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数多くの伝説を残した当社御祭神「小野篁(おののたかむら)」という人物

当社、小野照崎神社おのてるさきじんじゃの御祭神である小野篁おののたかむら卿は平安時代初期を生きた実在の人物でもあります。

そんなたかむら卿は、卓越した政治家や歌人としての能力だけでなく、井戸を通って冥界へ行き閻魔大王の副官をしたり、狩野派から絵画の神と称えられたり、唐代の漢詩の達人である白居易(白楽天)とのつながり等、しばしば“人間離れした存在”として語られてきました。

今回は、そんな小野篁おののたかむらという人物についてのお話です。


◆伝説を作り続けた「小野篁おののたかむら

芸能・芸術・仕事の神様として広く信仰がある篁卿。

御孫みまごには「和様わようの書」を開いたともいわれる書聖しょせい 小野道風とうふうもおりますが、篁卿自身も後世の手本となった程の能書家のうしょかであり、文筆にも優れた方でした。

漢詩全盛の時代に漢詩は「日本の白楽天はくらくてんと称され、和歌も参議篁さんぎ たかむらの名前で『百人一首』にもせんされるなど歌人としても活躍。
六国史の1つである『文徳実録もんとくじつろく』にも「その文才は天下無双」と記されています。



◆若き日の小野篁おののたかむら

篁卿の父である 小野岑守みねもりは漢詩に優れ、時の天皇であった嵯峨さが天皇の侍読じどくも務めた懐刀ふところがたな

偉大な父に続くものと期待を受けていた篁卿ですが、弓馬に夢中になりすぎてしまい嵯峨天皇に嘆かれます。

10月に授与している「文武芸道」特別御朱印

そこで一念発起した篁卿!
18歳を過ぎて勉強をはじめ、わずか3年あまりで当時最難関であった文章生試もんじょうしょうしに合格してしまいます✨

しかし、ここで話が終わらないのが神のくらいまで至った篁卿の、篁卿たる由縁です。

わずか3年で文章生試に及第きゅうだいしたばかりか、その後すぐに藤原南家の大臣の姫君と学生のうちに結婚することとなります…!

上級貴族である藤原家の大臣が、身分も低い大学寮の学生を娘婿に迎えることは考えられないこと。

当時の求婚は和歌を直接相手に贈ることが常識でしたが、篁卿は父である右大臣に漢詩で書かれたラブレターを贈り、自身の才能を認めさせるというウルトラCを実現し、不可能を可能に変えたのです。

また、この時のラブレターは、「奉右大臣書(右大臣に奉る書)」というタイトルで『本朝文粋ほんちょうもんずい』という 平安中期の勅撰ちょくせん名詩名文集に収録され、後世に残るプロポーズの模範文として世に残ってしまうという嘘のような本当の話…!

本朝文粋(巻七)

学生がくしょう小野篁おののたかむらまことおそまことおそれてつつしみてもうす。

本朝文粋(巻七)

ここで書を送る右大臣とは、天皇を助けて政治を行う、左大臣の次に位する役職です。ただ、この時篁卿が結婚を申し入れた相手の父親である藤原三守は、この当時まだ権中納言であったという説もあります。

いずれにせよ、まだ学生の身分でありながら分不相応な相手に対し、結婚の申し入れを行った篁卿は、考え抜かれた渾身のラブレターを書くことで豊かな才能や自身の高い志を認めさせたのです…✨

このことにより篁卿は、二十歳そこそこという若さで、漢学者・漢詩人としての一歩を踏み出したと同時に、「上級貴族の娘婿むすめむこ」という、貴族としての生活環境も手にいれました

篁卿が弓馬のあそびにのめり込み、勉強をしていないところからの3年での及第(合格)は、誰もが耳を疑う前代未聞のことだったようですが、当社の御配神である菅原道真公も、この時代から約50年後の文章生試にわずか18歳で合格したという歴史的な記録があります。

自宅で私塾を経営する代々受け継がれた学問の家に生まれ、幼少の頃から学問に励み、その後33歳になると、学者として最高の位である文章博士もんじょうはかせになられます。さすがの「学問の神」道真公ですね…!

