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読みやすい『走れメロス』太宰治(現代表記化、総ルビ化、注釈つき)

太宰治『走れメロス』を読みやすく改変したものを公開します。原著に対し以下の変更をしています。現代人が読んでも違和感の少ない表記であること、理解しやすいことを目指しました。

(1)場面ごとに章立て
(2)改行を増やす
(3)常用漢字を基本とするように変更(送り仮名の変更、平仮名表記の漢字表記への変更、使用する漢字の変更など)
(4)心の声を丸かっこで囲み、地の文と分離
(5)総ルビ化(すべてに読み仮名をつける)

これらの変更にあたって原著と同じ読み方を維持するようにしたので、原著の朗読を聞きながら読むこともできます。ただし、複数の読み方が可能な箇所の差異はありえます(例えば「明日」は「あす」「あした」のどちらにも読める)。

注意 読み仮名において、「低声」と「呼吸」については丸かっこで囲って実際の文字とは異なる読み方としています。この箇所は当て字で「こごえ(小声)」「いき(息)」と読まれたと思われます。

底本 青空文庫に収録された作品を使用しました。下記リンク先 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1567.html


いち 牧人ぼくじん

 メロスはげきした。かならず、かのじゃぼうぎゃくおうのぞかなければならぬとけつした。

邪智じゃち】悪いことに働く知恵
暴虐ぼうぎゃく】むごたらしく人を苦しめること

 メロスにはせいがわからぬ。メロスは、むら牧人ぼくじんである。ふえき、ひつじあそんでらしてきた。けれども邪悪じゃあくたいしては、ひと一倍いちばい敏感びんかんであった。

 シラクス

 今日きょうめいメロスはむらしゅっぱつし、やまえ、じゅうはなれたこのシラクスのにやってきた。

】里は距離の単位。1里は約3.9Km、10里は約39Km

 メロスにはちちも、ははもない。にょうぼうもない。じゅうろくの、うちいもうと二人ふたりらしだ。このいもうとは、むらのあるりちいち牧人ぼくじんを、近々ちかぢか花婿はなむことしてむかえることになっていた。結婚けっこんしきぢかなのである。メロスは、それゆえ、花嫁はなよめしょうやらしゅくえんのごちそうやらをいに、はるばるにやってきたのだ。まず、その品々しなじなあつめ、それからみやこおおをぶらぶらあるいた。
 メロスにはちくともがあった。セリヌンティウスである。いまはこのシラクスので、いしをしている。そのともを、これからたずねてみるつもりなのだ。ひさしくわなかったのだから、たずねてくのがたのしみである。

竹馬ちくばとも】幼なじみ

さん げき

 あるいているうちにメロスは、まちようあやしくおもった。
(ひっそりしている。もうすでにちて、まちくらいのはあたりまえだが、けれども、なんだか、よるのせいばかりではなく、全体ぜんたいが、やけにさびしい)
のんきなメロスも、だんだんあんになってきた。
 みちったわかしゅつかまえて、
なにかあったのか、ねんまえにこのたときは、よるでもみなうたうたって、まちはにぎやかであったはずだが」
質問しつもんした。わかしゅは、くびってこたえなかった。

わかしゅ】若い男、若者

 しばらくあるいてろうい、こんはもっと、せいつよくして質問しつもんした。ろうこたえなかった。メロスはりょうろうからだすぶって質問しつもんかさねた。

【老爺】老人の男性

 ろうは、あたりをはばかる低声(こごえ)で、わずかこたえた。
王様おうさまは、ひところします」
「なぜころすのだ」
悪心あくしんいだいている、というのですが、だれもそんな、悪心あくしんってはおりませぬ」

悪心あくしん】悪いことをしようとする心

「たくさんのひところしたのか」
「はい、はじめは王様おうさまいもうと婿むこさまを。それから、ごしんのおつぎを。それから、いもうとさまを。それから、いもうとさまのおさまを。それから、皇后こうごうさまを。それから、賢臣けんしんのアレキスさまを」

