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「稼げる公園」は公共の瓦解と人間をつまらなくさせる

今日、地元である墨田区の川沿いに広がる隅田公園樹木伐採計画始め、トイレの一部削減や、民間資本(東武)をいれての公園開発について行政職員、区議、都市工学の有識者をお招きした講演会に参加しお話伺った。

特に、埼玉大学名誉教授の岩見氏による講演は、はっと気付かされることが多かった。もちろん気候変動などもあるが、何より「公共」の欠如による個人の疎外、生きづらさが更に加速するのではと懸念している。また、公園だけでなく個人商店を潰して金太郎飴みたいなショッピングモールの乱立など、他の施策にも共通するだろう。

ただ、個人的に複雑なのが、この隅田公園のイベントスペース(通称「そよかぜ広場」)で地元クリエイターの集まりのメンバーとしてイベント実施に加わっていたりするので、全く資本が撤退(見込みは低いと思われるが)したらどうなるのかも想像がつかないことだ。

そよかぜ広場。アスファルトは管理は簡便とはいえ、暑さと寒さで不快度指数は高い。

イベントスペースができる「そよかぜ広場」は、アスファルトとなっているが夏は本当に暑く、2時にイベントの準備しているだけで熱中症になってもおかしくないぐらいだった。背後はテナントが入っており、木陰は数メートル歩いたところに集中している。岩見氏によれば、高温多湿な日本においてアスファルトはふさわしくないと言う指摘は極めて同意である。

講演で特に印象に残ったのは「賑わい」のマジックワード。今話題沸騰の神宮前再開発や、既に再開発行ってしまった渋谷の宮下公園など、PFI法(2017〜)のもとに一部をカフェなど民間資本になり、お金を払わないと、消費者にならないとその空間にいてはいけない、という仕組みになってしまっている。経済的な事情で子どもを遊ばせたくてもできない、そういった人が排除されてしまう。それが公共にあるというのは、不均衡ではないか。
そして、当たり前だが企業は有限であり、未来永劫続くとは保障できない。いざ経営不振で撤退するとなった場合、元の姿、誰もが思い思いに憩いができるのかと言う懸念も生じる。 

樹木伐採のもうひとつの争点、トイレ削減というのも、排泄という健康には欠かせない行動を制限するという、極めて危険な行為ではないか。生理的欲求なのでいつトイレに行きたくなるか誰も予想つかない。その時に必要なのが公共トイレではないだろうか。特に子どもやお年寄り、障害のある方などは可能な限り、今いる場所or近い場所にアクセスできるよう配慮が必要だ。

岩見氏はイギリスの事例を話されていたが、ロンドンのハイド・パーク、NYのセントラルパークなど散歩してみてもあるのはベンチと樹木、遊歩道のみ。「ただ、そこにいるだけ」の時間を楽しんでいるし、リフレッシュしているように見える。世の忙しない情報をシャットダウンできる、本当に癒しの空間だ。

動線を半ば固定化させることで、消費行動のパターン化、自分でクリエイティブに遊んだり、余暇を楽しんだりする余裕がなくなってつまらない人間になってしまうなあ、というのが全体を通しての感想だ。
既に仕掛けられたパターンで満足し、その枠からはみだそうとしない。それは、日本の同調圧力を更に加速させ、苦しいものにさせやしないかと懸念している。

学生時代、当時まだ新しい分野の「コミュニティデザイン」という専攻で卯月盛夫氏にまちづくりや道路などの公共事業などについて学んだ。その時にも、誰もがいつでも、どこでもアクセスできること、自分らしく過ごせる空間を作ることが第1というお話が蘇ってきた。それが最後、岩見氏は「固有名詞で公園づくりをする」と仰ったことに繋がる。ただ「賑わい」という漠然とした言葉ではなく、誰のために、を明確にし、グランドデザインとして公園とはどうあるべきか、を議論するのが第一である。形式やTPOに合わせた行動が学校や職場などあらゆるところで求められている分、公園はそれがないエアポケット、空白から何か生み出す、偶然性に満ちた素敵な場所になれることを願っている。

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