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寂寞の愛しさ

 空港行きの電車の中で、私はイヤホンをつける。一泊二日をともにしていた知人と別れたからだ。これからは一人で、誰かの言葉に耳を傾ける必要はないし、私から言葉を発する必要もない。雑踏の音に蓋をした時、どっと疲労が足元をすくう。ともすると歩けないと喚いてしまいそうな、かかとのひび割れそうな痛みは幻だ。私はまだ歩けるし、歩いてゆかねばならない。
 運良く座ることのできたシートは不自然に温かく、必要以上に身が沈む。深く、深く腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めた。東日本は日没が早く、窓は既に車内を反射する鏡と化していた。存在感のうすくなった車内と、人々の向こう側には、ぽつぽつと灯りがあるだけの暗闇が裾野をひろげている。だから当然何も見えるはずもないのだが、私はただひたすらにそれを眺めた。足先の痺れを感じながら。
 そうして、反対側の窓の反射を更に移した、逆さ文字の『国際線』のおおきな文字がゆっくり通り過ぎるのも、ただじっと眺めていた。


夜中にバスや電車に乗って移動するのがとても好きだ。寒い冬で、楽しんで楽しんで楽しみきった後、疲労の溜まった帰路だと特に良い。シートヒーターによって温められた足先や末端が、急激な温度差によってぶくぶくと膨れ上がっているのではと錯覚するほどに血流をどくどくめぐらせる感覚も好きだ。『死んでいないだけ』の気分を味わうことができる気がして、好きだ。この寂しさがたまらなく愛おしい。孤独感がたまらない。目の前に死が横たわっているようにも見える。ロープの上でダンスをしている気分だ。観衆のいない捨て鉢のダンス、そういう死と孤独と現在の生を味わえているようでとても好きだ。
そんなわけで突発的に思い浮かぶまま書いている。徹夜明けのテンションのようなものだ。私はイルミネーションというものがすこぶる苦手なので、光に逆行する油虫のごとく道中のイルミネーションストリートを迂回し暗がりの中をノソノソと帰ったりもしたがやはり帰路は良い。『帰りたくない』と『帰らねばならない』が共存するのが好きなのだ。

ともあれ、楽しみにしていた旅行が終わってしまった。仙台はとても良い街で、ひたすらに街歩きをしたがこんなにも公園があるのかと驚かされた。ひとつには震災の影響もあって現在の姿なのだろうが、それでも、より良い街へ・人のくらしのための街へ歩を進める街の姿そのものにとても好感を覚える。
ポジティブな話はとみに疲労していると覿面書けなくなるのでこれくらいにしておくが、とても良かった。画像は仙台らしさの欠片もない遊園地の身長制限告示パンダです。