【皇后】天皇や皇帝の正妻のことだが、ここでは老爺が言い間違えただけで王の妻である「王妃」のことと思われる。

おどろいた。国王こくおう乱心らんしんか」
「いいえ、乱心らんしんではございませぬ。ひとを、しんずることができぬ、というのです。このごろは、しんこころをも、おうたがいになり、すこしく派手はでらしをしているものには、人質ひとじち一人ひとりずつすことをめいじております。ご命令めいれいこばめばじゅう字架じかにかけられて、ころされます。今日きょうは、ろくにんころされました」
 いて、メロスはげきした。
「あきれたおうだ。かしておけぬ」

よん 約束やくそく

 メロスは、たんじゅんおとこであった。ものを、背負せおったままで、のそのそおうじょうはいっていった。たちまちかれは、じゅんけいばくされた。調しらべられて、メロスのかいちゅうからは短剣たんけんてきたので、さわぎがおおきくなってしまった。

巡邏じゅんら】警戒して見回ること
警吏けいり】警察官吏のこと。警察業務を行う役人。

 メロスは、おうまえされた。
「この短刀たんとうなにをするつもりであったか。え!」
暴君ぼうくんディオニスはしずかに、けれどもげんをもっていつめた。そのおうかお蒼白そうはくで、けんしわは、きざまれたようにふかかった。
暴君ぼうくんからすくうのだ」
とメロスはわるびれずにこたえた。
「おまえがか?」
おうは、びんしょうした。

憫笑びんしょう】あわれんで笑うこと

かたのないやつじゃ。おまえには、わしのどくがわからぬ」
うな!」
とメロスは、いきりって反駁はんばくした。
ひとこころうたがうのは、もっとずべき悪徳あくとくだ。おうは、たみちゅうせいをさえうたがっておられる」
うたがうのが、正当せいとうこころがまえなのだと、わしにおしえてくれたのは、おまえたちだ。ひとこころは、あてにならない。人間にんげんは、もともとよくのかたまりさ。しんじては、ならぬ」
暴君ぼうくんおちいてつぶやき、ほっとためいきをついた。
「わしだって、へいのぞんでいるのだが」
「なんのためのへいだ。ぶん地位ちいまもるためか」
こんはメロスが嘲笑ちょうしょうした。

嘲笑ちょうしょう】見下して笑うこと、ばかにして笑うこと

つみのないひところして、なにへいだ」
だまれ、せんもの
おうは、さっとかおげてむくいた。
くちでは、どんなきよらかなことでもえる。わしには、ひとのはらわたの奥底おくそこいてならぬ。おまえだって、いまに、はりつけになってから、いてわびたってかぬぞ」
「ああ、おうこうだ。うぬぼれているがよい。わたしは、ちゃんとぬるかくでいるのに。いのちいなどけっしてしない。ただ、――」
いかけて、メロスは足元あしもとせんとししゅんためらい、
「ただ、わたしなさけをかけたいつもりなら、処刑しょけいまでに三日みっかかん日限にちげんあたえてください。たった一人ひとりいもうとに、亭主ていしゅたせてやりたいのです。三日みっかのうちに、わたしむら結婚けっこんしきげさせ、かならず、ここへかえってきます」
「ばかな」
暴君ぼうくんは、しわがれたこえひくわらった。
「とんでもないうそうわい。がしたとりかえってくるというのか」
「そうです。かえってくるのです」
メロスはひっった。
わたし約束やくそくまもります。わたしを、三日みっかかんだけゆるしてください。いもうとが、わたしかえりをっているのだ。そんなにわたししんじられないならば、よろしい、このにセリヌンティウスといういしがいます。わたし無二むに友人ゆうじんだ。あれを、人質ひとじちとしてここにいていこう。わたしげてしまって、三日みっか日暮ひぐれまで、ここにかえってこなかったら、あの友人ゆうじんころしてください。たのむ、そうしてください」
 それをいておうは、ざんぎゃくちで、そっとほくそんだ。

