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「トーマの心臓」連載の言い訳

1973年の下井草での絶縁以降、萩尾さんが竹宮さんと増山さんを描いたことは、私の知る限りで3件あります

まず、第一に1973年「別冊少女コミック7月号」の「い~もの見つけた?モトちゃん」の中で、目の悪くなった萩尾さんに対して、極悪友どもとして、竹宮さん増山さんに「すぐヒステリー起こすからよ」「神経症よ」と言わせています

次に、1974年「別冊少女コミック4月号」に「みんなでお茶を」を描いてます。これは正確には竹宮さんと増山さんをモデルにした登場人物カチュカとリッピを出している形です

最後に、1974年「別冊少女コミック6月号」の「まんがABC」の中で竹宮さんと増山さんを描いてます


不思議なのは、萩尾さんは大泉本で

『みんなでお茶を』は、シリーズもののファンタジーSFの3作目でした。この作品の仲良し精霊のキャラクター3人のうち、2人は増山さんと竹宮先生をモデルにしていました。(中略)。描きながら、もうこのシリーズは描けないなと気づきました。
 仲良し精霊の3人キャラクターというのが辛かったからです。描く前に気がつけよ、と、自分で突っ込みました。

と語っているのに、なぜかその直後の「まんがABC」で竹宮さんと増山さんを登場させている点です

「まんがABC」は単行本に一切収録されてない、幻の作品で、萩尾さんの中ではなかったことになっているのでしょうか?それはともかく、私はこれは、竹宮さん及びその周囲への言い訳と読者(とくに竹宮ファン)への仲良しアピールなんじゃないかと思ってます
なぜなら、「トーマの心臓」連載が始まったのが1974年の4月頃?で、ちょうどその前後に、「みんなでお茶を」と「まんがABC」が描かれているからです。時系列はこんな感じです

1974年「別冊少女コミック」4月号に「みんなでお茶を」
1974年「週刊少女コミック」19号(4月発売?)から「トーマの心臓」連載開始
1974年「別冊少女コミック」6月号に「まんがABC」

「トーマの心臓」が連載に至る経緯については、あちこちで書いているようで、「思い出を切りぬくとき」(初出は「グレープフルーツ」1981年7月「しなやかに、したたかに」)にもたっぷり書かれてます。内容は簡単に言うと、「自分から望んで連載化になったわけじゃない」「編集がベルばらのような連載を希望した」というものです。このあたりは大泉本でも描写されていて、一緒についてきた城章子さんが「長編ネタなら『トーマの心臓』があるじゃない」と言った部分も付け加えられています。「思い出を切りぬくとき」では200ページぐらいだった「トーマの心臓」ですが大泉本になると、いろいろ付け加わったようで300ページに増えてます
「話として読める部分は六〇ページほど」でそれを編集に見せたと「思い出を切りぬくとき」に書いてありますが、そこは大泉本では書かれてないし、なぜか大泉本では、編集は原稿を見もしないで「それでいこう」と簡単に決まったことになってます(どっちなんだ?)
「まんがABC」の中でも、自分はコメディーを希望したのに、編集が「二、三年はつづくよーなシリアスまんがを!」と言っているシーンを描いてます


他にもこれは「11月のギムナジウム」の話ですが、女学校バージョンも考えたけど「女学校バージョンは、ネチネチしてるんですね」と語っています(「少女まんが魂」藤本由香里、白泉社)、この話もあちこちで語っているようなのでご存知の方も多いのでは

一方、大泉本で萩尾さんは

『トーマの心臓』の連載を始めた頃、私はまだ何も気がついてはいませんでした。
 OSマンションに呼び出された時、「少年愛がわからないのに男子校ものを描かないで」と言われたのですが、そのすぐ後に「あの夜言ったことは全部忘れて、なかったことにして」と言われていたので、その時の誤解は解けたんだろうなあ、と解釈していました。

とあり、さも、「トーマの心臓」が竹宮さんの気分を害するなどと当時は夢にも思ってなかったかのように書いていますが、この記述はとても疑わしいと思います。本当は竹宮さんへの疚しさがあったからこそ、「みんなでお茶を」を描いたり、トーマ連載へ至る経緯を「まんがABC」で書いたり、「11月のギムナジウム」は男女逆にしてみたけどネチネチして無理だったなどと説明したのでは?

