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ミュージックマガジン増刊号『坂本龍一』に失望しました

ミュージックマガジン増刊号「坂本龍一」が今日届いた。しかし目次を見て大きく失望せざるを得ない内容で…。

以下、Twitter投稿( @keiomr )より
(そのままコピペしたものなので、140字に合わせるよう、てにをはとか句点に間違いがあります。その点ご了承ください。)

ミュージックマガジンの増刊『坂本龍一』が届いた。が、しかしこれはハズれだ。
マガジンと坂本龍一というならば、中村とうようさんが常に厳しく評価していたことにきちんと触れなきゃダメでしょ。
坂本を頑なに受け入れなかったとうようさんの音楽観を見直すことこそ、この雑誌でしかできないんだから。

とうようさんは西欧世界の音楽を徹底的に否定していた。
ポルトガルのファド以外ならばマウロ・パガーニくらいしか記憶にない。
それはそれで一つの見識であり全くの見当違いでもないとしてもよいのだから、当時の辛口レビューを読み直したくて購入したのに、これじゃ詐欺にあったようなもんだ。

とうようさんのレビューを今の視点で見返すことで、他誌とは異なる坂本龍一の全体像を浮かび上がらせることは可能だし、それ自体大きな意味もある。
坂本は大衆音楽とかなり深く交わりながらも、自作については西欧音楽の作法を最期まで優先して、それは大衆音楽の簒奪とされても仕方なかった。

実際ウィーン生まれのピアニスト、フリードリッヒ・グルダが70年代に発表した「ワールドミュージック」という概念は今となっては聴く価値もない出来損ないで、若かったとはいえ良し悪しについては正しく判断していた当時の坂本は、さすがにそこを批判的にみていたに違いないし。

グルダの最期の作品として残るのは、トランスとモーツァルトやバッハを同列に流し腰でダンスしながらキーボードの鍵盤を叩くという醜悪なシロモノで、坂本は常にそういう下品な音楽とは一線を引いていた。
大衆音楽と交わりながらも染まることなく、彼はあくまで西欧音楽家として音楽に向かった。

西欧音楽に留まりながら世界各地の音楽に精通し積極的に自作に取り入れた坂本の自作は、大衆音楽側からすると簒奪とみえるようなものでもあり、その意味でかつてのとうようさんの指摘は的を射ている。大衆音楽という概念が21世紀に入って融解しだした今だからこそ、この対立を提示する意味があるのに。

ポール・サイモンに対してでさえ、マガジンはそうした趣旨の指摘をしてきた。
逆にピーター・ゲイブリエルの活動についてはむしろ積極的に評価し、彼が世界中に紹介した音楽を含めて、グルダとは全く異なる意味合いでワールドミュージックという括りで大衆音楽の豊穣な世界を教えてくれたりもした。

フリードリッヒ・グルダとポール・サイモンとピーター・ゲイブリエルと坂本龍一。
グルダに触れるのはマガジンの役目ではないにしても、後二者との比較において浮かび上がる坂本龍一の音楽の特異性にとうようさんは気づいていた。
辛口レビューはそういう意味があったと考えるが、本家が無視するとは…

追悼特集号とはいえ、本来のマガジンは評論=批評することについては一切手加減しなかった。
だから本物のファンたちから支持されてもきたし、とうようさんが離れ死去してからまともな評論が消えて堕落してつまらなくなって見離されたところから再出発したところなのにこのザマとはあまりに情けない。

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