方には良いんじゃないでしょうか。わたしは破局も喧嘩も原因は片方だけが100%悪いというのはあり得ないと思っているので(勿論比重はある)、クリスのラストシーンでカタルシスを得た人に対してはむしろ恐怖を覚えます。勿論、一概に語れるものではないというのは承知しておりますが。結局一番怖いのは人間なんだよ……。
そして作中、次第にダニーにとってもうクリスチャンは頼れる存在ではなくなり、一見優しく寄り添い仲間として自分を故郷に迎えようとしてくれたペレの口車に乗ってしまいました。あれだけ精神状態が不安定な時に依存して泣きまくってたのに……しつこい電話にも応じてくれてたし心中はともかく一緒にもいてくれてたのに。誕生日を忘れてたぐらいで冷めて呆れるとかすごい……一応ペレに言われて思い出すという経緯でしたけどホルガのケーキでお祝いしてくれたのに。すごい身勝手……すごい……。いえ、ダニーにとってこの自分の誕生日という日が「そこそこ」どうでも良かったのは事実だと思います。でも本当にどうでも良いわけじゃなかったんだとも思います。で、恐らくですけど世の女性(或いは男性)はこういう思考を持っている人が居るのだと思う。期待してない振りをしながら期待をしてしまっている人たちが。
その期待と絶望がレイヤードされてやがては喧嘩やマンネリ、はてまた離別の原因となっていくのでしょう。だからわたしは婚姻関係や恋人関係にまるでロマンが見いだせない。Xジェンダーかつアセクシュアル寄りなもので、そこらへん全く共感できる要素がなくて申し訳ないのですが。ただ、この映画に全く感情移入できなくて良かったとも思えました。
そしてこのダニー、実は監督の失恋経験を元に作られた所謂監督のアバターでもあるとのことで。自分の失恋経験を映画に落とし込んで主人公性を女性に変えてしまった監督こそげに恐ろしいと感じました。実体験を作品に落とし込んで消化するのが悪いとは言わないけれど、この作品に関して言えばもはや怖い。
あ、やっぱ怖い映画なのかもしれない。
ホルガの客人(生贄)
ペレはダニーをコミューンの仲間に迎え入れようとして最初から動いていましたね。どうしても閉鎖的な村であることから血を薄めるために外部の人間を呼び込むことは必要で、男性よりも女性が多いと感じることから90年に一度の特別な祭りの生贄に選ばれたり(村内からも志願したり)、事あるごとに外部の男は種以外は用無しだとばかりに儀式のために葬られて来たんだろうなあというのは推測に難くない。本来こういう閉鎖的な村で呼び込む必要があるのは男性の需要の方が高いはずなんですけど、村には一応男性も居ましたので外部の女性も必要なんでしょう。近親相姦のタブーは尊重されるとペレは言ってましたから。その尊重についての意味はまた、映画を見ていれば変わるのですけれど。
わたしはこの映画を見ながらぼんやりと脳裏に過ったのは同じ辺境地の土着文化が舞台であるデンデラだったり、夫婦仲の狂気の変化が題材のアンチクライストだったりしたのですが、ホルガの90年に一度の大祝祭の途中で行われるえーと……アッテストゥパンですね。これは古代北欧文化で元々スウェーデン版姥捨て山、姥捨て崖のことではあるのですが、ホルガにおいてのアッテストゥパンは棄老文化とはまた別な気がしてまして(今回のホルガにおけるアッテストゥパンの儀式は、新たに輪廻するための儀式かつ90年に1度の大祝祭の生贄になるという名誉行為なので)、とはいえ棄老文化にも様々な理由がそれぞれの国にありますので、ホルガ村のこの儀式もやっぱりペイガニズムと言わざるを得ないのかなあ……あまりペイガニズムって言葉好きじゃないんですよね。キリスト教にとって異教だろうが邪教なんだろうが、それを当たり前にしている人にとっては当たり前なので……作中でシヴ(長老)がこれは遥か昔からの風習だから分かって欲しい、と言ってたようにその土地にはその土地ならではの風習があるわけでして。郷に入っては郷に従えと言うのは真理かな、と。
