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萩尾望都の人間性

(1)嘘をつくこと

かれこれ一年半以上も萩尾さんのやってきたことを見てきたわけですが、大泉本を読んで以来、私の萩尾さんへの信頼度は下がる一方です
大泉本を読んだ直後、その内容の醜悪さに驚きはしたものの、私はなんだかんだで萩尾さんは嘘がつけない人だと思ってました。というか、正直でしかいられないから、大泉本などという困惑させられる本を書いてしまったのだと当初は考えていたのです

1973年の「別冊少女コミック7月号」の「い~ものみつけた?モトちゃん」で、目の悪い萩尾さんを囲んで竹宮さん増山さんその他があれこれ言うシーンがありますが、もちろん、これは事実とは異なります。私はこのシーンが5ちゃんねるに貼られていたのを見てびっくりしました。この程度の「願望」ですら嘘は書けない人だと思っていたからです

その私の思い込みは以後、みるみると崩れていくのですが、萩尾さんが嘘をついたと思える代表例として

・「花と光の中」は昔から考えていたもの
・竹宮さんが「吾妻鏡」を描いたことを知らなかった

この二つは、これが嘘だとしたら、どちらも、自分を守るための嘘ということになります

「文藝別冊総特集萩尾望都」(河出書房新社)で、萩尾さんの実妹の和歌子さんがインタビューに答えているのですが、この中で萩尾さんが小さい頃、家の床の間の掛け軸にクレヨンで落書きしたという話が出てきます

父親が「誰が描いたの?小夜子か望都子か和歌子か?」って怒ると、3人とも「違う」って首を振る。それで「これは何を描いたのだろう?岩かな?」と掛け軸を見ながら父と母が首をひねっていると、望都さんが「あひるだよ」って答えて、それでバレて大笑いになったという話もあります(笑)。

これ読んで、「あひるだよ」と答えるあたり、実に萩尾さんらしいと思ったのですが、この時の「違う」と首を振る嘘も自分を守るためについてます。三つ子の魂百までもということでしょうか

一方、1977年「プチコミック創刊号」の「インタビュー直撃50問萩尾望都のすべて」の中で

⑭自分の性格をどう思いますか?
がんこですね。いったんこうときめたら、人が何といおうとダメ。それから小心。小心というのはウソがつけないから…バレるのがこわくて…

ここでは自分のことを「ウソがつけない」と語ってます。そんなことを私は信じませんが、「バレるのがこわくて」と言っているので、バレるデメリットと自分を守るために嘘をつくメリットを比較してメリットが大きいと判断したら、嘘をつくことに踏み切るのかなと思いました

(2)両親や権力者の言いなり

実妹和歌子さんのインタビューは他にも興味深いものがあって

望都さんの性格はとても“真面目”です。父から「これはこうだ」と言われると、まっすぐ受け止めて「そうしなくちゃいけない」と思うタイプ

ただ、私は望都さんのことを、親が「こうだ」と言えば「はい」と答えるタイプだと思っていたんですが、セリフのひとつをひらがなで書いたものをカタカナに直せと言われた時に、「これはひらがなじゃないと駄目なんです」と言って編集者とケンカしたという話を本人から聞いた時には、「この人は強いな」と思いましたね。

これを読んだとき、我が意を得たという気持ちになりました。私の考えていた萩尾さん像というのは

・基本、自分に関心のないことは親や権力者の言いなり
・コトが自分および自分の作品に及ぶ場合に限って徹底抗戦

というものでしたので。「ケーキケーキケーキ」に「タケミヤ、マスヤマ、ハラダ、イトウ? 少女漫画はこれでいいのか NO! やらねばならないことがあるはず……それは?……」とローマ字で書いてあるのなんてまさに、典型的。萩尾さんは本心では少女漫画革命になんか興味なかったんだと思います(ただし、自分に関係する部分は除く)。だからこそ、こんな具体性のない中身が空っぽの、単に竹宮さんや増山さんの歓心を買いたいだけ?と思わせるメッセージを自分のマンガに書いてしまえるのでしょう

