エピソード4「月色時間」
「またね」って言葉は、あんまり使った事が無い。
と言うよりも使う相手が本当に限られていた。
ただ、彼女があんまりにも自然に「またね」って言うもんだから。
今考えてみたら、携帯番号を交換するでも無し(まぁ持ってなかったからどっちにしろ無理だったけど)、名前すらも聞かず、「またね」なんていっそ馬鹿げた話でもあったんだけど。
何故だか。
疑いとか違和感なんてものは無くて。
あれから数日経った僕の体はあの公園にあって。
目の前には正に。
彼女が居た。
あの時と違うのは、空に浮かぶのは細い三日月で、
彼女と一緒に猫が居ないって事。
「こんばんは」
声をかけずに、そのまま見ていたいような気がしたけれど。
すぅ、と夜の空気を吸い込んで、ほんの少し。
ほんの少しだけ、前よりも届くような声を出してみた。
「こんばんは」
振り向いて彼女は微笑む。
あの時と同じように。
そしてベンチの真ん中にあったその体を、左へとずらした。
僕のスペースを空けてくれたってことに気付くのは、そんなに難しい事じゃなかった。
「………………」
また、息を吸って。
右足から一歩。
そう遠くない距離を、踏み締めるように歩く。
前よりも近くで見る彼女は、あぁ、やっぱり。
月みたいだ。
「やっぱりまた会ったね」
「…え」
「座らない?」
「…………」
言われて、腰を下ろす。
手を伸ばせばすぐ触れられる位置。
触れるか触れないかくらいの肩の距離が、心地好いような居心地の悪いような、何とも言えない気分にさせていた。
「今日は、」
口の中が渇いている事に気付いて、唾を飲み下す。
「あの猫、一緒じゃないの?」
「うん。あれから一度も会えてないよ
この前、見つけられなくて残念だったね」
「…そうだね」
「でも楽しかった。アリスみたいで」
「『不思議の国のアリス』?」
「そう。兎じゃないけど、同じ白だし」
「確かに」
くすくすと笑う彼女は、あの時と少しも違わない。
ただほんの少し。
淋しそうに見えるのは、今夜が三日月だからだろうか。
ふっつりと会話が途切れて、静寂が流れる。
やっぱり気まずいような心地好いような不思議な感覚がして、横目に彼女を見ると、その瞳は月を見つめていた。
つられるように僕も月を見上げる。
「………月が、好き?」
「うん。太陽よりも、月の方が人間みたいじゃない?」
「…え?」
「満ちたり、欠けたり、どれが本当かわからなくて、でも確かにそこにあって……」
月を見上げる彼女の横顔を思わず見つめる。
ふっと笑って、彼女はぽつりと漏らした。
「今のあたしは、新月かなぁ」
痛々しい。
そんな言葉が、淡々と繰り返される毎日の中で生まれるとは露ほども思わなくて、僕はどきりとする。
痛々しい、微笑み。
「…あの、」
「あなたは、」
月から僕に視線を移した時には、また前と同じように微笑んでいて、僕は開きかけた口をつぐんだ。
そもそも、僕は何を言おうとしていたんだろう。
「夜が好き?」
「え………うん」
「うん。そんな感じがするね」
「…そう、かな」
「おんなじだね」
………おんなじ。
…久しぶりに、そんな言葉を聞いた気がした。
「君はこの公園が好きなの?」
彼女は今も笑いながら
「公園はどこでも好きよ。あなたもそうでしょ?」
と呟いた。
少し意地にも似た抵抗はあったが僕も
「あぁ。おんなじだ」
と答えた。
いつからか大事に取っておいた言葉をこうもあっさり使ってしまうくらい彼女は深くて近くて温度が似ていた。
色違いで匂いは同じ様に。
それから僕らは、いくつか話した。
幼い頃の事。育った街に遊んだモノ。
大切なあれこれに好きな物達。
夜の寒さが不快じゃなくて感覚が冴える為だけに広がるこの季節の深夜。
唯一の光源は公園の街灯だけ。
その黄色がまるで地面に溶けてるみたいに、そこには二人とベンチと木の影しかない。
こんな大好きな夜にこんなやり方で作られた影を見れる今を僕は心から贅沢だと感じた。
彼女が不意に可笑しな事を言ってきた。
目は笑わずにでも微笑んで。