【ほくそ笑む】ものごとがうまくいったことをこっそりとひそかに笑う

なま意気いきなことをうわい。どうせかえってこないにまっている。このうそつきにだまされたりして、はなしてやるのも面白おもしろい。そうして身代みがわりのおとこを、三日みっかころしてやるのも気味きみがいい。ひとは、これだからしんじられぬと、わしはかなしいかおして、その身代みがわりのおとこ磔刑たっけいしょしてやるのだ。なかの、しょうじきものとかいう奴原やつばらにうんとせつけてやりたいものさ)

奴原やつばら】やつら

ねがいを、いた。その身代みがわりをぶがよい。三日みっかには日没にちぼつまでにかえってこい。おくれたら、その身代みがわりを、きっところすぞ。ちょっとおくれてくるがいい。おまえのつみは、永遠えいえんゆるしてやろうぞ」
「なに、なにをおっしゃる」
「はは。いのちだいだったら、おくれてこい。おまえのこころは、わかっているぞ」
メロスはくやしく、地団駄じだんだんだ。ものもいたくなくなった。

地団駄じたんだむ】悔しさや怒りなどの激しい感情から地面を踏む

 人質ひとじち

 ちくとも、セリヌンティウスは、しんおうじょうされた。
 暴君ぼうくんディオニスの面前めんぜんで、ともともは、ねんぶりで相会あいおうた。メロスは、とも一切いっさいじょうかたった。セリヌンティウスはごんでうなずき、メロスをひしときしめた。ともともあいだは、それでよかった。
 セリヌンティウスは、なわたれた。

【相会う】互いに相手と出会う
【縄打つ】縄を打つ。罪人や犯人などを捕まえて縄でしばること

 メロスは、すぐにしゅっぱつした。しょ満天まんてんほしである。

ろく いちにち たく

 メロスはその一睡いっすいもせずじゅうみちいそぎにいそいで、むら到着とうちゃくしたのは、くる午前ごぜんはすでにたかのぼって、村人むらびとたちはごとはじめていた。メロスの十六じゅうろくいもうとも、今日きょうあにわりに羊郡ようぐんばんをしていた。よろめいてあるいてくるあにの、ろう困憊こんぱい姿すがたつけておどろいた。そうして、うるさくあに質問しつもんびせた。
「なんでもない」
メロスは無理むりわらおうとつとめた。
用事ようじのこしてきた。またすぐかなければならぬ。明日あす、おまえの結婚けっこんしきげる。はやいほうがよかろう」
 いもうとほおあからめた。
「うれしいか。きれいなしょうってきた。さあ、これからって、むらひとたちにらせてこい。結婚けっこんしきは、明日あすだと」
 メロスは、また、よろよろとあるし、いえかえって神々かみがみ祭壇さいだんかざり、しゅくえんせき調ととのえ、もなくとこたおし、呼吸(いき)もせぬくらいのふかねむりにちてしまった。

なな いちにち 説得せっとく

 めたのはよるだった。メロスはきてすぐ、花婿はなむこいえおとずれた。そうして、
すこじょうがあるから、結婚けっこんしき明日あしたにしてくれ」
たのんだ。
婿むこ牧人ぼくじんおどろき、
「それはいけない、こちらにはまだなん支度したくもできていない、ぶどうのせつまでってくれ」
こたえた。
メロスは、
つことはできぬ、どうか明日あしたにしてくれたまえ」
さらしてたのんだ。
 婿むこ牧人ぼくじんがんきょうであった。なかなかしょうだくしてくれない。夜明よあけまでろんつづけて、やっと、どうにか婿むこをなだめ、すかして、せた。

はち 二日ふつか 結婚式けっこんしき

 結婚けっこんしきは、ひるおこなわれた。新郎しんろうしんの、神々かみがみへの宣誓せんせいんだころ黒雲くろくもそらおおい、ぽつりぽつりあめし、やがて車軸しゃじくながすような大雨おおあめとなった。しゅくえん列席れっせきしていた村人むらびとたちは、なに不吉ふきつなものをかんじたが、それでも、めいめい気持きもちをきたて、せまいえなかで、むんむんあついのもこらえ、よううたうたい、った。メロスも、満面まんめんしょくをたたえ、しばらくは、おうとのあの約束やくそくをさえわすれていた。しゅくえんは、よるはいっていよいよみだはなやかになり、人々ひとびとは、そとごうをまったくにしなくなった。

