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影を殴る

何かとアクシデントに見舞われることが多い。
更新していなかったここ数日の間にチンチラが家にやって来たわけだが、そこでもちょっとしたアクシデントがあった。

一度見学をし、その際にお迎えする子を決定した。その時に見せてもらったのは計3匹。いずれもスタンダード(グレー)である。その中でも比較的淡いグレーが特徴的な、穏やかでかつ好奇心旺盛な女の子に決めた。
のだが、再訪すると「実は…」と説明を受ける。何でも、女の子だと伝えていたが実は間違いで、私が決めた子は実は男の子だったそうだ。まあ別に性別は重要視していないし、見学の時に決めた個体を迎えたい。男の子でも問題ないですよ、と返答し、いざ対面してみると微かな違和感。
いや、色、濃くね?
ブリーダーさんの方が彼らをよく見ているだろうから、私の違和感の方が間違っているのだろう、と納得しようとしたがどうにもモヤモヤが残る。でも正直、指摘はかなり勇気が要る、というかあまりしたくない。しかしそれで良いのか。何しろ(当チンチラの)一生をかけた話なのだ。こちらとしても懸案事項はできる限り減らしていきたい。
などと考える頃には引き渡しの最終段階まで進んでいた。この上なく切り出しづらいタイミングではあるが、同時に最後のチャンスでもある。先方は男女両方を連れてきていたため、念のため女の子の方も確認したい、と伝えた。そして確認してみると、男の子と比べ淡いグレー。おっとりした動き。ずっと自分の目に自信がなかったが、間違いない。彼女こそが私の求めていた子だ!
更に話を聞いてみると、先方が帰宅した際、該当の二匹を行きとは反対のケージに入れていたらしい。あべこべに入れたということは私にもあべこべな説明をしていたのだろう、しまったぞ、と思ったそうで、紛れもなく偶然によるアクシデントだったことはまず述べておく。しかし何ともややこしい話だ。しかし、こういう一言で説明しづらいアクシデントは(おそらく)人より多く遭遇してきた。厄介な性質ではあるが、場慣れしている分いざ遭遇した時にはまあ仕方ないな、と思えるのは利点でもある。そう思わないとやっていられないのもあるが。

アクシデントに遭遇した時、怒りを覚える人が嫌いだ。
だからといって私自身、決して怒らないタイプではなく、何なら四六時中他人と日常にキレ散らかしている。ゆえに、少なくとも自分の中で、怒りがどんなものであるかはある程度知っているつもりだ。であるからこそ嫌だと感じる。第一、アクシデントという不可避の事態にあって怒りを覚えるのは非効率的で醜いと古今東西ありとあらゆる物語が示しているではないか。大切なものが脅かされているのは例外として、たとえば電車が止まって駅員に怒鳴る会社員を見て「ああ、自分もああなりたい」と思うだろうか。私は思わない。
そもそも怒りとは容易に他人にぶつけて良いものではない。怒りを他人にぶつける行為は紛れもない攻撃だからだ。攻撃するからには、攻撃される覚悟があるのだろうな、と怒りを他人にぶつける人を見るたび思う。言葉で攻撃したからといって言葉でやり返されるとは限らず、ともすれば物理的な暴力が待っているかもしれないのに、よく怒れるものだなあと。まあヒトとて動物の一種に過ぎないため、本能である怒りを抱くのは仕方ないと思う。しかしながらヒトが動物とは異なる『人』をみずから名乗る以上、ヒトは動物より秀でていなければならない。驕るならば、驕るに然る事実と責任を負うべきだ。動物は本能的にこみ上げた感情を(滅多に)コントロールできない。ヒトは知性を持ち、知性によって理性が生まれた。理性とは本能を律する能力である。こみ上げる感情をどうしても堪えきれない場面があることは認めるし、それがあればこそ人間は素晴らしいのだが、日常的に本能のまま感情を垂れ流しにしてあまつさえ他者を攻撃している人は、生物学的な意味でホモサピエンスである、としか定義できないよなあ、と思っている。



このような特定の誰かがいるわけでもないのに誰でもない誰かに対して嫌悪感をむき出しにして批判する行為を私はシャドーボクシングと呼んでいる。本来のそれと違って何のプラスにもならない恥ずべき行為、つまりは悪癖だ。チンチラの話をしていたのにうっかりまろび出てしまった、いけないいけない。
どうでもいいがアンガーマネジメントという言葉が流行するのに伴い、『怒りは二次感情』という言説をしばしば見かけるようになった。文脈を読むに、どうやらアドラー心理学を元にした言説なのだろう。一方で『プルチックの感情の輪』というものがあり、こちらでは怒りは基本感情(一次感情)とされている。アドラーは19世紀、プルチックは20世紀のれっきとした心理学者だ。どちらが正しいのかといえばどちらも暫定的に『どうともいえない』。心理学、とくに感情などといった、目に見えず、科学的に証明もできない哲学とニアイコールな自我の領域だからか、相反する説が普通に飛び交っている。アドラーを正しいと思うならそちらを支持すれば良いし、プルチックの方がしっくりくるならそちらを支持すれば良いだけの話なのだが、出典もなくさも当然のように紹介されるとそれが真実であると思い込みやすくなりかねないよなあ、と見掛けるたびに思う。

私は哲学も心理学も嫌いです。
チンチラはずっとかわいいよ。