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優しさと冷たさは見分けがつかない

事件や殺人が起きるわけではないのに、とても怖い小説を読んだ。
アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』だ。


今まで理想の人生を送ってきたと思っていた主人公が、とあるきっかけから過去を振り返り「自分の人生は本当にこれでよかったんだろうか?」と振り返る話だ。

今までの自分の生き方は正しいと思っていた。人のためを思って自分のことはいつも後回しにし、相手のことを考えて、良き母親、良き妻で常にあろうとした主人公。でもそれが全部思い込みだったとしたらーーー?

実はこの作品、読者はそのことに早い段階から気がつくことができる。

この作品の主人公、ジョーン・スカダモアは基本的に自分の方が相手より優れていると思っている。自分の方が若々しく、現実的で、冷静で、愛情深く、高潔で……だからこそ、だらしがない相手を見ると苛立つし、理想を言う相手には現実的な提案をしてしまう。


相手が傷ついていることには、全く気づかないまま。


どうやら、彼女は自分の考え以外はなかなか受け入れることができずに、否定までしてしまう。違いが在ることさえ許してもらえなさそうだ。
全く価値観というものの幅が狭すぎる。読んでて「あ、関わると疲れてしまう人だな〜」と思わせてしまうのだ。
しかも、物語はそんな彼女の見ている世界からしか語られない。ものすごくストレスを感じる文章を読まなければならない。なのに続きが気になってどんどん読んでしまう。

主人公の回想は傍から見ると、さりげない日常のワンシーンばかりで、相手が主人公に気遣っていることに初めは気付けない。でも、読み進めていくと主人公はナチュラルに相手を見下し、相手から助けを求められていないにも関わらず、自分の思い込みと先入観で「あなたのためにしてあげているのよ」という無言の圧力を態度で示していることが伝わってくるのだ。
でも彼女に悪気はない。

だから周りの人は言葉ではなく、態度で彼女から離れていくサイン、あるいは心の距離はとっくに離れているサインを出していくのだけど、無理やり「相手から頼ってもらえた」という実績を作ってしまった彼女がそのことに気づくのは、だいぶ後半に差し掛かってからだ。


内省していく物語の後半で、彼女は自分の過ちを認め、自分の夫に謝ろうと心に決める。自分自身で気づけた真実に不快感と、自己嫌悪を認めながらー。そのはずだった。


この作品を最後まで読んで、主人公をこんなに応援し辛い作品を読んだのは、いつぶりだっただろうと思ったが、ふとこのジョーン・スカダモアのように自分もいつなってもおかしくない、という恐ろしさが込み上げてきた。

ほんの少しの傲慢さ、自分を守りたいがために相手を否定すること、先入観で相手の価値観を決めつけ、勝手に世話を焼くこと…。
ジョーンに腹立たしさを覚えたのは、私が自分自身を変えることの難しさを感じているからではないのか?

周りがイエスマンしかいなくなった時、それは優しさではなく自分に対する諦めではないだろうか。
その時にすでに、相手の心は自分からとっくに離れているかもしれない。