【黒雲】黒い雲。暗雲。不吉なものという意味もある。
【車軸を流す】激しい大雨が降ることを意味する慣用句

 メロスは、いっしょうこのままここにいたい、とおもった。このひとたちとしょうがいらしていきたいとねがったが、いまは、ぶんのからだで、ぶんのものではない。ままならぬことである。メロスは、わがにむちち、ついにしゅっぱつけつした。明日あす日没にちぼつまでには、まだじゅうぶんときがある。ちょっと一眠ひとねむりして、それからすぐにしゅっぱつしよう、とかんがえた。そのころには、あめ小降こぶりになっていよう。すこしでもながくこのいえにぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどのおとこにも、やはりれんじょうというものはある。

 今宵こよい呆然ぼうぜんかんっているらしい花嫁はなよめちかり、
「おめでとう。わたしつかれてしまったから、ちょっと めんこうむってねむりたい。めたら、すぐにかける。大切たいせつようがあるのだ。わたしがいなくても、もうおまえにはやさしい亭主ていしゅがあるのだから、けっしてさびしいことはない。おまえのあにの、一番いちばんきらいなものは、ひとうたがうことと、それから、うそをつくことだ。おまえも、それは、っているね。亭主ていしゅとのあいだに、どんなみつでもつくってはならぬ。おまえにいたいのは、それだけだ。おまえのあには、たぶんえらおとこなのだから、おまえもそのほこりをっていろ」
花嫁はなよめは、ゆめごごでうなずいた。

【御免こうむる】許しを得て退出する

 メロスは、それから花婿はなむこかたをたたいて、
たくのないのはおたがいさまさ。わたしいえにも、たからといっては、いもうとひつじだけだ。ほかには、なにもない。ぜんあげよう。もうひとつ、メロスのおとうとになったことをほこってくれ」
花婿はなむこはもみして、れていた。
 メロスはわらって村人むらびとたちにもしゃくして、えんせきからり、ひつじ小屋ごやもぐんで、んだようにふかねむった。

きゅう 三日みっか しゅっぱつ

 めたのはくる薄明はくめいころである。メロスはき、
南無なむさん寝過ねすごしたか、いや、まだまだだいじょう、これからすぐにしゅっぱつすれば、約束やくそく刻限こくげんまでにはじゅうぶんう。今日きょうはぜひとも、あのおうに、ひと信実しんじつそんするところをせてやろう。そうしてわらってはりつけだいのぼってやる)

【南無三】驚いたときや失敗したときに発する言葉。
【信実】偽りがなく正直で誠実であること。(注意 「真実」とは同音異義語)

 メロスは、悠々ゆうゆうたくはじめた。あめも、いくぶん小降こぶりになっているようである。たくはできた。さて、メロスは、ぶるんとりょううでおおきくって、ちゅうのごとくはした。
わたしは、今宵こよいころされる。ころされるためにはしるのだ。身代みがわりのともすくうためにはしるのだ。おう奸佞かんねいじゃやぶるためにはしるのだ。はしらなければならぬ。そうして、わたしころされる。わかときからめいまもれ。さらば、ふるさと)

【奸佞邪智】性格がねじまがっていて悪賢いこと

 わかいメロスは、つらかった。いくか、まりそうになった。えい、えいと大声おおごえげてしんしかりながらはしった。むらて、よこり、もりをくぐりけ、となりむらいたころには、あめみ、たかのぼって、そろそろあつくなってきた。
 メロスはひたいあせこぶしはらい、
(ここまでればだいじょう、もはやきょうへのれんはない。いもうとたちは、きっと夫婦ふうふになるだろう。わたしには、いま、なんのがかりもないはずだ。まっすぐにおうじょうけば、それでよいのだ。そんなにいそ必要ひつようもない。ゆっくりあるこう)
まえののんきさをかえし、きなうたをいいこえうたした。