それを自分の杓子定規に当てはめて異常だ異端だと騒いでしまったコニーとサイモンもまた、村にとっては厄介者でしか無かった。結果としてとんでもない拷問のような目に合っていたので彼らが一番可哀想でしたね……ただ申し訳ないことに血鷲の刑を見た瞬間が一番テンション上がりました。生きたまま肺を外に広げてワシのような羽を作るという儀式的な北欧の殺害方法なのですが、まあ普通に拷問ですよね!!サイモンが何をしたって儀式の邪魔をしたからなんですけど、それにしてもマークとジョシュの殺害方法とサイモンの殺害方法が明らかに意図が違うことから、なんかいまいちしっくりこない感はあった。コニーはどうにも川で死んだようなのですが、生贄として儀式を通じて死んだ人とそうじゃない人が居るというか。マークは愚か者の皮剥ぎという方法で死んでいるので一応儀式扱い?悪魔のいけにえにしか見えなかったんですけど。レザーフェイス。
何も知らされずに連れてこられたあたり、正直ホルガ育ちの留学生は大祝祭の生贄を連れてくる刺客でしかないんだよなあっていうところが浮き彫りにもなりましたね。その中で村が怖いから早く帰りたいとは泣いていたものの家族を喪った悲しみから、また家族という存在を求めていたダニーは完全にホルガの民に目を付けられました。メイクイーンに選ばれたのも必然で出来レースだったのだと思います。女性たちの同調圧力ともとれる結束が恐ろしいですが、そうまでしなければ男はともかく女をコミューンに留まらせること自体が難しいのでしょう。
村の女たちがいちいちダニーの感情に同調して泣き叫んだり、また孤独感や不安感につけこまれて一服盛られてしまったクリスと関係を結んだマヤに同調して声を上げるシーンだったり、これもまた一種の同調圧力であり「寄り添っている、わたしたちは貴女の感情を理解している」というパフォーマンス。
なんとも嫌な気分にさせてくれる演出。
ホルガの大祝祭は、90年に一度、9人の生贄を持って行われる9日の盛大な儀式。9という数字については古今東西さまざまな謂れがありますが、ホルガにおける人生が春夏秋冬で表され、それが18年単位のサイクルであることからも9という数字にはホルガでも特別な意味があるんでしょう。北欧神話にはまず9つの世界が存在しますし、9は奇数の最大数であることから宇宙だとか真理だとかを象徴する数字とも言われています。またキリスト教にはノベナという9日間の祈祷を経て神への恵みを求める風習もありました。ただこれらもペイガニズムの象徴として扱われていた時代もあって、カルト的数字の1つでもある。
このあたりの感覚は日本人とそれ以外の地域ではまた違いますし、中国あたりでも9はとても縁起の良い数字とされていたりと本当に所説ありますので一例でしかないですが、映画ミッドサマーにおいては重要な数字です。タイトル(英語)も9文字ですしねえ。
女王の決断
メイクイーンに選ばれたダニーは、9人目である最後の生贄を選ばなければなりません。それはくじで選ばれた村民か、恋人のクリスチャンか。
花に包まれて手足も見えず身動きも取れないダニーの姿は美しいというよりも自分の意思で逃げ出せない、花に捕われた異国の女性にしか見えません。(一応立ってたので花塗れなのは前面だけっぽい)その異国の女性を女王だと祀り上げるホルガの民の異常性というのは、日本人には理解しやすいのではないかなと思います。ほら日本ですと犬鳴村伝説などに代表されるように余所者は歓迎されないことが多いですので、その余所者をトップに君臨させ、あまつさえ最後の生贄を選ばせる=自分達の信仰に染めるというのは、洗脳以外のなにものでもないと言いますか。
そしてそんなダニーの心中に巡る思いに対して、微笑みかけ頷く女性たち。メンタリスト集団か。人心掌握の術を村人全員が身に着けている。人、こわい。集団になるともっと、こわい。
そして運ばれて行くのは、水脹れしていたので溺死したと思われるコニーの死体、そして眼窩と口、切り落とされた手首の中などに藁が詰め込まれた状態のマークと地中に逆さに埋められていたジョシュ、そして血のワシにされたサイモン。アッテストゥパンで飛び降りた2人の老人と生贄志願をした村人が二人、そしてダニーに選ばれ生きたまま死んだ熊の皮に入れられたクリスチャン。これで計9人の生贄が揃いました。熊は実は色んなところでモチーフとして出てきていますが、最初は生きたままケージに入ってたはずなんですけどね……くまー……。
