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独身は孤独らしい

家を買うことになった、という最後の記事を書いて三ヶ月経った。
なぜこんなにも日が空いたのかというとやはり家を買ったからである。あれから無事どうにかこうにか契約にこぎつけ、引越しも完了し、未だ終わらない荷ほどきから目を背けながら、引っ越したらやりたかったことをこなすうちに一日が終わる日々を繰り返していたら三ヶ月が経過していた。『生活』というタスクに活動時間の大半を割いている今、いくらこなしても記憶に残らない一日を積み重ねていくことに虚無感をおぼえながら、「わたしは今丁寧な暮らしの体験版をしているのだ。これは贅沢なことだ」と言い聞かせている。実際受け取り方を変えるだけで多分充実感を得ることは出来るはずなのだ。そのつもりがないだけで。

また、家を買ったと吹聴して回ったところ、ありがたいことに友人が方々から物見遊山に来てくれもしている。向いていない生活と向き合わざるを得ない今、記憶に残るイベントはこれまで以上にとてもうれしく、ありがたい。昨日も友人が一人、某県から車をかっとばして来てくれた。私と同じく家を買うつもりだった彼女もまた無事物件を見つけたようで、引越しを機に結婚するのだ、と言った。
私はおめでとう、と純粋な気持ちで祝福を述べながらも、どこか寂しさをおぼえた。嫉妬ではない。羨ましさとも違う。では、この寂しさとは何なのか—―話が合わなくなっていく予感が、寂しいのだ。
三十代も半ばとなれば、同級生のいくらかは当然結婚し、それどころか子供がいることも珍しくなくなる。私の周りにもそういう友人がいたが、今は全員疎遠になってしまった。
もちろん、所帯を持てばタイムスケジュールも変わってしまうから、予定が合わなくなってしまったのもある。だが本当に会いたいと思えば予定なんていくらでも合わせることができるものだし、そう思った時に行動を起こしてきたつもりだ。
実際には、話がどんどん合わなくなっていってしまって、お互いに楽しい時間を過ごすことが難しくなっていっていったから、疎遠になった。予定が合わない、なんてものは言い訳に過ぎない。活動時間の大部分を、自分以外の誰かとの『生活』そのものに充てている彼女たちと、自分ひとりにだけ充てている私とでは、話が合うはずもないのだ。最初の頃は良いだろう。けれども、人生の核となる価値観のずれは、時間とともにその差を大きくひろげていく。私には子供の教育の話についていくことはできない。姑との折り合いの付け方を適切にアドバイスすることはできない。
結婚や出産よりも前に、社会人になってから話が合わなくなった友人ももちろんいた。それまでは学校という同じ空間にいて、同じコミュニティにいたからこそ通じた言い回しも価値観も、異なる業種・地域・コミュニティに所属すればだんだんとすれ違っていくものだからだ。実際、件の友人は社会人になってからワーカホリックのきらいに目覚めたため(そして私はまったく仕事に価値観を見いだせないタイプだ)、既に仕事の話においてはしばしば合わなくなってきてはいる。更に大きな差が生まれるかもしれない、ふとそう思ったとき、無性に寂しさをおぼえた。

インターネットの中で、孤独だと嘆く独身男性を何人も見た。
ニュースで報じられる、独身の孤独をいくつも見てきた。
60代独身女性の知人に「結婚した方がいい」と何度も言われた。
私は見るたび、言われるたびに思ったものだ。「独りが寂しいのは当たり前だろう」と。それくらいの感覚は覚悟の上だった。誰かと暮らすことができるような人間じゃないから、これから迫りくるだろう寂しさを全部呑み込んで、それでも独りでいるつもりだった。独りだからこそできることに目を向けて、精いっぱい楽しく生きてやろうと思っていた。
だが、なるほど、どうやら想像力が足りなかったらしい。
独身が寂しいのは、『独りだから』ではない。孤独さを嘆かずにはおれないほどの寂しさを抱えているのは、『独りだから』ではない。

周りはみんな変わっていく。変わらないのは私だけなのだ。
みんな変わっていくのに、
私だけが、
変わることができない、
それが『取り残された』ように思えて——さみしいのかもしれない。


まあ、確定しているわけではないことで嘆くのも馬鹿げているわけだが。他人を、あまつさえ友人を侮るなという話だ。
友人とは今後とも付き合っていくつもりだし、ありがたいことに本来減っていく一方といわれる友人は減ってもいるが増えてもいるのだ。充実していてなお『取り残される』と感じるのは自分が停滞しているからに過ぎない。たぶんアロマンティックだから結婚するつもりは毛頭ないと思っているが所詮は自認に過ぎないので将来的に誰かと同居しているかもしれないし、恋愛ではない関係性で同居しているかもしれないし、独身が即ち停滞と同義なわけもなく、停滞に伴う寂寞を抱くのは自分自身の停滞もまた原因だ。私の中の停滞とは『生活』に活動時間の大半を奪われている現在である。
とりあえず、生活に時間を割かなくてもいい暮らしを目指したい、できればあまり努力をせず、リスクも負うことなく、穏やかに。実現したら小説も書くがたくさんゲームしちゃうぞ。

画像は新居でケージクライミングをこなすチンチラです。
日々あまりにも元気が過ぎる。