新しさへの認識、自殺への感覚を改めよう


名前は控えさせて頂くがメディアでLGBTQの代表的なキャラクターであった某タレントの自殺した事件について感じたことを書く。
ご冥福をお祈り申し上げます。

記事の前提

記事の前提として、自殺を選んだその某タレントを指す文章に適切な人称代名詞が彼または彼女という男女の2択でしか表現できず、性別を排除したそのひと個人を表現する適切な人称代名詞が見つからないため、ここではその某タレントのことをAと呼ぶ。そしてそのパートナーであった人物をBと呼ぶ。
(性別を排除した特定の個人を指す日本語が今後必要だと思う、「あの人」でも良かったがこの言葉では記事がわかりにくくなってしまうため)


“新しさ“を確認

AはBと共にユーモアなカップルタレントという切り口でメディアで注目され後2人は結婚しその間に子どもをもうけた。

そしてその後2人は離婚した。
AとBは離婚した際 SNSで“新しい家族としての在り方“としてその後の関係を公表していた。
ただそこに世間が向けた目はステレオでしかなかった。

Aに対して既存の「〇〇な男」という枠組みでしかその関係を確認することができなかった。

Aが提示したBそして子どもとの“新しい家族“を暖かい意味での放置的な確認、許容を世間は怠っていたと当時は感じた。

AとBの離婚は2人が苦渋の末辿り着いた2人の落とし所で世間はその考えを静かに尊重するどころか2人の公表を身勝手に捻じ曲げ理解し非難を浴びせた。

Aの公表は紛れもなく“新しい“ものであったと当時感じた。ただそれに向けられた目が“古い目線“が多かったためAB2人の意思は世間にねじ曲げられてしまった。とても悲惨なことだったと思う。
新しいものに古い目を向けるままでは新しくなれないと思った。

自殺をあらためて考えよう

著名人の自殺が少なくない今日、故人を悪くいうなという暗黙の風潮に違和感がある。

自殺してしまった原因を考え悔い改めようとする態度は正しいことだけど、自殺してしまったその人の死を通して今一度その人の行いを振り返ることも間違いではないと思う。その結果正しいことではなかったよねと結論に至ることに悪いことはないように思う。
SNSに見られる世間の自殺に対する感覚、対応は大雑把で豊満的なものなのではないかとここ最近感じる。

仮に安楽死法が導入されて死を選ぶ権利をポジティブに与えられ、安楽死と自殺の境界線が問われると、安楽死にしろ自殺にしろ、自ら死を選ぶ人への感情、感覚、対応は大きく変わるだろう。

安楽死が選択肢として無い今だから、自殺へ感じるイメージをあらためて考えたいし、そこにつきまとう暗黙の風潮についても考えるべきだと思う。

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