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言葉


言葉って、いつからこんなに自由になったんだろう。

空気の振動を使って喉で音を鳴らす。
口の形や舌の位置で音の性質を変える。
自分の言いたい事、伝えたいことを瞬時に伝達して、言葉を発する。

伝達に従って手を動かし、文字を為す。
だたの記号の羅列は特定の界隈の共通言語となり、届けたい人に届けたいものを届けるときの条件となる。


頭の中にフワフワある感覚や、形も音もない想いや、そんなものを人に伝えるために言葉を使う。
フワッとしたまま取り出して、そのまま渡せたらいいのかもしれない。
でも残念ながらフワッとしたまま取り出した感覚は、その瞬間に手から零れ落ちて誰にも渡すことはできない。

それが涙なのかもしれない。
書きながらそう思った。


人は誰かに想いを伝えるだけでなく、自分に想いや情報を伝えるためにも言葉を使う。
きっとフワッとしたそれは自分自身にもそれが何かわからない。
一番それが何かを知るのにいい方法は言葉にしてみることだと思っている。

正解の形や音なんてないかもしれない。見つからないかもしれない。
でも言葉にすることで「違う」という感覚だけははっきりと分かるだろう。


「あなたが好き」
違う。

「あなたが嫌い」
違う。

「あなたへの感情は対して何も」
違う。


知っている形や音の中に当てはまらないフワッがあるとしたら、泣いてもいい。
きっと形にならない涙は「違う」じゃない。

きっと、それが正解。



あれ、やっぱり言葉は不自由なのかもしれない。

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