そんな篁卿は、嵯峨天皇の大のお気に入りでもありました。

小野篁 広才おののたかむら こうさいのこと


ある日、"内裏だいりに立てられた謎の高札こうさつ落書らくしょが世間を騒がせる" という事件が起こります――。

内裏内に人目につくように設置された札には、「無悪善」と書かれておりましたが、この意味深な「無悪善」という言葉を宮廷のほとんどの人は理解できずにいました。

嵯峨天皇に呼び出された篁卿は、「無悪善」の「悪」の字は「さが」とも読むことに気付いて「悪(さが=嵯峨天皇のこと)無くて善からん」と読み解きますが、天皇を批判する文章を御前で読み上げるわけにはいきません。

「構わぬから申せ。」

と何回も嵯峨天皇が仰せになられるので渋々申し上げると、やはり「これは、機知に富んだお前以外に誰が書けるというのか?(誰も書けまい)」と、篁卿自身が疑われてしまうという窮地に立たされてしまいます。

そんな篁卿に、嵯峨天皇は「ある難題」をつきつけます。


◆「子」が12個…一体なんて読む?


「子子子子子子子子子子子子」

嵯峨天皇は、全部で12個の「子」で構成された短文を篁卿に読むよう命じました。

難題ですが、ここで読めないとなるとますます嫌疑が強まるといった状況にも、さすがの篁卿。

子は「ね・こ・し」と読めるので、それを組み合わせて「猫の子、猫。獅子の子、獅子」と読み、ピンチを切り抜けたのです✨

嵯峨天皇も篁卿の解釈を聞いて笑顔を見せ、この件は穏便に収まったのでした。

この事件が起こったのは篁卿が若干22歳のこと。
この若さで、時の天皇相手にここまで機知を働かせられるのは流石、といったところですよね✨篁卿の人間離れした才能と所業を裏付けるエピソードのひとつです。

◆漢詩の腕前に「日本の白楽天」と称えられた篁卿

また、平安時代の説話集である『江談抄ごうだんしょう』にも、小野篁卿と嵯峨天皇の関係性が伝わる逸話が記されています。

嵯峨天皇が戯れに本場の唐で一世を風靡ふうびした漢詩の名人であった|白居易《はくきょい》の詩の一文字を改変して篁卿に示したところ、篁卿はその一文字のみを元の文字に添削して戻したというもの。


小野篁卿は「日本の白楽天はくらくてん(=白居易のこと)」であると本の漢詩の歴史の中でも最大級の賛辞を受けた詩人でもありました。

当時漢詩全盛期の日本でもっとも愛好されていたものこそ、白居易はくきょいの作品であり、平安貴族たちは白居易はくきょいをお手本にして漢詩を作っていました。

そんな同じ時代に生きた篁卿と白楽天、実は白楽天は篁卿が遣唐使に任ぜられたことを伝え聞き、彼に会うことを楽しみにしていたそう。(江談抄より)

また、篁卿が遣唐副使になった際にはこんなエピソードが。

◆小野篁卿の傑出した才

当時は、最先端の唐(中国)の文化を取り入れるべく、様々な才人が遣唐使として送られましたが、篁卿も芸術芸能の才を評価され、遣唐副使けんとうふくしの命を受けます。

渡航を試みるものの二度にわたり失敗、その翌年、三度目の航海の際には遣唐大使の第一船が損傷し、篁卿が乗船予定だった第二船を第一船と取り換えて乗船するという事態に見舞われてしまいます。

その際、渡航のリーダーである大使の、部下に損害を押し付けるような振る舞いに怒った篁卿は猛抗議。持病と老母の世話を理由に、損傷した船への乗船を拒否してしまいます。

それだけにとどまらず、京に戻った後も、怒りに任せて西道謡さいどうよう』という漢詩を作り、遣唐使は時代遅れだと朝廷を痛烈に風刺します。

結果的にこれが最後の遣唐使となるのですが…それはそれ。
この歌を知った嵯峨天皇は、看過ならぬと篁卿を島流しの最高刑である遠流おんるの刑にしょされてしまいます。

ただ、そんな時にも伝説を残しているのが小野篁卿。流刑るけい地の出立しゅったつ時に詠まれた歌がこちら。

「わたの原 八十島やそしまかけて ぎ出でぬと 人には告げよ 海人あまの釣り舟」 

【訳】(篁は流罪の刑を受けて)大海原に広がる島々を目指して、漕ぎ出して行ったと都の人々へ伝えてくれよ、漁師の釣り船よ

私のことを問われたなら、自らの信じるところに従って大海原を漕ぎ出したと伝えてほしい…と堂々と自らの行いに胸を張った旅立ちの歌は、参議篁さんぎ たかむらの名で『百人一首』に撰されています。