竹宮さんは1973年9月「週刊少女コミック」誌上の「1ページ劇場」で以下のような内容を書かれているようです。5ちゃんねるのレスをそのまま引用します(私が書いたものではありません)

736 名前:花と名無しさん [sage] 投稿日:2021/05/01(土) 23:46:42.78 ID:kQiFApNC0
新潮社 とんぼの本『竹宮惠子 カレイドスコープ』(2016)が部屋にあった
この本、持ってたんだ… 買ったことを完全に忘れていた
48ページに、1973年9月「週刊少女コミック」誌上の「1ページ劇場」に描いた元原稿の画像が掲載されている
なんと、制服にリボンタイのジルベールとセルジュ、それにクラスメイト達がフルネームを添えて描かれている
文章は手書きで、その一部を引用してみる
「私の好きでたまらぬ主人公たちは このままオクラいりするのでしょうか」
「思えば まるまる三年 私の胸ひとつに納まったままなのです ああ!」
「私をホモ趣味とお考え違いのひとたちよ、好きになったら 男であろうと女であろうと よいでは ありませぬか?」
「”ジルベール” の名を覚えていてください きっと描きます!!(執念!)1973. 9. 15」
当時『風木』の構想は、決して漫画家仲間や一部の編集者しか知り得なかったわけではなく、その一端は
一般読者に向けて公開されていたのだった
萩尾さんの『トーマの心臓』が同誌に連載開始されたのが、その翌年のこと
読者が「これ、竹宮先生が描こうとしていた、あの作品と似てるけど……」となるのは自然なことで、
大泉本にあった「噂の出どころ」って、単純にそういうことじゃないんだろうか?
(言うまでもなく、「1ページ劇場」は『トーマ』連載の前年に掲載されたものなので、盗作説を流布する意図などあり得ない)

【ワッチョイ表示】萩尾望都【63】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/1617406225/736

ということで、竹宮さんが「風と木の詩」の連載を熱望していたのは、読者なら誰でも知っていたわけです。そこに萩尾さんが「トーマの心臓」連載を始めたら、竹宮さんのファンがいい気持ちはしないだろうことは十分予測できたことでしょう。だから、仲良しアピールが必要だった部分もあったのではないでしょうか

私個人は、竹宮さんが先に「風と木の詩」を構想したからと言って、萩尾さんが「トーマの心臓」を描いてはいけなかったとまでは思いません。けれどその理由として「あの夜言ったことは全部忘れて、なかったことにして」と言われたから、とか、「排他的独占欲」という造語まで作って竹宮さんの精神性を批判したり、週コミ読者なら「1ページ劇場」を読んで、当然知っていた情報なのにその点には触れず、「竹宮先生がこれから描こうとしている作品の盗作だという噂」を「風の噂」とし、あえて噂の出所を曖昧にしたりと、自分をかばい、言い訳三昧なのはなんだかなーと思うのです

大泉本の『みんなでお茶を』についての説明は

 でも、好きなキャラクターだったので、動かせるかもしれないと思ったのですね。ネームまではできましたが、絵に入るとため息ばかりついてしまいました。このシリーズは続きがありましたが、以後、描いていません。
 ああ、私はやっぱり、今後は二人に会うのは無理だな、と思いました。
 それからは増山さんに手紙も書いていません。
 あちらからもいただきませんでした。

と続くのですが、唐突に「ああ、私はやっぱり、今後は二人に会うのは無理だな、と思いました」との記述が入る意味がまったくわかりません。だって当時、萩尾さんは増山さんとは絶賛文通中だったのですよ?

実際は、そんなことではなくて「トーマの心臓」の連載が始まって、それをきっかけに、増山さんとの文通が終わったのだと思います。さすがに、これは増山さんに看過できることではなかったでしょうから

私は、萩尾さんと竹宮増山両氏との友情が決定的に終わったのは、下井草での一件ではなく、「トーマの心臓」連載を萩尾さんが萩尾さんの意思で決めたことにあると思います
「小鳥の巣」だけなら、間にいた増山さんがなんとか取り持ってくれたように思えます
つまり、決定権は萩尾さんにあったと思うのです
もちろん、だからって萩尾さんが「トーマの心臓」を描くべきではなかったとまで言うつもりはありません
ただ、竹宮さんの受けた衝撃は大層大きく、とても辛かっただろうとは思います

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