じゅう 三日みっか かわ

 ぶらぶらあるいてさんき、そろそろぜんていなかばにとうたつしたころっていたさいなん、メロスのあしは、はたと、まった。

【里程】道程、道のり

 よ、ぜんぽうかわを。昨日きのうごうやますいげんはんらんし、だくりゅうとうとうとりゅうあつまり、もうせいいっきょはしかいし、どうどうとひびきをあげるげきりゅうが、みじんにはしげたをはねばしていた。
 かれはぼうぜんと、ちすくんだ。あちこちとながまわし、また、こえかぎりにびたててみたが、けいしゅうのこらずなみにさらわれてかげなく、わたもり姿すがたえない。ながれはいよいよ、ふくがり、うみのようになっている。

【繋舟】岸辺の杭などにつなぎ止めた舟
【渡し守】渡し船の船頭

 メロスは川岸かわぎしにうずくまり、おとこきにきながらゼウスにげて哀願あいがんした。

【ゼウス】ギリシア神話における最高神。天候をつかさどる神でもある。

「ああ、しずめたまえ、くるながれを!とき刻々こくこくぎていきます。太陽たいようもすでにひるどきです。あれがしずんでしまわぬうちに、おうじょうくことができなかったら、あの友達ともだちが、わたしのためにぬのです」
 だくりゅうは、メロスのさけびをせせらわらうごとく、ますますはげしくおどくるう。なみなみみ、き、あおて、そうしてときは、こくいっこくえていく。いまはメロスもかくした。およるよりほかにない。
(ああ、神々かみがみしょうらんあれ!だくりゅうにもけぬあいまことだいちからを、いまこそはっしてみせる)

【照覧】神仏がご覧になること

 メロスは、ざんぶとながれにみ、百匹ひゃっぴき大蛇だいじゃのようにのたくるなみあいに、ひっ闘争とうそうかいした。満身まんしんちからうでめて、うずきずるながれを、なんのこれしきとかきけかきけ、めくらめっぽう獅子しし奮迅ふんじんひと姿すがたには、かみあわれとおもったか、ついに憐愍れんびんれてくれた。ながされつつも、ごと対岸たいがん樹木じゅもくみきに、すがりつくことができたのである。
(ありがたい)
メロスはうまのようにおおきなどうぶるいをひとつして、すぐにまたさきいそいだ。

【めくらめっぽう】見当もつけずにやみくもにすること
【獅子奮迅】凄まじい威勢で取り組むこと。取り組みの凄まじさをライオン(獅子)が奮闘しているみたいとたとえた四字熟語
【憐憫を垂れる】目上の者が目下の者に対して、あわれむこと

十一じゅういち 三日みっか とうげ

 いっこくといえども、無駄むだにはできない。はすでに西にしかたむきかけている。ぜいぜいあら呼吸(いき)をしながらとうげのぼり、のぼって、ほっとしたとき突然とつぜんまえ一隊いったい山賊さんぞくおどた。
て」
なにをするのだ。わたししずまぬうちにおうじょうかなければならぬ。はなせ」
「どっこいはなさぬ。ものぜんいていけ」
わたしにはいのちほかにはなにもない。その、たったひとつのいのちも、これからおうにくれてやるのだ」
「その、いのちしいのだ」
「さては、おう命令めいれいで、ここでわたしせしていたのだな」
 山賊さんぞくたちは、ものわず一斉いっせい棍棒こんぼうげた。メロスはひょいと、からだげ、ちょうのごとくぢか一人ひとりおそいかかり、その棍棒こんぼううばって、
どくだがせいのためだ!」
猛然もうぜん一撃いちげき、たちまち、さんにんなぐたおし、のこもののひるむすきに、さっさとはしってとうげくだった。

じゅう 三日みっか ろう

 いっとうげりたが、さすがにろうし、りから午後ごごしゃくねつ太陽たいようがまともに、かっとってきて、メロスはいくとなく眩暈めまいかんじ、これではならぬ、となおしては、よろよろさんあるいて、ついに、がくりとひざった。がることができぬのだ。てんあおいで、くやきにした。
(ああ、あ、だくりゅうおより、山賊さんぞくさんにんたおてん、ここまでとっしてきたメロスよ。しん勇者ゆうしゃ、メロスよ。いま、ここで、つかってうごけなくなるとはなさけない。あいするともは、おまえをしんじたばかりに、やがてころされなければならぬ。おまえは、だいしん人間にんげん、まさしくおうおもつぼだぞ)
ぶんしかってみるのだが、全身ぜんしんえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進ぜんしんかなわぬ。ぼう草原くさはらにごろりところがった。

