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残酷な神が支配する

確か10年くらい前に図書館で借りて読んでるはずなのですが、あまり印象に残ってなかった作品です。何を訴えたかったのかがいまいち伝わってきませんでした。多分私は虐待を受けたことがないので理解できないんだろうなーといつものように好意的に解釈したんじゃないかと思います、大泉本を読む前の私は、萩尾作品を読んで頭に疑問符が浮かんでも、自分に原因があるのだろうとほぼスルーしていたようです。意外にこういう読者は多かったり?

それで、大泉本をきっかけに、もうちょっと頑張って読み込んでみようと思ったわけです

まあ、今回は大泉本のおかげで、虐待や鞭打ちや首絞めを描きたかった、「風と木の詩」のアンチテーゼを描きたかったというのはよくわかりました。そこはもう十分理解したのでそれ以外についてツッコんでみたいと思います。以下ネタバレご注意ください

一番不可解だったのは、ジェルミがグレッグを殺す際に、サンドラのメンタルをほとんど気にしてないことです。サンドラは夫に死なれて鬱になり、恋人に去られた時に自殺未遂、グレッグに別れ話を切り出されたときにもガスオーブンで自殺未遂を起こしてるんですよ。だからこそ、ジェルミはただただサンドラを守るという理由のためにグレッグの言いなりにならなくてはいけなかったはずなのですが、なぜかグレッグ殺害計画ではその懸念はスッポリと抜け落ちてます。事故の知らせを聞く直前のジェルミの妄想は

「ああかわいそうにサンドラ 泣かないで 愛してたんだね(あんな男を) だいじょうぶぼくがついてる ぼくがついてる以前のように あいつは死ぬ この世から消えてなくなる」

といった具合なのですが、いやいや、以前だってジェルミがついていたのにサンドラは自殺未遂を起こしたのでは?どうして急にそこまで能天気な思考になっちゃったの?
それでもグレッグを殺す前の段階では冷静な思考力を失いハイになって、理性など吹っ飛んでいたというならわかりますが、問題はグレッグを殺した後も、その点に一言もジェルミが触れないことです。ジェルミはサンドラが虐待について知っていたのに黙っていたことに深く傷つきますが、ジェルミだって最後までサンドラのことだけを考えていたわけではないという点は自覚すべきだと思うんです。ジェルミは殺す段階で明らかにサンドラの心より自分自身を優先させたのです。べつに私はそれが悪いと思ってるわけじゃありません、当然のことだと思います、ただ、ジェルミがなぜそこを「自覚」しないのかは不思議でした。だって、彼にとって一番重要なポイントなんですよ?物語としては都合よくサンドラも事故で死んでしまうので、グレッグ亡き後のサンドラの精神状態を考える必要はなくなったのですが……

なぜ萩尾さんはそこを描かなかったのかは後になってわかりました。
この物語はサンドラへの告白で終わります、言い換えれば、サンドラに告白するまでの物語なのです、だから、それ以前にジェルミが自分とサンドラの関係について冷静に考察するシーンは不要なんです、そんなシーンがあっては困るんです。サンドラの犠牲になり続けていたジェルミが最後にようやくサンドラに心のうちをすべて語る点がクライマックスなんだから、それ以前に例えば「僕だってグレッグを殺すのは第一に自分を守るためにやったことだから、サンドラが自分を最優先して虐待を見て見ぬふりをするのも理解できる」なんて言っては台無しです(ただ、最後のサンドラへの告白シーンでカタルシスを感じた読者ってどれくらいいるのか疑問です、えっ、重要なのってそこなの?と思った読者は多いのでは)

つまり、物語上の都合で、ジェルミは普通だったら自覚できるはずのことをラストになっても自覚できないままにさせられたのだと思います
ジェルミもイアンも年齢にしてはかなり幼い印象を受けるのは、ストーリー上の都合で、彼らの思考に制限が加えられたせいもあるのでしょう、なんたってゴール地点がジェルミのサンドラへの「告白」なんですから、そのせいで突っ込んだ会話もできず、セックス描写がやたらと多くなった面もあるのではないかと思います
このように、ジェルミが考えるはずのことを考えない(あるいはそのシーンを見せない?)というのは他にもあって

・殺したいほど憎い相手だったとはいえ、グレッグを意図的に殺してしまったこと
・サンドラを巻き添えにして殺してしまったこと
・サンドラがグレッグの性的虐待を見て見ぬふりしていたこと
・自分がグレッグに性的虐待された過去

どれもジェルミを苦しめていたとは思うのですが、何が最も彼を苦しませていたかがはっきりしないんです、というか萩尾さん自身はそこを考えていたのだろうか?ということすらわからない、漫画を読んでも解読できないんです

