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私は人づきあいが苦手だ。

いや、しようと思えばできるし、
むしろ誰とでも仲良くできる人だと思われているふしがある。
だが、苦手なのだ。疲れるから。
だから最近は無理して人と合わせることも、
むしろ会う事もあまりしなくなった。
どうやら私の中のどうでもいい事柄は、実は重要だと思う人が多いらしいと言う事に、だいぶ歳を重ねた後に気が付いてから。

例えば時間を守る事。
例えば決まりを守る事。
時間を守れない人は、人からの信頼が得られないらしいが、
別に人からの信頼なんていらない。
本当に信頼している人から信頼してもらえたらそれでいい。

私はとにかく、自分で決めてもいないことを
強要されることが苦痛なのだ。
もちろん自分が必要だと思った事柄はきちんと守る。
でも気が変わる事もしょっちゅうだ。
そしてみんなそんなものだと思っていた。

それに後述するが、
まさか決まりがある方が生きやすいと思ってる人がいるなんて
思ってもいなかったし、約束事も苦手だった。
だって気が変わったら謝らないといけないじゃない。

ただそうは言っても、子どもが学校に通い始めると、
決まり事ばかりで大変だ。

毎日ちゃんと学校に通い、5時間も6時間も勉強をして、
帰ってくれば宿題が待っている。

大体、靴下の色が黒だったら、何が悪いのか。
まったく意味不明である。
白なんて汚れが目立って買い替えが大変ではないか。

登校時間を自分で決めたわけでもないのに遅刻をすれば怒られる。
宿題を忘れれば、子どもは先生と約束したわけでもないのに怒られる。
そんな事では社会で通用しないと言わたそうだ。

その社会とは、つまり
”その先生が知りうる範囲での社会”
でしかないのだが、先生はそれは知らないようだ。

だからといって、特に反論はしないし変えようとも思わない。
(子どもがそれで悩んだら大いに行動に移すかもしれないが)
先生が言ったような生き方の方が、
大多数の人が知る社会では生きやすいのは確かだ。
だから間違っているとも思わないし。

ただ、そういう風に生きると不具合が出てしまう人種もいると言う事だ。
私のように。

ちなみに私は独立して6年以上経つ。
決まった時間に出勤する事もなければ、
子どもが熱を出しても、申し訳なく休みの許可を誰かに取る必要もない。

仕事しながらいきなりヨガがしたくなる。
そうしたらヨガをする。
ビールを飲みたければ昼でも飲む。

ただし何もしなければ、仕事もなくなる。
何もしなければ、お金ももちろん稼げない。
通常の多くの社会人よりずっと不安定だし社会的信用もない。
でも当たればでかいし、何より自由だ。
こういう生き方しかもうできない。

多分先述の先生のような生き方を私が貫いた暁には、
立派な鬱になるだろうと確信している。

ここで、前回書いた彼の話をしようと思う。
なぜなら彼は大多数側の人間なのに、私を非難するどころか
うらやましいと言う稀な人物だからだ。

彼は、大多数の社会とそれになじめない私の橋渡しをしてくれる。
彼の話はすんなりと聞くことができるし、
彼の悩みには一刀両断で解決策を言ってしまうことも多々ある。

彼からは、よく怖いと言われるが、
私が言っていることはもっともであるから、
自分の捉え方が未熟なのだと淡々と分析している。
ストレスも抱えつつ、
大多数の社会ときちんと向き合い、
毎日責任のある人の為に立つような仕事をしていて、
私は彼を尊敬している。

彼は私と出会う前は軽く鬱だった。と思う。
彼自身も『あの頃はよく病んでたな』と言っているから多分そうだと思う。
私のような考えの人を、身近で体験してきて、
悩み事がそれほど大したことではないと気が付いたようだ。
それはありがたい。

でも私も彼と出会う前は軽く鬱だった。と思う。
大多数の社会になじめず、独立してからもその社会に合わせるのに
必死だったからである。
でも彼と出会ってから、
そんななじめない社会とでも、共存できるんだなと知った。
何故なら彼は、私に何も無理強いをしない。
そして、助けてくれる。

大多数の社会にいる人は、私の本当の姿を知れば、
離れていくと思っていた。
それなのに、憧れるとまで言ってくれた。

私としては、単に無理な事をしていないだけなのだが。
それが彼にはできないそうだ。
私は逆に、私には出来ないことをしている彼を尊敬している。
(たまに、なんでそんな事で悩めるのかと思うが、
最近はそういう事は少なくなった)

彼は決められたことでないと、仕事なんか出来ないと言っていた。
決められたことでないと、ずっとボーっと過ごしてしまいそう、との事である。いや、彼の事だから、その時はその時で何かするとは思うのだが。

お互いは違う個人であるということが、わかっている付き合いは楽である。
それに安心感もあるし、尊重する事ができる。

でもこの安心感、私はたまに怖くなっていた。
何故なら、彼がいなくなったら、
自分がどうなるのか本当にわからなかったからだ。
よく「一人でも大丈夫な人が、他人をちゃんと愛せる」と聞くではないか。
だとすれば、これは共依存というやつなのだろうか。

その疑問を、そのまま彼にぶつけたことがある。
そうすると彼はこう言った。

1人で完璧な人って、一体どのくらいいるのかな?
お互い足りないところを補い合う事を共依存だと言うなら、
俺はそれで構わないけど。
あえて言うなら共存じゃない?
こんなに分かり合えて助けあえる人と出会えたのに、
いなくなっても平気なんて俺には無理。

あ、そっか。
私が、この人の悩みを悩むほどの事じゃないと思うように、
この人も私の悩みは悩むほどの事ではないと気が付いている人なんだ、
と、とてもいい意味で思った。
そして彼の言葉に激しく同意すると共に、
これでいいんだと思った。

そうだ、私たちは1人でもなんとか大丈夫だったんだ。
でも2人になったから、もう1人では無理なんだな。って思った。

約束なんてするから破られるんだと思っていたふしもあるかもしれない。
でも、不確実だからこそ、約束をしたくなる気持ちもわかるようになった。
人生なんて無意味だと思っている。
そして無意味だからこそ、こうやって人を想う気持ちが彩りを添え、
それぞれの人生の意味を持ち出すのだと思う。

だから私は、私が先に死ぬまでずっと大切にすると約束している。
彼も、1秒から数日は長生きできるように頑張ると約束してくれた。

もし果たされなかったら辛さを味わおう。
約束が破られたとしても、お互い全力で果たそうと思ってることに間違いはないのである。

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