【韋駄天】足が速い人のたとえ。韋駄天とは、仏教における守護神の1神であり、足が速いとされている。
【希代】世にもまれなこと、珍しいこと。読み方は「きだい」「きたい」の2つがある。

 身体しんたいろうすれば、精神せいしんともにやられる。もう、どうでもいいという、勇者ゆうしゃいなくされたこんじょうが、こころすみくった。

わたしは、これほどりょくしたのだ。約束やくそくやぶこころは、みじんもなかった。かみしょうらんわたしせいいっぱいにつとめてきたのだ。うごけなくなるまではしってきたのだ。わたししんではない。ああ、できることならわたしむねって、しん心臓しんぞうをおけたい。あい信実しんじつ血液けつえきだけでうごいているこの心臓しんぞうせてやりたい。けれどもわたしは、このだいときに、せいこんきたのだ。
 わたしは、よくよくこうおとこだ。わたしは、きっとわらわれる。わたしいっわらわれる。わたしともあざむいた。ちゅうたおれるのは、はじめからなにもしないのとおなじことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、わたしさだまった運命うんめいなのかもれない。
 セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。きみは、いつでもわたししんじた。わたしきみを、あざむかなかった。わたしたちは、本当ほんとうともともであったのだ。いちだって、くらわくくもを、おたがむね宿やどしたことはなかった。いまだって、きみわたししんっているだろう。ああ、っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくもわたししんじてくれた。それをおもえば、たまらない。ともともあいだ信実しんじつは、この一番いちばんほこるべきたからなのだからな。
 セリヌンティウス、わたしはしったのだ。きみあざむくつもりは、みじんもなかった。しんじてくれ!わたしいそぎにいそいでここまでたのだ。だくりゅうとっした。山賊さんぞくかこみからも、するりとけていっとうげりてきたのだ。わたしだから、できたのだよ。ああ、このうえわたしのぞたもうな。ほうっておいてくれ。どうでも、いいのだ。わたしけたのだ。だらしがない。わらってくれ。
 おうわたしに、ちょっとおくれてこい、とみみちした。おくれたら、わりをころして、わたしたすけてくれると約束やくそくした。わたしおうれつにくんだ。けれども、いまになってみると、わたしおううままになっている。わたしは、おくれてくだろう。おうは、ひとてんしてわたしわらい、そうしてこともなくわたし放免ほうめんするだろう。そうなったら、わたしは、ぬよりつらい。わたしは、永遠えいえんうらものだ。じょうもっとも、めい人種じんしゅだ。
 セリヌンティウスよ、わたしぬぞ。きみ一緒いっしょなせてくれ。きみだけはわたししんじてくれるにちがいない。いや、それもわたしの、ひとりよがりか?
 ああ、もういっそ、悪徳あくとくものとしてびてやろうか。むらにはわたしいえがある。ひつじもいる。いもうと夫婦ふうふは、まさかわたしむらからすようなことはしないだろう。せいだの、信実しんじつだの、あいだの、かんがえてみれば、くだらない。ひところしてぶんきる。それが人間にんげんかいじょうほうではなかったか。ああ、なにもかも、ばかばかしい。わたしは、みにくうらものだ。どうとも、かっにするがよい。やんぬるかな)