藤本由香里氏との対談(『少女まんが魂』(白泉社)収録)で「残酷な神が支配する」に関して、萩尾さんは

「でも、『これがベターじゃないか』っていうのをセリフで言っちゃうとね、本当につまんなくなるんですよ。だからストーリーを考えてると、読んだ人が『ああ、そうよね、そうすればいいのねぇ』って思っちゃいそうなセリフが出てくるんですけど、そういうのは全部、切っちゃうんです。理屈になっちゃうから。」
「わかっちゃうとね、やっぱりわかる範疇だけの話になっちゃうんです、説明して終わる、っていうんですか。そうするとね、説明が出てくる後についている有形無形のいろんな感情が、ぜーんぶきれいにこっちに寄せられてしまう。でも、人間ってもっとごちゃごちゃしているものでしょう?だから、そっちのほうを追っかけたいなあ、と」

と語ってます、ジェルミの思考がいまいち明確に伝わってこないのはこれも理由の一つなのでしょうか?でも、じゃあ、その分、ごちゃごちゃした人間の感情が伝わってくるかというと、それも微妙じゃないでしょうか、ジェルミがとても傷ついていることやとても怒っていること自分を臭い人間だと感じていることなどはもちろん読者に伝わってきますが、その中身のごちゃごちゃしている部分の詳細はクリアに伝わってこないのです

話はそれますが、上記の萩尾さんの「人間ってもっとごちゃごちゃしているものでしょう?」というくだりで、私が真っ先に思い浮かべた漫画が三原順の「Sons」でした。苦悩する少年の心のひだを余すところなく描き尽した凄いとしかいいようのない傑作です。何十回も読み返してますが、読み込んでいる私だからこそわかります、萩尾さんは「Sons」を意識して「残酷な神が支配する」を描いたんだろうなって

「Sons」連載が完結したのが1990年で、「残酷な神が支配する」の連載開始が1992年なので、萩尾さんは「Sons」に触発されて、こんな漫画を描いてみたいと思い、「残酷な神が支配する」を思いついたのではないかと想像します。妄想乙~!と言われそうですが、「イグアナの娘」と「夢の中悪夢の中」の例からも萩尾さんが三原順作品を意識しているのはほぼ確実ですし、実際両作品には共通点が少しあるんです

・13歳の双子の妹バレンタインが双子の兄の子を妊娠、出産後その子を殺して自殺未遂(「Sons」では13歳の少女が従兄弟の子を妊娠、出産後、その子を殺そうとするが、未遂、その後自殺)
・ジェルミの「体がバラバラになる感覚」は「Sons」でも頻出
・どうすべきかわからない混乱した精神状態を「遭難」と呼ぶ
・車が欠陥車だったため、ジェルミはグレッグの死にどこまで責任があるのか不明、「Sons」のジュニアも運転していたとはいえ、車道に飛び出してきた歩行者を轢き殺した点にどれだけ責任があるのか不明(2022年12月追記)

こんなとこですかね、大した類似でもないし、この件に関してはべつにパクったって言いたいわけじゃないです、萩尾さんのことだからおそらく「Sons」以外にもいろんなところから影響を受けて描いていることでしょう
ただ、文庫10巻もある「残酷な神が支配する」はその半分以下の文庫4巻の「Sons」の濃度にはとても及びません

結局、萩尾さんは雰囲気マンガ家なんですよ。以前も書いてますが、分析することはとても苦手、だから苦しむジェルミやジェルミとイアンの感情のぶつけ合いの描写なんかは素晴らしく上手だなと思いますが、ちょっと突っ込んだ話になるといきなり「愛は〇〇である」「神は○○である」といったような、それは何かの受け売りなのか?と思わせるような、萩尾さん自身が考え抜いた末に紡いだ言葉ではないような借り物のセリフに思えてしょうがないんです

萩尾さんが描きたいのは、虐待を受けた少年の苦悩や少年が愛することを拒絶しながらも愛を欲する姿、最後に等身大の自分で母親に向き合うシーンであって、そういうジェルミ自身がどんな人間であるかはさほど関心がなく、ジェルミ自身の人間性を追求することにはほとんど興味がないように思えます。だから必然的に薄くなるんです、そこが三原作品とは決定的に異なります。三原順はまず第一に登場人物の人間性を徹底的に作り上げてから描き始める漫画家です。親から虐待まがいの扱いを受けても、「はみだしっ子」のグレアムとサーニンではラストが全く異なるものとなっているのは、それぞれの人間性に応じて迎える結末が違ってくるからです

ようするに、萩尾さんの描きたいのはジェルミという個性を持った「人間」ではなく、虐待を受け、母親に守ってもらえなかった少年の「物語」なんでしょう

最後に余談ですが、萩尾さんの家では、ジェルミのことを「間抜けなジェル」と命名していたそうです(カクヨムというサイトで書かれてました、5ちゃんねるで教えてもらった情報です)、正直なところ、ジェルミにはごく軽い知的障害が入っている設定なのかな?と思うこともありましたが、だからって「間抜けなジェル」と命名するなんてあまりに酷すぎませんか?
人間ってもっとごちゃごちゃしている(萩尾談)と語る一方で、そんな一括りでまとめてしまうような呼び方をするというのも理解に苦しみます。こんなエピソードからも、本当に萩尾さんは人間に興味がないんだろうなって思っちゃいますね

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