第二回笹井宏之賞永井祐賞受賞スピーチ

 こんにちは、橋爪志保です。このたびは、永井祐賞という素敵な賞をいただき、ありがとうございます。選考委員の皆様、関係者の皆様、短歌をつくる仲間の皆さんや、読んで下さる方、さまざまな方に心からお礼を申し上げます。
 受賞連絡の電話が来たとき、わたしは恥ずかしながら号泣してしまいました。自分の作品が認められたことが嬉しかったのか、たくさんの人に読んでもらえるという未来を想像して喜んだのか、それとも大賞を受賞できなかったことが悔しかったのか、今となってはよくわかりませんが、それでも涙が出てくるという、不思議な体験をしました。
 その後、いろいろな人に「おめでとう」という言葉をかけていただきました。その一つひとつが温かいもので、わたしはすっかり感激してしまって、また、涙ぐみそうになりました。しかし、わたしはその「おめでとう」という言葉は、実はすごく怖い言葉なのではないかと思っています。ひとは人生の中で、「おめでとう」と言われる可能性のあるイベントごとに出くわすことがあります。誕生日、入学卒業、成人式、結婚出産などなど、そして今の私のように何かの賞を受賞する機会もそれに含まれます。数々の特別なできごとに付随する「おめでとう」は、とてもまぶしいものです。まぶしいゆえに、その光の当たらない場所に、影ができるような気にさせることがあります。生まれてこなかった人、入学卒業をしなかった人、成人しなかった人、結婚出産しなかった人、賞をもらわなかった人が、そのまぶしさの影に入ってしまうかのような怖さを感じることがあります。わたしは今まで「おめでとう」のまぶしさを拒むことの多い生き方をしてきましたが、どこかでずっとおびえながら生きてきました。「おめでとう」が特別なときだけに使われる言葉であることが怖かったのです。「おめでとう」が少ない人生と多い人生、人によって差ができてしまうことが怖かったのかもしれません。
しかし、今、「おめでとう」のひかりを浴びて思ったのは、「おめでたさ」というのが、実はひかりなんかではなく、雪がしんしん降るように、みんなに降り注いでいるものなんだ、それが仮に嘘でも、わたしはそれを信じたいんだ、ということでした。「おめでたさ」は我々の人生に毎日毎分毎秒訪れる、たくさんの小さな、時に大きな戦いを、余すところなく祝福しています。また、生きているひとだけでなく、人生を歩むのをやめてしまった、死んでしまったひとにも「おめでとう」は言えることがあるかもしれません。また、もちろん人は自由でもあるので「おめでたさ」を拒む権利もあります。でも、「おめでたさ」はきっと、我々が思うよりも懐が深いものなのだと思います。我々は、「おめでたさ」から逃れられないのかもしれません。そしてそれはすごく恐ろしいことなのです。
 わたしは今こうやってスピーチをさせていただいて、「おめでたい」ことが顕著に表れているかもしれませんが、わたしは、今この場にいるすべてのひとに「おめでとう」を、毎秒、言いたいです。毎秒胴上げしたいです。もちろんその気持ちは拒んで下さっても構いませんし、受け取っていただいても構いません。わたしがひとりで思っているだけのことです。実際は毎秒は祝えませんので、ただ祈りを続けることになります。
 これは恐れをなしながらの祈りです。いえ、呪い、なのかもしれません。なぜなら「おめでとう」という言葉は暴力に他ならないからです。我々の頭上には暴力が雪のように降り積もっているのでしょうか。降っていると信じているわたしは加害者なのかもしれません。そのことがこわくてたまらなく、死んでしまいそうな日もあります。それでも、わたしは、すべてのことに「おめでとう」を言うために、短歌をつくっています。
 わたしは今回、たくさんの人に、「おめでとう」と言ってもらいました。「おめでとう」は暴力。にもかかわらず、うれしかったです。涙が出るほど、うれしかったです。不思議な体験をしました。
 このたびは本当にありがとうございました。


*この文章はコロナウイルス感染拡大防止のために中止となった第二回笹井宏之賞授賞式において話す予定だったスピーチの原稿全文です。
 

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