両親や世間の言うことを疑いもせず信じていたというのは、萩尾さんの「結婚」に対する行動にも伺えます
1975年、「この娘うります!」の新連載記念として、「週刊少女コミック」に見開き2ページにまたがった萩尾さんの白いウェディングドレス姿のカラー写真が載っていたのですが、同じページに萩尾さんが台所で料理をしている写真が載っていたり、「望都先生をモトちゃんおよめさんにしたいな」とモトちゃんに言わせていたりと、国会図書館で読んでいた私は、これは一体なに?これはもしやマジでやってるの?と当惑してしまいました。料理をしている写真は同じ1975年の「女性セブン」の「少女劇画作家の華麗なる私生活」という記事にも載っていて、同じ小学館だから、同じ写真を使いまわしたのかと思ったら、違う写真でした。つまり二度もこんな撮影してるんですよ
萩尾さんが料理に対して並々ならぬ関心を持っていたとかならまだわかるのですが、「ストロベリーフィールズ」の中の伊東杏里さんとの対談で

伊東 萩尾さん、お料理得意ですか。
萩尾 だめです。
伊東 いま、どうしてるの?
萩尾 いまは、友だちが来てつくってくれる。(笑) ひどいんです。その人がいないと飢え死してしまうという生活を送っています。

と、はっきり料理がだめだと語ってます。なのに料理中の写真を二枚も載せた理由はおそらく「結婚」のためのアピールなんでしょう、驚くほど「素直」な人です
1975年と言えば、萩尾さんが26歳の頃で、当時としては結婚適齢期ど真ん中、「女性セブン」の「少女劇画作家の華麗なる私生活」でも「ただいま人気ナンバーワン!」「でも、早く結婚したいんです」と書かれてます
私はこの萩尾さんのよくわからない結婚願望は、単に両親がそれを望んだから適齢期なので早く結婚しなければと考えたに過ぎないと思うんです。まるで、小さな女の子が何も考えずに親や周囲の言葉を受けて「およめさんになりたい」と言っているかのようです

(3)双子

萩尾さんと言えば、双子が大好きで有名ですが、どうして双子が好きなのか、その心理がなんとなく透けて見えちゃうんです。萩尾さん自身も「思い出を切りぬくとき」でこう語ってます

私はむかしも今も、双子にあこがれていますが、それは、双子なら同じ魂 をもち、互いに無防備な他者であり私である関係が成り立つのじゃないかという、幻想があるからです。

と書いてますが、ようするに、自分を理解してくれるのは自分と同じ遺伝子を持つ双子の相手だけだということなのでしょう。だから本当に好きなのは一卵性双生児だけなんじゃないかな。二卵性双生児だとただの「姉妹」になってしまって、それだと萩尾さんには現実に二人も姉妹がいるけど、どちらも萩尾さんと理解し合える相手では全くなさそうなので

(4)他者へ対する配慮がない

これはさんざん今までも書いてきたことです。按摩の話とか、「スターレッド」の黒羽についての台詞とか、大泉本の内容の多くもそうですね
で、先日「この娘うります!」を読んだのですが、その中で、いつもサングラスをかけた男性がサングラスを外した時、主人公の女の子が詰め寄るシーンがあります

「わ ガチャ目どころか なんつー うるわし…」
「メガネとらなきゃだめよ あなた わたしあなたがガチャ目かと思ってたわ……!」

5ちゃんねるでこの話を書いたら、今は差別用語でも当時は普通に「ガチャ目」が使われていたとレスが来たのですが、べつに私はこれが差別用語か否かを問題にしてるわけじゃないんです
「メガネとらなきゃだめよ あなた わたしあなたが斜視かと思ってたわ……!」という台詞でも、無神経さには変わりないでしょう
しかし、なんでこんなネームが通ったのか?今では考えられませんね

余談ですが、「この娘うります!」は心底つまらないラブコメでした。
「トーマの心臓」の後にこれを読んだ読者はその落差に呆然としたのでは?
私がリアルで読んでいたとしたら、「トーマの心臓」のネームは萩尾さんではなく別人が作っているに違いないと決めつけていたと思います
萩尾さんみたいな、自分を客観視して自分を笑うことのできない人はユーモアセンスが独特すぎて、あまりコメディーを描くのに向いてないんじゃないでしょうか?

