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肺がんサバイバーとして

2015年の夏、人間ドックで肺のレントゲン写真を撮っていただいたところ、「すりガラス影がありますね。精密検査しましょう」と言われ、CTで再度撮り直したところ、ますます怪しいということになり、CTガイド生検(CTで位置を正確に把握し、患部に針を入れて組織を採取する検査方法)を受けたところ、右肺上葉の上皮内腺がんと確定されました。大きさは1センチ程度、進行度合いはステージ1Aという、初期のがんでした。

担当の先生は、肺がんではとても実績を上げておられる方で、やはりがんでした、と検査結果を伝えられたときも、淡々とされておられました。というよりも、医師としては相手を慮って余計な気遣いをするより、感情を含めずに言ったほうがかえってよい、という判断があったのかもしれません。私も特にショックを受けるふうでもなく、そうですか、とだけお答えしました。その後、そのがんがどのようなものか、今後どのように対処していくかを簡単にご説明いただきました。

当時私は、副知事4年目、41歳でした。それまで、若くして重責を任されたプレッシャーから、全力で仕事を行い、無理も重ねてきました。30代のときにしていた働き方を40代になっても続けて、体が悲鳴を上げたのかもしれません。厄年というのは昔の人はよく言ったもので、ちょうどそのあたりに身体の曲がり角を迎えるのだな、と妙に納得したりもしました。

診察室を出て、外で待ってくれていた秘書さんにどうでしたか、と聞かれ、あっさりと「肺がんだった」と伝えました。彼は後日「どうしてそんなに冷静でいられるのですか?」と私に尋ねました。全く動揺がないわけではなかったのですが、私は、毎日まさに身を削りながら仕事をしていたので、それぐらいやればがんになっても不思議はないと思っている、と答えました。

できれば早めに手術したほうがよい、という先生のすすめがありました。公務を休まなければなりませんので、年末年始にかけたほうが穴をあけずにすむと思い、手術日を12月下旬と決めました。

手術に入るまでに不安になったことは何か、というと、果たして手術という方法でよいのだろうか、ということです。世の中にはさまざまな療法があり、重量子線など最先端の治療を行う施設もできていました。その中で、肺を切除する方法でよいのか、と迷いました。

しかし、主治医の先生がこれまた淡々と、がん学会のデータを示しながら、あなたのがんの場合にはこの処置をするとこういう確率でこうなる、その後はこういう確率でこうなる、という説明をしてくださいました。世界中のがん患者のさまざまなケースのデータが症例別、進度別に蓄積され、確率という形で示されていることに説得力があるなと感じましたし、それまでに手術がうまくいかずに亡くなった方々の犠牲もあって、この貴重な知見ができているのだなと思うと、ありがたい気持ちにもなりました。

手術のため入院する少し前に、がんの事実と入院のスケジュールを公表することにしました。年末年始を挟むとはいえ、数日間は公務を休むことになりますので、そうしておきたかったのです。

しかし、これによって私はとても悩まされることになりました。友人や知人に励まされることは勇気づけられることではあったのですが、中には私が手術を受けることに対して疑問を呈する方が少なからずおられました。「手術なんてやったらダメ。こういう民間療法がよい」というアドバイスを多く受けました。そして「あなたががんになったのは、今までの生き方が間違っていたから。この本を読んで改心すればがんは消える。手術などする必要はない」とお付き合いのある方からも言われました。

がんに対して素人の患者があれこれ言われれば、主治医からすすめられた治療法が本当にベストなのか、疑心暗鬼になってしまいます。がんを公表しなければこういう声は届かなかったと思いますが、立場上公表したことにより、入院してから手術日の前日まで、毎日のように国内外にいる知人・友人からさまざまなアドバイスがメールやSNSでやってきました。その一つひとつに他意はなく、私のためを思っておっしゃってくださっていることがまたつらかったのです。手術の前日は、手術を受ける不安というよりも、色々な助言をぶつけられたことがストレスになり、胃が痛くなりました。

しかし、最後は「自分はまな板の鯉なのだ、何が正しいかは正確には判断できない、主治医の先生から説明されたデータを信じて手術を受けよう」という気持ちになりました。

手術は順調に終わりました。全身麻酔をかけられた後、目が覚めると、身体にチューブが数本挿されていました。麻酔が覚めるにつれ、肺を切られた痛みが襲ってきました。人間息をしないわけにはいきませんので、呼吸をするたびにひどく痛みます。手術後初日の夜は特に痛く、夜中に看護師さんを呼ぶのは申し訳ないと思いながらも、ナースコールのボタンを押して座薬を入れていただきました。このときほど長く感じた夜はありませんでしたし、また看護をされている方々の仕事の尊さ、ありがたさを感じたことはありませんでした。

手術後間もなくしてから、病棟内を歩き回るリハビリが始まりました。看護師さんに付き添ってもらいながら、同じフロアの廊下をぐるりと一周するのですが、わずか一周をゆっくり歩くだけでも息が上がって大変な苦労をしました。息を吸うのが痛いために、十分に呼吸ができず、酸素の量が足りないのです。普段無意識に不自由なく呼吸できていることがいかに恵まれていることか、痛感しました。

手術後10日あまりで、無事退院しました。県庁も人遣いが荒いなと思いましたが、すぐに公務に復帰し、しかも東京への出張もありました。羽田空港の長い動く歩道の手すりにつかまって、息苦しさのためじっと動けずにいたことは今でもよく覚えています。しかし、そのように仕事にすぐ戻ったことによって、いわば強制的にリハビリができたことは、むしろよかったと思っています。

自身ががんを経験してから、がん対策には力を入れるようになりました。早期発見をするためのがん検診の推進を、県庁としてより強化することにしましたし、がんサバイバーがともに助け合い、今も世界中でがんと戦う患者さんを応援するために24時間歩く「リレー・フォー・ライフ」も、より積極的に参加するようになりました。

また、がん患者が職場に復帰し、働き続けることができるよう、社会への啓発も進めていくことが大切です。そのためにも、たとえ今までがんを経験していなくても、2人に1人ががんになることを多くの人が知る、ということが大事だと思っています。

最後に、この記事に貼り付けた画像のことに触れます。これは私の肺を切り取ってがんを示した写真です。右側の矢印のすぐ左にある、直径1センチ近くの丸い白い塊です。小さいうちに見つかってよかったと思っています。毎日世界中で多くのがん患者が戦っています。この記事が少しでもがんについて考えるきっかけになれば幸いです。

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