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「曲水の宴」が示す時代を超えてつなぐ縁

季節はめぐり、境内では八重桜が咲き誇っています😊
境内も早々にさくら🌸から新緑の季節へと移り変わりつつあります…🍃

今月の「桜花」特別御朱印のモチーフとなっている曲水の宴きょくすいのえん

平安の貴族文化を今に伝える優雅な行事なのですが、あまり馴染みのない方も多いのではないでしょうか。

当社御配神・菅原道真公との縁も深い「曲水の宴」。今回はそんな「曲水の宴」についてご紹介します…🎵

「桜花」特別御朱印を含む、今月授与している御朱印についてはこちらのページをご覧ください。


◆曲水の宴とは

曲水の宴とは平安時代に流行した貴族文化の歌会を伴う行事です。
ルールは曲水の庭園の上流より流される酒盃が、自分の前を過ぎる前にお題に沿った和歌を作り、お酒を頂くというもの。

色とりどりの平安時代の装束を身に付けた参加者が庭園の鑓水やりみずの流れに沿って座し、和歌を詠み交わす光景はまるで平安時代にタイムスリップしたかのよう…🎵

桜花特別御朱印でも、しっかり朱盃が流れています

優雅に見えるこの行事ですが、制限時間内に和歌を思案して詠みあげる瞬発力が求められる、高い競技性も魅力です。

関東の方は馴染みのない方も多いかもしれませんが、上賀茂かみがも神社(京都)や毛越寺もうつじ(岩手)、太宰府天満宮だざいふてんまんぐう(福岡)などで再興されています。

そんな曲水の宴ですが、当社御配神の菅原道真公とは並々ならぬご縁がある行事です。

道真公は生前、右大臣にまで上り詰め、朝廷内で栄華を誇った藤原氏に匹敵するほどの実力を有したものの、最期は政争に敗れて大宰府に配流されてしまいます。

失意の中、無実の証明を果たすことなくご生涯を終えられた道真公の御霊みたまを慰めるべく、ご墓所として太宰府天満宮が創建されました。

都から遠く離れた太宰府でも往時の楽しみをと、道真公の御霊を宮中の文化でもてなし慰撫しようと、ご墓所である太宰府天満宮に於いてはじめられたのが、「曲水の宴」というわけです。


◆小野家と菅原家の深いつながり

そんな「曲水の宴」の創始には、当社の御祭神である小野たかむら公と御配神の菅原道真公との深~いご縁が関わっています!

篁公と道真公は生年で50年違いますがご縁が深く、累代の様々関わりがございます。例えば、篁公と道真公の父である菅原是善これよしは、同じ東宮学士(皇太子付きの教育官)として同時期に任ぜられ、年齢は離れているものの互いの才を認め合って深く交流をしていたと『三代実録』にも記録が残ります。

小野篁像『集古十種』より

篁公の御孫には道真公と並んで「書の三蹟(三聖)」と名高い小野道風みちかぜがいますが、日本の書道史を体系的に論じた初めての本である『入木抄じゅぼくしょう』では「聖廟以後野道風相続す。此の両賢は筆体相似たり」とも記述され、道風は道真公の書法を継承し、和様の書を開いたとも考えられていたようです。

醍醐天皇は延長4年(926年)興福寺僧 寛建かんけんの入唐の際して日本の文士文筆の極を示すべく、道真公らの漢詩とともに道風の書を携行させたとも伝えられています。

現在も観世音寺の宝蔵には道風書の扁額が納められていますが、奈良~平安時代にかけての古代小野氏は、初代遣隋使である小野妹子から続く外務外交が家職であり、外交窓口であった大宰府とも深い関わりがありました。

大宰府政庁の近くにある観世音寺の宝蔵には、今も道風書の扁額が納められています


また、道真公と同じ時代を生き親交のあった小野美材よしきは、年代は違いますが好古と同じく篁公の御孫で、当時傑出した詩文・能書の達人とされた人です。

道真公の漢詩集である『菅家文章かんけぶんそう』には、若かりし学生の美材に向けて、その並外れた才を伏龍に例えて讃えた、未来を照らし学問の励行を促すエールのような歌が残されています。

その後、美材は三筆と並んで内裏西側三門の扁額を奉ずるなど、その才能を開花させますが約40歳の若さで早逝してしまいます。

大宰府の地で美材の逝去を知った道真公は「真の詩人、書の達人を失った。これで詩文の文化は衰えてしまうだろう」と歎き悲しんだと『菅家後集かんけこうしゅう』に残ります。

非藤原家系で篁公の時代からの親交のある家同士であり、両家ともに詩文や能書をはじめ、学問や芸術芸能に深い造形の深い家柄。
小野家と菅原家とは通じるものが多くあったのかもしれませんね…!