話を元に戻して、「他者に対する配慮がない」という点で非常に興味深い対談があります。「少女まんが魂」(藤本由香里、白泉社)です

マネージャー たとえば、クラスメートがタレントの話をしてるとしますね、今だったら、ジャニーズ系とか。すると萩尾さんはそれに興味がないから、それで話が盛り上がっている時に「それよりさぁ、SF読んだ」って答えるの。
藤本 (笑)。
萩尾 と言って、嫌われていた人(笑)。
藤本 でも、そこで「SF読んだ?」って割って入れるっていうところが、やっぱ、萩尾さんの健康さって言うか、強さだと思うんですよ。聞いているとなんか、私もたぶん似たような位置どりだったと思うんですけど。つまり、アイドルの話とか、あるいはテレビの話とかで、皆が盛り上がっているのに、なんか違和感がある。うまくそのリズムに入っていけないんですね。たぶん何かリズムが違うんです。ものを考える時の。
萩尾 そうですねぇ、リズムねぇ、うん。
マネージャー だから、昔はねぇ、私が「開放的自閉症」って言ってたわけ。
萩尾 あぁ、そうそう「明るい自閉症」って(笑)。なんで、自閉症っていうのかって言うと、これは、まあ、ギャグで使っているんですけど、要するに対人コミュニケーションにズレがあるっていうんで。
藤本 その時に萩尾さんのその明るさって、どこからくるのかな。私なんか、「自分が悪いんじゃないか」と思っちゃうんですね。「家庭内文化大革命」を経てきたからかもしれないけど。
マネージャー 私、思うんですけど、藤本さんは意外と他の人のこと考えているじゃないですか、ちっちゃい時から。でも、萩尾さん系統の人は、他の人の事情や都合をうまく考えられないんですよ。自分で精一杯だから。
藤本 (笑)。
マネージャー 萩尾さんは自分のことをまんがに描いて、それに共感する人が「先生なら私のこと、わかってくれますよね」ってファンレターをくれるけど、でも、どちらも魂の孤独はあるんですけど、じつは自分のことで精一杯。それが共感をよぶシステムなんですよ。萩尾望都の。

いつもいつも、マネージャーの城さんは、ここまで言っちゃっていいの?ってくらい核心を突いたことを語ってくれます
「萩尾さん系統の人は、他の人の事情や都合をうまく考えられないんですよ。自分で精一杯だから。」ですよ?つまり、「萩尾さん系統の人」(これもすごい言い方ですが)は自分のことしか考えられない自己中心的な人間だと言っているに等しいんです
だからこそ、萩尾さんの作品はそういった自分のことしか考えられない人(萩尾さん系統の人)から支持される、それを「共感をよぶシステム」って言ってるんです。つまり自己中な漫画家が描いた作品は自己中なファンにとっては最も「共感」できる作品ということになる、それを「共感をよぶシステム」と言い切っちゃってるんです!!!

「魂の孤独」というのがなんだかわからないのですが、城さんも何か高尚なことでも言わないとまずいと思ったのでしょうか、多分、本気で「魂の孤独」なんて思ってないような気がします
もちろん、すべての萩尾ファンが自己中だなんて失礼なことを私は思ってませんが、萩尾作品はどれも大好きという人は萩尾さんと相当波長が合うということなので、その傾向は強いのかなと思います

ということで、世界で誰より萩尾さんのことを理解していそうなマネージャーの城さんですが、「文藝別冊総特集萩尾望都」でやはり含蓄深いことを語ってます

 あ、そうだ。マンガはあんなに思慮深げなのに、それ以外のことに関して、この人には「考える」ということがないのかなと思ったことがありました。下井草に住んでいた頃、「ホットケーキを焼いてあげましょう」と言うんです。砂糖を加えると、昔のフライパンって焦げますよね、テフロンじゃないから、毎回焦げるんですよ。普通は、火加減とか分量を変えるとかね、やりそうなもんでしょう。でも、いつも焦がしたところをずっとこそいでいるんですよ。マンガ以外ではほとんどそういう感じです。ケーキを一回焦がしたら普通失敗だと思うんだけど、同じ事をまだやれる(笑)

ここで注目すべきワードは「マンガはあんなに『思慮深げ』なのに」です
「思慮深げ」って普通は言いませんよ。「あなたの書くものってなんか思慮深げだよね」って言われたら、私だったら「この人、喧嘩売ってるんだろうか?」って思うでしょう。はっきり「思慮深い」と言えばいいのに、なぜ「思慮深げ」という言葉を用いたのか?それは城さんは萩尾さんのマンガが思慮深いなんて思ってないからだと思います。どうしても嘘がつけなかったんだと思います

