家族に対してアンテナを張っておくこと
「おじいちゃん亡くなりました。」
夕方妹から届いていたメールに気づいたのは、夜寝る前。着信も入っていて、急いで電話をかけた。
おじいちゃんというのは、私たちにとって、祖父ではなく曾祖父、つまりひいおじいちゃんのことを指す。御年97歳。だったと思う。98歳かな。まあとにかく大往生だった。訃報を聞いても、正直そこまでの驚きはなかった。
電話越しに聞いた妹の話によると、そもそもおじいちゃんは、3週間前に肺炎になり(コロナは関係なく)、入院した後退院して、老人ホームで様子を見ていたらしい。しかし、昨日になって急に呼吸が止まり、人工呼吸器でなんとかしのいでいたが、今日の夕方、息を引き取った。ちなみに妹と両親は、その日の昼頃老人ホームに向かい、亡くなる前の人工呼吸器をつけたおじいちゃんに会ったらしい。
すべて初めて聞く話だった。昨日呼吸が止まってしまったことも、3週間前に肺炎で入院していたことも。
家を出るってこういうことなんだな、と思った。
今冷静になって考えてみれば、もし3週間前におじいちゃんが入院したことを聞いていたとしても、このご時世、お見舞いに行くのはリスクがあるからやめておいた方がいいという結論になっていたとは思う。しかし、それでも、亡くなる前にもう一度おじいちゃんに会っておきたかった。
最後に会ったのは今年の正月。正直その場での会話の内容などは覚えていないけれど、いつも行くとにこにこと迎えてくれて、口数は少なくとも、冷蔵庫に入っているゼリーを勧めてくれたりと、甘やかしてくれた。そんなおじいちゃんに、4月からの新生活について、自分の口から報告することができなかった。
今一緒に暮らしている彼にも、いつか会わせたいと漠然と思っていた。会わせるどころか、一緒に暮らし始めたことを伝えることすらできなかった。
訃報を聞いて、なぜ家族は私にもっと早く教えてくれなかったのだろうと最初は思った。しかし、おそらくそれは筋違い。家の中で雑談として出るような話題でも、わざわざメールや電話で話すほどではないということってある。それに、これまで脳梗塞や腰の骨折など、何度か死にそうになっては生き返り、私たちに「不死鳥」とひそかに呼ばれていたおじいちゃんのことだったから、今回も同じように蘇るだろうと家族みんなが油断していたということも想像できる。また、私が中学生のときに亡くなったおじいちゃんの奥さん、つまり私たちのひいおばあちゃんも、死ぬ前に人工呼吸器をつけていたが、その状態で2週間くらい生き延びていたと記憶している。おじいちゃんが人工呼吸器をつけたと家族が聞いて、その時のことを思い出し、まさか次の日に亡くなってしまうとは考えていなかったという可能性だってある。
つまり、私がアンテナを張っているべきだったのだ。ただでさえ情報が入りにくい環境に身を置いているということを自覚し、こまめに話を聞いたり、自分で会いに行こうとしたりしていれば、実際に会うことはできなかったとしても、後悔することはなかった。
しあさって、おじいちゃんは火葬される。葬儀は行わないらしい。火葬される前に、家族みんなで線香をあげにいくことになった。昔は堅物で、母が子供だった頃にはしつけに厳しいおじいちゃんだったらしいが、私が物心ついた時には、すっかり優しいひいおじいちゃんになっていた。そんなおじいちゃんは、最期に自分も意図しなかったであろう教訓を私に残してくれた。今度線香をあげる時、おじいちゃんにその感謝を伝えよう。そして、正月以来に揃う親戚家族に、近況を聞こうと思う。
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