OoAはリベラルじゃねえよ??リベラルを気取ったら「ネトウヨ」とも「レイシスト」とも仲良くしなきゃならねえだろ?

こんばんわ OoAの中の人です、とりあえず「OoA」という団体を立ち上げた本当の理由というのは「ネトウヨとか右寄りとかレイシストとかが死ぬほど嫌い!!!」という誠に「大人げない」と「ネットの人間が考えそうな」理由であります、そもそも「人権理念」の無い人間とはおつきあいを持たないほうが人生において「損」をしない事だという人生哲学に基づいてます そのように「人権理念のかけらの無い人間」から身を護るには連中を全否定するという意思表示をあらゆる場面で行うべきというのがOoAと中の人の考えです。

「リベラルなら差別主義者、レイシストにも寛容でなければならない」

最近、たまによく目にするこのフレーズ、実はよく考えると「リベラリズム」という思想概念というものはある意味「広く受け入れ深く考えない」という主旨に基づいているのではないのかと思う節がある、「あらゆる物事に寛容であるのが真のリベラリストだ」それはある意味「正論」であろうと思う、

そしてこの考えは「反差別」や「反ファシズム」と言った「自由の敵は敵」「不寛容に不寛容」という考えとは相反するのだ

「リベラリズム」というのは民主主義的で先駆的でもある、「寛容」を旨とする思想はいかなることを排除しない、素晴らしいと思いますよホント  しかし、「強さ」という部分はないんですよ、「寛容」はイコール「争わない」という事ですから、なので「強さ」求めたがる傾向の人間が行きつくところは大抵「極右」とか「愛国」とかになってくる、

「リベラリズム」とは「寛容」と「無責任」を意味するところ、そして

前記したが「リベラリズム」とは「広く受け入れ深く考えない」思考であると思う、これは何を意味するのか???? 例えば「リベラルなら差別主義者、レイシストにも寛容でなければならない」という考え、つまりこれは「差別主義者だからと言って社会から排除しないよ」と言って何もしないという意味に他ならない、その差別主義者が被差別マイノリティに攻撃をしても「自分には関係ない」という事を意味しているのだ、よくそういう人間は「自分たちも差別には反対です」というけど、一体差別の何か反対なのかがさっぱりわからない

そして挙句の果ては「もしかしたら被差別マイノリティの人らが落ち度があるから差別されているのでは??」と考えるようになってくるのだ、そうなったらもう「寛容なリベラル」から「陰湿な差別主義者」が一丁出来上がるという事だ

「寛容なリベラル」ではレイシズムやファシズムを止められない

実はこうした「リベラリズム」の限界は早くから議論されてきた、特にドイツでは民主主義国家でありながら「ナチスドイツ」時代の物は全否定されている、これは一見「リベラルな民主主義社会にあるまじき行為」と批判をする声があるが結局多様化、多民族化していく社会にドンドン流れていくのであれば結果的に「こうせざるを得ない」のだ、そうした多様化、多民族化する社会にレイシズムやファシズムが同居することが社会の深刻な混乱を招くことになるからだ、

差別をなくそうとか、戦争をなくそうとか、そういう大きいことを言う人ほど、争いが大好きだったりする。

なんか朝起きたら「内調バイト」のバカとかがぐつぐつ言ってるんですが、とりあえずもう少し文章構成力つけたほうがいいんじゃないの?

そもそも人間って「争い」大好きでしょう?そもそも極右とかネトウヨとか寛容じゃない生き物は争いがないと生きていけないじゃありませんか(笑

まあこちらはこういう争いより価値があるモノ、面白いものが判るから明日あたりネトウヨや極右が消滅してくれればいいのだ


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