ただ、萩尾さんが多くの支持を集めたのは、萩尾さんのマンガが思慮深くなく、「思慮深げ」だったからだと思うので、「売れる」という点では大正解だったと思います。なぜ「思慮深げ」に見えるかと言うと、それは説明不足だからでしょう。たとえば「トーマの心臓」ですが、仮に

ユリスモール「サイフリートにえっちなことされたくて、お茶会に行ったんだよね、前の晩は眠れなかったよ、あんなことやこんなことされるのかって想像しちゃってさ。でも実際されてみると、神さまを裏切った想いのほうが強くなっちゃってさ、ああもう僕は翼がないんだなって」
エーリク「神様はその程度のこと気にしないって。なんなら俺の翼やるよ」
ユリスモール「ほんと?くれるの?いいの?ああ、神さま、僕は神の愛を知りました」

などという描写だったら、誰も感動してくれなかったと思うんですよ
もちろん「魂の救済」「原罪がどうこう」「究極のプラトニックラブ」なんて言ってもらえなかったことでしょう。たとえば「ポーの一族」も

エドガー「ああ、ぼくは人間の愛を求めているのだ、でもそれは決して叶わない……」

などというセリフを言わせていたら、これが萩尾さんが本当に描きたかったこととはいえ(西原理恵子の人生画力対決ライブ~萩尾望都SPECIALで萩尾さんは西原さんへ、エドガーは人間の愛に未練があるんですと語っているそうです)
おそらく読者はシラけちゃったと思います。「人間の愛って何を言っているんだろう?萩尾さんは何か考えて描いているのだろうか?」って疑問を抱かれた可能性もあります。というか私には「人間の愛」がなんなのかさっぱりわかりません。吸血鬼の「愛」とはなにがどう異なるのでしょうか

つまり、台詞が必要最小限で抑えられているからこそ、読者が好きに解釈して勝手に納得して勝手に感動してくれる、これがポーやトーマが幅広い支持を得た勝因なんだと思います

ただ、萩尾さんの場合、常に計算して台詞を考えているようにはあまり見えないんですよ。「トーマの心臓」と「ポーの一族」は奇跡的に上手く行った作品だと思いますが、「メッシュ」となると

「……どうしてオレはこんなにひとを憎めるんだ?…オレはいつだって……いつだって……あいつが……学校に来て……名まえを呼んで……くれるのを……待…」
「やさしい顔で…声で…呼んでくれるのを……そうしたら……そうしたら オレは飛んでかけていって…」
「“とうさん”って飛んでかけていって 首に抱きついて なん度も だきしめて キスして そうするんだって」
「そうする夢ばかり見て」

これが小説だとしてもここまで書くか?って思うほど台詞が過剰です
萩尾さんほど振り幅の激しい漫画家はちょっと珍しいのではないでしょうか
萩尾マンガはスロットマシンでも書きましたが、萩尾さんは自分の描いている作品を客観的に見ることができないのだろうか?と思えてしかたありません

ということで、長々と書いてきましたが、萩尾さんという人を一言で言うと「自分しか見えてない人」ここに集約され、ここに尽きると思います。萩尾さんの世界には萩尾さんしかいないと言い切っても過言ではないと思ってます。他者はぶっちゃけ「モブ」でしょう
5ちゃんねるで、「どうして萩尾さんは『自分は自分』でいられたのだろうか」と疑問を書いてた人がいたけど、これは逆で、萩尾さんはむしろ、「自分は自分」でしかいられない人なのだと思います。大泉本に

 ある時、「嫉妬という感情についてよくわからないのよ」と山岸先生に話したら、「ええ、萩尾さんにはわからないと思うわ」とあっさりといわれました。

といった記述があって、私はこれを読んだ時、なぜ山岸さんがこうも即答できたのかよくわかってなかったのですが、今ならわかるような気がします。
「嫉妬」というのは相手を自分と同じ一人の人間と認識することで始まるものだから、自分しか見えてない萩尾さんが嫉妬しないのは当然のことなのでしょう。主人公がモブに嫉妬するわけがないのです。逆に、竹宮さんは物事を「俯瞰的に」見る方らしいので、自分自身もそのうちの駒の一人に過ぎず、どうしても「差」が見えてしまうのは当たり前なのだと思います
そう考えると、「嫉妬」というのも必ずしも悪いことじゃないと思うんですよ。『城』では「シット石」は黒い石とされてましたが……

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