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大邱の夜、ソウルの夜

久しぶりに本のことについて書く。東京・下北沢でグラフィックノベルを中心に扱う新刊・古書店「BSEアーカイブ」を主宰する町山さんから本を送って戴いた。それが「大邱の夜、ソウルの夜」と云うグラフィックノベル。漫画とグラフィックノベル、コミックスとグラフィックノベルはどう違うのか。諸説あってあまりどれもピンと来なかったのだが、大人向けの内容のものをグラフィックノベルと云うのだとするのがまあ順当なところか。韓国の2人の女性のそれぞれの日常や葛藤を描いた内容。そう書くとふわっとした内容かと思われようが、シリアスでガチャガチャしていて、何もかもがどうしようもない。心の中にささくれが出来たような気がする。そんな気持ちになったことは今までにあまりない。

大邱の夜、ソウルの夜

男性と女性と云うおおまかな線引きがあって、更に最近では性別は多岐に渡る数のものから選ぶことが出来て、どちらの性別でないことすら認められている。そうした先進的な考え方もあれば、まだ男性はこうで女性はこうあらねばならないと云う前時代的価値観も厳然としてある。この本に出て来る家父長制の空気感、家族であることの歪み、親子、兄弟姉妹、そして夫婦。職場にもある上下関係。厳然とある普通、当たり前、決まり。人の心を蝕み続ける慣習、諦め、同調圧力。多様性など以ての外。正義も正解も一つだけ。日本にもあったよね、これ。今もあるんだよね。懐かしいようでいて、この苦味は今でも日常の中にある。女性だからと云うことで何もかも押し付けられる。それは理不尽だよね。でも男性の自分がそれをミテミナイフリをしていることもあるんだよね。それも理不尽で卑怯だよね。でも僕はもう随分と生きて来たから、今の若い男性のように優しくふんわりとはもうなれないんだよね。だから古い考えと共に古い人間は絶滅するしかないんだよね。若い人達が古い慣習を受け入れずにそのまま放置してみんな枯らしてしまえば良いんだよね。「大邱の夜、ソウルの夜」を読んでそんな風に考えたのだけれど、それはそれで的外れなような気もするし困った。これは男が困る本だ。男と女の間にはと歌ったのは野坂昭如さんだが、僕はその川の河原で為す術もなく茫然と立ち尽くすのみだ。船が見当たらない。いっそのこと河童にでもなれたらなと思う。

大邱の夜、ソウルの夜
作者 ソン・アラム
翻訳 吉良佳奈江
発行 ころから

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