見出し画像

「自業自得」と「自己責任」は全然違う

10月末日

安田純平さんの記者会見を、上海から帰ってすぐ、温泉のサウナルームで見る。

大音量のけたたましいBGMと、画面を埋め尽くすスーパー(字幕)。今日ほど日本のサウナにテレビが設置してあることを嫌だなと思った事は無い。

多くのコメンテータが安田さんに対して批判的な立場をとるのに対し、IKKOさんが本当は安田さんの肩を持ちたいのにも関わらず、番組の性質上、そち一方に偏れない・・・という苦渋の中で、絞るようにして発言をしているのが印象的であった。
こういう時、渦中の人物を叩きまくるのは男のコメンテーターばかりであるなぁと言う印象。そして、番組の中の女は男の発言に同意しつつも斜め45度の意見を述べるばかりである。女の登壇者が彼らに真っ向から反対するような意見を述べているところを、私は日本のテレビ番組では1度も見たことがない気がする。

話を戻すと、記者会見を聞きながら不覚にも私は泣きそうになってしまった。
まず印象的だったのが、安田さんが「紛争地に行く以上は全く自己責任であり、あくまで自分自身が知りたいこと、疑問に思っていることを、現地で取材して知ってもらえたらいいと思ってやっている」と言っていたことだ。

「国民の知る権利が……」などという言葉を使われたら嫌だなと思って居たけど(そんなことはしない人だろうとは思って居たが)はっきり「自分が知りたいことのため」とおっしゃっていたことに心を動かされた。

私はメディアの人間が使う「知る権利」と言う言葉が嫌いだ。なんだか「俺たちが市井の人間の知る権利を満たしてやっているんだぞ」と言う、傲慢な印象を受けるからだ。この言葉を、私はジャーナル誌で働いている時に死ぬほど聞いたし、それを使う人間は大抵、現場で取材してる人間ではなく、椅子でふんぞりかえっているスーツ姿のエライ人ばかりだったからだ。しかもそれが使われるのは、主に読み手から批判が来たり、他社から批判が来たりなどして、リスクヘッジが必要な時ばかりで、平時にこんな言葉を使っている人間は1人もいなかった。

「俺たちは市井の人間の、そして俺たち自身の知りたいという欲望を、満たして金を儲けたいのだ」と言う主張をする人間は誰もいなかった。

だから安田さんの、先の言葉を聞いた時、私はなんだかとても安心した。
まぁ、ここまではきっと、批判から安田さんを守るためにスピーチライターの人が書いた原稿で、リスクマネジメントも含まれているだろうから、その言葉が本心かどうかはわからない。


しかし、それよりもずっと私が大きく心を揺さぶられたのは、安田さんが「自業自得」と言う言葉を使った事である。


「自業自得」と「自己責任」は、似ているようでいて全く別物である。

自分の行動の結果、何か出来事が起きる、それに対して「それは自業自得だ」と他人から言われるのと、「自己責任だ」と言われるのでは全く意味あいが違う。

自業自得と言うのは、物事が起きるのには様々な因果(社会の情勢、他人の行動、天気、その他色々数えきれない因子)が絡み合って起きるが、結局のところ、自分で起こした行為の結果はそれらもすべて含めた上で、自分にフィードバックされる、という、人の持つ社会性を基盤にした言葉である。

また、その結果起きた事態の尻拭いを「わたし」と「あなた」どれぐらいの配分で行うか、は別問題である、という穏やかな余地を含んだ言葉であるように思う。

行為の結果起きた事は全てお前だけで処理をしろと言う意味の「自己責任」とは全く違う。

対して自己責任と言うのは、

「自分の身に降りかかってきた不幸や災難に関しては、他人の行為や社会の要素や歴史的因果などは一切言い訳にしてはならず、考慮にも入れてはならず、100%自分が原因である。全部お前のミスなのだから、他者からの援助などを求めてはならない」と言う考え方である。

言われた当事者から、社会との繋がりを剥ぎ取ろうとする残酷な言葉だ。

こうして並べてみると、後者の方がより断罪的である。

私は宮沢賢治が大好きだが、彼は仏教に深く傾倒していたこともあり、この「自業自得」を象徴する物語をたくさん書いている。
例えば「貝の火」という短編。うさぎの子が主人公で、最初、彼は善行を働いて周りから感謝されるのだが、それで調子に乗った挙句にえばり散らし、周りの動物をいじめまくった結果、ばちがあたって目が見えなくなる、というスーパーえぐい話だ。しかし、それに対する彼のお父さんのリアクションが「そんなこともあるよ、気にするな、次があるさ」みたいなしごくあっさりとしたもので、私は何回読んでも「えええ、実の子供が目が見えなくなってんのにそれって酷くない」と戸惑うのだが、しかしそこには賢治先生による「悪いことをした結果、すでに十分バチが当たった人間」に対するおだやかな眼差しというか、ある意味、人間の過ちに対する寛容さが滲んでいて、何回読んでも清々しい気持ちになる。

安田さんの話に戻ると、彼はミスを犯した結果、3年3ヶ月も監禁されるっていう「罰」はもうすでに受けているわけで、「自己責任、自己責任」と責められているのを見ていると、なんだか他人の不幸にたかるアリ塚のようで、この言葉を使う人間たちがひどく浅ましく思える。

また、「自業自得」と「自己責任」のどちらにせよ、その結果起きたことに対して国家ないしは周囲が尻拭いに手を貸してやるかどうかは、別の議論である。

というわけで、安田さんが一旦世間の「自己責任」という言葉を受け入れた後に、それを「自業自得」と言う自らの言葉にしれっと言い換えたこと、そこに私は安田さんの矜持というか、巨大な暴力や権力と戦ういち個人としての、せめてもの抵抗を読み取り、非常に感銘を受けたのである。

完全に個人的な解釈であり、妄想かもしれないが。


関係ないけど、ここから先は2008年にシリアに行った時の写真を並べておきます。あの頃はまだ平和で、遺跡の美しい国だった。心から、いつかまた行きたい。



ありがとうございます。