熊といえばわたしが真っ先に思いつくのは7つの大罪で、怠惰を司るベルフェゴールの象徴ともされる動物です。そしてベルフェゴールは7つの大罪では怠惰に分類されてはいますが、悪魔としては好色も司り、人間の結婚生活は果たして幸せなのか?という問いに対する答えを見つけるために男女の夫婦を観察する役割もあったと言います。これがベルフェゴールの探求と呼ばれる机上の空論への皮肉の由来。そして嫌というほど男女の結婚における人間の醜悪さを見た事から女性(人間)不信にもなったという可哀想な悪魔なのですが、まあ恐らく最後には女性不信に陥ったであろうクリスチャンにはピッタリのモチーフの動物ではある。
とはいえ熊というのは古今東西、熊信仰も存在するレベルには強大な力の象徴としても扱われる動物でもあります。実際作中でも強大な力を持つ獣って言われてたし。元々、百獣の王って熊なんですよね。熊は古来より崇拝の対象になることが多くて、キリスト教がそれを貶めようとライオンを推してきたとかいう話もありますし、古代の壁画やモチーフにも熊というのはよく登場する。熊に悪いイメージをつけたのはそういう意図を持って書かれた聖書だという話もありまして、まあわたし研究者じゃないから本とかで見た程度の知識しかないのであまり鵜呑みにはしないでほしいですし噛みつかれても困るのですけれど。
そして生贄9人は全員干し草を突き詰めた小屋に入れられ、生きている人は生きたまま火をつけて燃やされる。ウィッカーマンのよう。
外は生贄の悲鳴に共鳴してるのか何なのか村人たちの阿鼻叫喚。地獄絵図。
これはパフォーマンスであって誰もが悲しんでいるわけではないのだということが容易に分かる演出で、焼け落ちて崩れる小屋を見てダニーは最後に笑う。
ここにまた、一人の狂ったホルガの民が誕生したわけです。
まあ、でもやっぱり怖くない
怖く無いんですよね、この映画。求めてたとか求めて無いとかスタンスの違いとかじゃなくて、この映画の題材がそもそもホラーじゃないんですもん。
ただの田舎の邪教と、新たな家族を得たダニーの話。
これがハッピーエンドなのかは分かりません。9日間続くという大祝祭は恐らくまだ完全に終わってない気がするんですよ。常に白夜だし自分も日数計算しながら観てなかったんですけど、9日間は経過してない気がするので。
そこで女王になったダニーにニシンを丸食いする以外の何の試練が与えられるかはわからないのですが、もう狂ってしまったからあまり関係無いですね。きっと彼女はペレと結ばれて子を為してコミューンの一員として一生を終えるんだと思います。
結婚に対する皮肉のようなものも感じますし、まあ色んな民間伝承だったり土着文化だったりを取り入れているお陰で日本人ながらに刺さる部分は多いのかなあとは思うのですが、始めに言った通りわたしにとってそういうフィクションじみた世界観というのは全然珍しくもなければなんなら現実世界よりなじみ深いんで……。映画もやはりフィクションではありますので、まあちょっと冷めた目で見ちゃいましたねー。モチーフ的な伏線が色々ありそうなので2周目行くかー?って悩んではいるんですけど、なんかこれ映画よりゲームの方が面白かったかもしれないですね。ダニーを通してユーザーをホルガの民にしてしまったほうが没入感が出たかもしれない。
あと、このホルガ村から信仰というものをすっぽり抜くと、多分異国人相手に好き放題しまくる『ホステル』になるなって思いましたね。いやホルガの人たちも大分好き放題してるけどな!
次は現代ホラーの頂点と謳われる同監督の前作『ヘレディタリー 継承』を見る予定なのですが、たぶんこの監督とは感性合わない気がするのでいまいち期待はしないで見ようかなと思ってます。というかウォッチリストに入れてたのに未だに観てなかったあたり、まあ感性がね。どうしても一致しない空気がしたというか。
全てのホラー映画観てるわけではないので、もしこんな映画はどう?みたいな作品があったら教えてくださいー。なんならわたしのオススメもそのうち紹介したいですけどね。書き出すと結構キリなかったりするんですよね……。
モロなホラー映画よりはサイコスリラーとかが好きなもので、好きな映画はそっちに偏ってるんですけど大体なんでも見れます。邦画も良く観ますし。古い映画も観るし。古い洋画も観るし……フランス映画とかは好きですね。あとはやっぱりパンズ・ラビリンスが人生で一番好きで、ギレルモ・デル・トロ監督の画作りが好きなので早くナイトメア・アリーが観たいです!!2022年2月25日に日本公開ですって……待ち遠しいですね。
なんでこんな時間に投稿してるんだって、夜10時に寝たら深夜2時に起きてしまいまして。寝れなかったんで、つい。