「あの頃置き去りにした事が今、追い掛けて来ているの。あなたと会えたのは……それはあの時から予感はしてたから。もうじきここも変わってしまうわ。いや既にあなたと会えたって事はもう…」
そしてもう一つ。
彼女は僕に見た目よりも少し重い装飾品のようなものをくれた。
彼女いわく
「はっきりは忘れちゃったけど、何万年か前に宇宙を旅した人が持っていたもの」
と言ってた。
骨董品の類にはまったくの興味はなかったが嬉しかった。
彼女がくれたからって理由もあるが、なによりこれが無くさない限り無くならない僕らがこの公園で出会った事実を示す共通点になるから。
暗闇に白が混ざり夜の終わりを感じられるくらいになってきた。
ふとさっきの彼女の言葉の違和感に気付いた。
「あの…さっき何万年前って言ってたけど人類が宇宙に行ったのってせいぜい…」
と言いかけた時、物陰からニャーとあの日の白い猫が出てきた。
朝焼けよりも明るい真っ白な体を奮わせながらそっと彼女に近付く。
昇り始めた朝日の光に、その白い毛先がちらちらと光って見えた。
「おはよう」
猫は足元に行儀良く座って、彼女を見上げる。
その猫を膝の上に抱き上げて、彼女が言った。
「貴方ともまた会えたね。今日はいい日」
耳の辺りを撫でながら、彼女は微笑む。
聞こうとした言葉を遮られて思わず固まった僕の目に、猫の視線が重なった。
この公園の街灯と同じような、黄色の丸い瞳。
みゃあ、と一鳴きした。
「………おはよう」
彼女と同じように声をかけてそっと喉元に手をやると、ふんわりした感触と温度と、ぐるぐると鳴る喉の振動が伝わってきた。
僕と彼女は、目を見合わせて微笑む。
こんな感覚があるなんて思わなくて、くすぐったいような泣きたいような気持になった。
ただ過ぎていくだけだった時間を引き止めたいだとか、ただの一度も思わなかったのに。
日は確実に正確に、疑いようもなく落ちて、再び昇る。
「今」が途切れても途切れなくても、やっぱり僕は僕でしか居られないのだと。
その時なにかが、すとん、と心に落ちたような、そんな気がした。
「きっと貴方は、これからたくさんの宇宙を旅するね。それを持っていた人と同じように」
「…そうだ、さっき聞こうとした事…」
「宇宙はね」
にっこり笑って、彼女は真上を指差した。
「あそこの事だけを言うんじゃないんだよ」
肩から指先まですらりと伸ばした彼女の腕が、朝焼けに照らされる。
それから、彼女はその手を下ろして僕の右手を取った。
見ていたよりもずっと小さくて細い、僕よりわずかに体温の低い彼女の手の感触。
思いがけず触れられて、僕は一瞬息を呑む。
「貴方の」
そして彼女は、僕の右手を僕の胸に当てて、
「ここにもあるよ」
そして、にっこりと笑った。
開いた手の平に伝わるのは、僕が生きている事を伝えるリズム。
そういや、心ってのはどこにあるんだろう。なんてそんな事が頭をよぎったけど、とりあえず今はどうでも良かった。
ぎゅっと拳を握り締めて、それから手を下ろした。
「もう行かないとね。あたしも貴方も」
猫を抱いたまま、彼女はゆっくりと立ち上がる。
ベンチから二歩離れて、僕に背を向けた。
彼女の瞳が見えない代わりに、肩に手をかけている猫の顔が僕を見ていた。
「………あの」
「追いついたら、また会えるよ」
「…………え?」
「ずっと会いたかったから」
さぁっと風が吹いて、
彼女の髪を揺らした。
風に導かれるように彼女が振り向いて笑いかける。
「またね」
耳朶に心地好いその声にそっと目を伏せて。
それから顔を上げて、僕も言った。
「またね」
それから彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑って、僕の前から遠ざかっていった。
時間はすっかり太陽のものだった。
辺りは明るく白く眩しい。
月みたいな彼女と、月のような時間。
左手に握った物が、夢じゃない事を告げている。
目を閉じて感触を確かめてから、それを大事にポケットにしまって、僕も立ち上がった。
あの言葉通りに、僕はまた彼女と会う事になるけど、それはまた別の話だ。
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