読みやすい『走れメロス』太宰治(現代表記化、総ルビ化、注釈つき)
太宰治『走れメロス』を読みやすく改変したものを公開します。原著に対し以下の変更をしています。現代人が読んでも違和感の少ない表記であること、理解しやすいことを目指しました。
これらの変更にあたって原著と同じ読み方を維持するようにしたので、原著の朗読を聞きながら読むこともできます。ただし、複数の読み方が可能な箇所の差異はありえます(例えば「明日」は「あす」「あした」のどちらにも読める)。
注意 読み仮名において、「低声」と「呼吸」については丸かっこで囲って実際の文字とは異なる読み方としています。この箇所は当て字で「こごえ(小声)」「いき(息)」と読まれたと思われます。
底本 青空文庫に収録された作品を使用しました。下記リンク先 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1567.html
一 牧人
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
二 シラクス
今日未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里離れたこのシラクスの市にやってきた。
メロスには父も、母もない。女房もない。十六の、内気な妹と二人暮らしだ。この妹は、村のある律儀な一牧人を、近々、花婿として迎えることになっていた。結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣装やら祝宴のごちそうやらを買いに、はるばる市にやってきたのだ。まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。
メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
三 激怒
歩いているうちにメロスは、街の様子を怪しく思った。
(ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、街の暗いのはあたりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、市全体が、やけに寂しい)
のんきなメロスも、だんだん不安になってきた。
道で会った若い衆を捕まえて、
「何かあったのか、二年前にこの市に来たときは、夜でも皆が歌を歌って、街はにぎやかであったはずだが」
と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて老爺に会い、今度はもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺の体を揺すぶって質問を重ねた。
老爺は、辺りをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持ってはおりませぬ」
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、初めは王様の妹婿さまを。それから、ご自身のお世継を。それから、妹さまを。それから、妹さまのお子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を」
「驚いた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずることができぬ、というのです。この頃は、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮らしをしている者には、人質一人ずつ差し出すことを命じております。ご命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。今日は、六人殺されました」
聞いて、メロスは激怒した。
「あきれた王だ。生かしておけぬ」
四 約束
メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城に入っていった。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出てきたので、騒ぎが大きくなってしまった。
メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ」
とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」
王は、憫笑した。
「仕方のないやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」
「言うな!」
とメロスは、いきり立って反駁した。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ」
暴君は落着いてつぶやき、ほっとため息をついた。
「わしだって、平和を望んでいるのだが」
「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか」
今度はメロスが嘲笑した。
「罪のない人を殺して、何が平和だ」
「黙れ、下賤の者」
王は、さっと顔を上げて報いた。
「口では、どんな清らかなことでも言える。わしには、人のはらわたの奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、今に、磔になってから、泣いてわびたって聞かぬぞ」
「ああ、王は利口だ。うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、メロスは足元に視線を落とし瞬時ためらい、
「ただ、私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます」
「ばかな」
と暴君は、しわがれた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰ってくるというのか」
「そうです。帰ってくるのです」
メロスは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いていこう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を締め殺してください。頼む、そうしてください」
それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっとほくそ笑んだ。
(生意気なことを言うわい。どうせ帰ってこないに決まっている。この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代わりの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代わりの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴原にうんと見せつけてやりたいものさ)
「願いを、聞いた。その身代わりを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰ってこい。遅れたら、その身代わりを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れてくるがいい。おまえの罪は、永遠に許してやろうぞ」
「なに、何をおっしゃる」
「はは。命が大事だったら、遅れてこい。おまえの心は、わかっているぞ」
メロスは悔しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
五 人質
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。
暴君ディオニスの面前で、良き友と良き友は、二年ぶりで相会うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。
セリヌンティウスは、縄打たれた。
メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
六 一日目 帰宅
メロスはその夜、一睡もせず十里の道を急ぎに急いで、村へ到着したのは、明くる日の午前、日はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていた。メロスの十六の妹も、今日は兄の代わりに羊郡の番をしていた。よろめいて歩いてくる兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでもない」
メロスは無理に笑おうと務めた。
「市に用事を残してきた。またすぐ市に行かなければならぬ。明日、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう」
妹は頬を赤らめた。
「うれしいか。きれいな衣装も買ってきた。さあ、これから行って、村の人たちに知らせてこい。結婚式は、明日だと」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
七 一日目 説得
目が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、
「少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ」
と頼んだ。
婿の牧人は驚き、
「それはいけない、こちらにはまだ何の支度もできていない、ぶどうの季節まで待ってくれ」
と答えた。
メロスは、
「待つことはできぬ、どうか明日にしてくれたまえ」
と更に押して頼んだ。
婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論を続けて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。
八 二日目 結婚式
結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだ頃、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌を歌い、手を打った。メロスも、満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨をまったく気にしなくなった。
メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この良い人たちと生涯暮らしていきたいと願ったが、今は、自分のからだで、自分のものではない。ままならぬことである。メロスは、わが身にむち打ち、ついに出発を決意した。明日の日没までには、まだ十分の時がある。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも長くこの家にぐずぐず留まっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。
今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっと 御免こうむって眠りたい。目が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しいことはない。おまえの兄の、一番嫌いなものは、人を疑うことと、それから、嘘をつくことだ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」
花嫁は、夢見心地でうなずいた。
メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「支度のないのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何もない。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」
花婿はもみ手して、照れていた。
メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋に潜り込んで、死んだように深く眠った。
九 三日目 出発
目が覚めたのは明くる日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、
(南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日はぜひとも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる)
メロスは、悠々と身支度を始めた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身支度はできた。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。
(私は、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと)
若いメロスは、つらかった。幾度か、立ち止まりそうになった。えい、えいと大声上げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなってきた。
メロスは額の汗を拳で払い、
(ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっと良い夫婦になるだろう。私には、今、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう)
と持ち前ののんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
十 三日目 川
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、止まった。
見よ、前方の川を。昨日の豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流とうとうと下流に集まり、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木っ端みじんに橋桁をはね飛ばしていた。