また、配流の道中に詠まれた『謫行吟たっこうぎん』という七言十韻は京の都で大流行。その壮麗な文章と優美深遠ゆうびしんえんな趣きに、漢詩に通じた者で吟誦ぎんしょうしない者はいなかったという伝説が今も残されています。

この自らの悲運すらも和歌に漢詩に昇華させていく才能は、非凡というしかありません…!

篁卿は配流の中にあっても、卓越した詩歌を歌い続けることでその才を世に示し続けることで、1年2か月という早さで流罪を解かれることになるのです…!

その後も政務では、律令りつりょうの解説書である『令義解りょうぎのげ』の編纂に深く関わり序文を執筆するなど法律に精通し、参議という国の要職(閣僚)も務めるなど、晩年まで3代にわたる天皇の寵愛を受け、その卓越した能力を評価されました🎵

余談ですが、小野篁卿は最初の遣隋使けんずいしとして、日本の外交の先駆けとなった小野妹子の子孫にあたります。

小野妹子の子孫である篁卿が最後の遣唐使に選ばれ遣唐使を最終的に廃止したのは当社御配神の菅原道真公と、なんだか運命めいたものを感じてしまいますね…🎀

また、他にも篁卿の御子孫や先祖とされる人物には、小野おゆ、小野小町、小野道風、小野好古よしふると歴史に名を残す多くの才人がいらっしゃいます。

篁卿の血縁者に関するお話はこちらもご覧ください🎵

「花の色は 移りにけりな いたづらに~」の歌を詠んだ
篁卿の御孫とされる小野小町。

和様の書の礎を築いた「書の三蹟さんせきのひとり小野道風は
花札の絵柄にもなっています🎵

篁卿と道真公の御縁をつなぐ大宰府の「曲水きょくすいえん
宮中での道真公の往時を偲んで創始したのは小野好古よしふるです。


◆あの世とこの世を行き来する篁卿

京都市東山区にある六道珍皇寺ろくどうちんのうじには、小野篁卿が冥界と現世を行き来するのに使っていたと伝わる、二つの井戸があります。

参議も務め法律にも精通していた篁卿は、閻魔大王からも卓越した政務能力を乞われ、「冥途めいど通いの井戸」と「黄泉よみがえりの井戸」を通って現世と冥界を行き来し、昼は政務・夜は閻魔様の副官として冥府の裁きを行ったという伝説が残っています。

閻魔大王坐像えんまだいおうざぞう(重要文化財 六道珍皇寺蔵)

伝説では篁卿のよき理解者であり、よき庇護ひご者でもあった藤原良相ふじわらのよしみが病で命を落とした際、冥界の裁判官として良相を救い上げ、生き返らせたというエピソードがあります。

この六道珍皇寺の閻魔堂には、篁卿の作と伝わる「閻魔大王坐像ざぞう」と、重要文化財指定を受けているほぼ等身大の「小野篁卿立像おののたかむらきょうりつぞう」が安置されていますので、お立ちよりの際は是非ご覧ください♪

まさに人間離れした多動の神である篁卿。
そして、その類まれなる才覚から、今も歴史に残る数多くの伝説が残されました。

当社では学問、芸術、芸能、そして仕事のあらゆる側面において、広く信仰を捧げる神様として小野篁卿をお祀りし、卿とその子孫・祖先たちも日本の文化や歴史において多くの影響を与え、今なお多くの崇敬を頂いております。
是非御神前ごしんぜんにて篁卿の存在を感じていただき、緑あふれる穏やかなひとときを過ごしください。


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