◆「あおによし」が指す「花」

小野妹子の孫である毛野けぬの大宰大弐 初任から、おゆらを経てたかむら公の父 岑守みねもり、子の葛絃くずお、孫の好古よしふるまで幾代にも渡り、10余名もの小野氏が大宰府政庁の実務長官である大宰大弐や小弐を務めています。

小野氏と大宰府とのかかわりの中でも象徴的なものとして、大宰大弐だざいだいに 小野おゆが大宰府の地で詠み『万葉集』にも採られた青丹あをによし 寧楽なら京師みやこは 咲く花の 薫るがごとく 今盛りなり」という歌があります。

今月の「あおによし」特別御朱印のモチーフ元となる当時の奈良の都の様子を最大級の褒め言葉で詠んだ歌ですが、こちらの記事にも時代ごとの「花」の解釈を取り上げたように、「花」は時代ごとに移り変わるもの。

時代背景を踏まえると、藤原氏がいよいよ政治の実権を完全に手中に収めて占有しようとしていた時期に詠まれた和歌であり、それを詠んだのは非藤原氏系の官僚で上司・大伴旅人とともに九州・大宰府に左遷され、その官歴の多くを大宰府で過ごした小野老おののおゆ

ということですから、ここで表す「花」とは藤=藤原氏を指し、一見は奈良の様子を讃えながらも、彼らの政治的独裁や、遠く離れた都への望郷への悲哀を嘆いた歌でもあるのです。

こうして「あをによし」の歌は、小野氏が大宰府で詠んだ奈良の隆昌と美しい風景を想い描いた切ない望郷の歌として、歴史の中にその名を刻んでいます。


◆「曲水の宴」と天神さまの御縁

前述の小野道風みちかぜには、篁公と同じ「参議」に列せられた武闘派の小野好古よしふるという兄がいます。

好古は武官として藤原純友の乱を鎮圧、大宰府政庁を守り抜き、その後も大宰府の長官を三度にわたって務め上げ、道真公の往時を偲んで当時宮中で行われていた「曲水の宴」と「残菊の宴」を太宰府天満宮にもたらしました

都から遠く離れた太宰府でも往時の楽しみをと、道真公の御霊を宮中の文化でもてなし、慰撫しようとした好古。

実は、篁公の三男で好古の父にあたる小野葛絃くずおは、道真公が流刑に処された時の大宰府政庁の長官大宰大弐だざいだいに)でした。

葛絃くずおは、「配流された道真公への処置が行き過ぎている」と朝廷に上奏をしましたが受け入れられず、結果その地位を藤原氏に取って代わられ、さらに厳しい対処を呼んでしまいます。

葛絃の自分の身を挺して行った決死の願いも虚しく、道真公は配流から2年後の延喜3年(903年)の2月25日に、その生涯を終えることとなります。

しかし、その後50年の時を経てこの想いは結実します。
天徳2年(958年)大宰大弐となった葛絃の息子である好古よしふるによって、宮中での道真公の往時を偲んで太宰府天満宮「曲水の宴」が創始されました。

好古は、父葛絃が果たせなかった想いまでを受け継いで、慰霊に努めたのです。

その後も、好古は参議でありながら77歳という高齢になるまで「菅公の下で眠りたい」と三度の大宰大弐の任を受託し、3年後の康保元年(964年)には『秋思詩』になぞらえた「残菊の宴」を創始しました。

また、好古は自らの血脈である小野伊勢・小野加賀・小野但馬の3家を太宰府天満宮の神官として任命するよう奏請。

この3家は神職家として境内に居を構え、明治の寺社制度の変革期まで和歌・漢詩・連歌など、代々文芸をもって奉仕していたと伝えられています。

このように幾代にもわたり、数奇な繋がりがもたらされた篁公と道真公。今も太宰府天満宮では往時をしのび「曲水の宴」「残菊の宴」が執り行われています。

小野照崎神社では、御祭神に小野篁命と御配神として菅原道真命が鎮まっており、御神紋も左三つ巴に梅鉢という、2柱の神様の紋が合わさったものとなっています。

歴史に裏付けられた不思議なご縁を感じますね…✨
参拝の皆さまにも、良きご縁がありますようお祈りしております😊


写真提供:太宰府天満宮

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