彼はぼう然と、立ちすくんだ。あちこちと眺め回し、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず波にさらわれて影なく、渡し守の姿も見えない。流れはいよいよ、膨れ上がり、海のようになっている。
メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。
「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎていきます。太陽もすでに真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことができなかったら、あの良い友達が、私のために死ぬのです」
濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく躍り狂う。波は波を呑み、巻き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えていく。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他にない。
(ああ、神々も照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、今こそ発揮してみせる)
メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う波を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕に込めて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきとかき分けかき分け、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつくことができたのである。
(ありがたい)
メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。
十一 三日目 峠
一刻といえども、無駄にはできない。日はすでに西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠を登り、登り切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て」
「何をするのだ。私は日の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さぬ。持ち物全部を置いていけ」
「私には命の他には何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ」
「その、命が欲しいのだ」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」
山賊たちは、物も言わず一斉に棍棒を振り上げた。メロスはひょいと、体を折り曲げ、飛鳥のごとく身近の一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」
と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。
十二 三日目 疲労
一気に峠を駆け降りたが、さすがに疲労し、折りから午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照ってきて、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩歩いて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上がることができぬのだ。天を仰いで、悔し泣きに泣き出した。
(ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も打ち倒し韋駄天、ここまで突破してきたメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、希代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ)
と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣くった。
(私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんもなかった。神も照覧、私は精いっぱいに努めてきたのだ。動けなくなるまで走ってきたのだ。私は不信の徒ではない。ああ、できることなら私の胸を断ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。
私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかも知れない。
セリヌンティウスよ、許してくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に良い友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかった。今だって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一番誇るべき宝なのだからな。
セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんもなかった。信じてくれ!私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駆け降りてきたのだ。私だから、できたのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放っておいてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。
王は私に、ちょっと遅れてこい、と耳打ちした。遅れたら、身代わりを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、遅れて行くだろう。王は、独り合点して私を笑い、そうして事もなく私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。
セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるに違いない。いや、それも私の、独りよがりか?
ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。村には私の家がある。羊もいる。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな)
四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
十三 三日目 走れ
ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳を澄ました。すぐ足元で、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂け目からこんこんと、何か小さくささやきながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一口飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢から覚めたような気がした。
(歩ける。行こう)
肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。
斜陽は赤い光を、木々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。
(私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでおわび、などと気のいいことは言っておられぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。今はただその一事だ。走れ!メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!私は、正義の士として死ぬことができるぞ。
ああ、日が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせてください)
道行く人を押し退け、はね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴飛ばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も速く走った。
十四 三日目 目的
一団の旅人とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳に挟んだ。
「今頃は、あの男も、磔にかかっているよ」
(ああ、その男、その男のために私は、今こんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。風体なんかは、どうでもいい)
メロスは、今は、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が噴き出た。
(見える。はるか向こうに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕日を受けてきらきら光っている)
「ああ、メロス様」
うめくような声が、風と共に聞こえた。
「誰だ」
メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子でございます」
その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。
「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめてください。もう、あの方をお助けになることはできません」
「いや、まだ日は沈まぬ」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ日は沈まぬ」
メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕日ばかりを見つめていた。走るより他はない。
「やめてください。走るのは、やめてください。今はご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ち続けている様子でございました」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついてこい!フィロストラトス」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい」
言うにや及ぶ。まだ日は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は、空っぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて走った。
十五 三日目 到着
日は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。
(間に合った)
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰ってきた。約束のとおり、今、帰ってきた」
と大声で刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、一人として彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆をかき分け、かき分け、
「私だ、刑吏!殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精いっぱいに叫びながら、ついに 磔台に上り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。
群衆は、どよめいた。「あっぱれ」「許せ」と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス」
メロスは目に涙を浮かべて言った。
「私を殴れ。力いっぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえないのだ。殴れ」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場いっぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて、初めて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞こえた。
暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
どっと群衆の間に、歓声が起こった。
「万歳、王様万歳」
一人の少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。良き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ」
勇者は、ひどく赤面した。
(古伝説と、シルレルの詩から。)
補足 『走れメロス』の元ネタについて
『走れメロス』の最後には以下の記載があり、全くのオリジナルではないことが表明されています。
“(古伝説と、シルレルの詩から。)”
教科書に掲載されている『走れメロス』のなかには、この一文が省かれているものがあるため、知らない人もいるかもしれません。
元ネタについて以下の論文に詳しく書かれているのでぜひとも読んでみてください。
『「走れメロス」材源考』角田旅人 著
https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/1643
元ネタが単なる美談なのに対して、太宰治は滑稽な肉付けをして小説に仕上げていることに気がつかれると思います。