四肢ししして、うとうと、まどろんでしまった。

【四肢を投げ出す】両手両足を伸ばして大の字になって横になる

じゅうさん 三日みっか はし

 ふとみみに、せんせん、みずながれるおとこえた。そっとあたまをもたげ、いきんでみみました。すぐ足元あしもとで、みずながれているらしい。よろよろがって、ると、いわからこんこんと、なにちいさくささやきながらみずているのである。そのいずみまれるようにメロスはをかがめた。みずりょうですくって、一口ひとくちんだ。ほうとながいためいきて、ゆめからめたようながした。
あるける。こう)
肉体にくたいろう回復かいふくともに、わずかながらぼうまれた。義務ぎむ遂行すいこうぼうである。わがころして、めいまもぼうである。
 斜陽しゃようあかひかりを、木々きぎとうじ、えだえるばかりにかがやいている。日没にちぼつまでには、まだがある。

わたしを、っているひとがあるのだ。すこしもうたがわず、しずかにたいしてくれているひとがあるのだ。わたしは、しんじられている。わたしいのちなぞは、問題もんだいではない。んでおわび、などとのいいことはっておられぬ。わたしは、信頼しんらいむくいなければならぬ。いまはただそのいちだ。はしれ!メロス。
 わたし信頼しんらいされている。わたし信頼しんらいされている。先刻せんこくの、あのあくのささやきは、あれはゆめだ。わるゆめだ。わすれてしまえ。ぞうつかれているときは、ふいとあんなわるゆめるものだ。メロス、おまえのはじではない。やはり、おまえはしん勇者ゆうしゃだ。ふたたってはしれるようになったではないか。ありがたい!わたしは、せいとしてぬことができるぞ。
 ああ、しずむ。ずんずんしずむ。ってくれ、ゼウスよ。わたしまれたときからしょうじきおとこであった。しょうじきおとこのままにしてなせてください)

 みちひと退け、はねばし、メロスはくろかぜのようにはしった。はら酒宴しゅえんの、その宴席えんせきのまっただなかけ、酒宴しゅえんひとたちをぎょうてんさせ、いぬばし、がわえ、すこしずつしずんでゆく太陽たいようの、じゅうばいはやはしった。

じゅうよん 三日みっか 目的もくてき

 一団いちだん旅人たびびととさっとすれちがったしゅんかんきつかいみみはさんだ。
今頃いまごろは、あのおとこも、はりつけにかかっているよ」
(ああ、そのおとこ、そのおとこのためにわたしは、いまこんなにはしっているのだ。そのおとこなせてはならない。いそげ、メロス。おくれてはならぬ。あいまことちからを、いまこそらせてやるがよい。風体ふうていなんかは、どうでもいい)
メロスは、いまは、ほとんどぜんたいであった。呼吸(いき)もできず、二度にどさんくちからた。
える。はるかこうにちいさく、シラクスの塔楼とうろうえる。塔楼とうろうは、ゆうけてきらきらひかっている)

【塔楼】高くそびえる建物

「ああ、メロスさま
うめくようなこえが、かぜともこえた。
だれだ」
メロスははしりながらたずねた。
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達ともだちセリヌンティウスさま弟子でしでございます」
そのわかいしも、メロスのあとについてはしりながらさけんだ。
「もう、駄目だめでございます。無駄むだでございます。はしるのは、やめてください。もう、あのかたをおたすけになることはできません」
「いや、まだしずまぬ」
「ちょうどいま、あのかたけいになるところです。ああ、あなたはおそかった。おうらもうします。ほんのすこし、もうちょっとでも、はやかったなら!」
「いや、まだしずまぬ」
メロスはむねけるおもいで、あかおおきいゆうばかりをつめていた。はしるよりほかはない。
「やめてください。はしるのは、やめてください。いまはごぶんのおいのちだいです。あのかたは、あなたをしんじておりました。けいじょうされても、へいでいました。王様おうさまが、さんざんあのかたをからかっても、メロスはます、とだけこたえ、つよ信念しんねんつづけているようでございました」
「それだから、はしるのだ。しんじられているからはしるのだ。う、わぬは問題もんだいでないのだ。ひといのち問題もんだいでないのだ。わたしは、なんだか、もっとおそろしくおおきいもののためにはしっているのだ。ついてこい!フィロストラトス」
「ああ、あなたはくるったか。それでは、うんとはしるがいい。ひょっとしたら、わぬものでもない。はしるがいい」
 うにやおよぶ。まだしずまぬ。さいりょくくして、メロスははしった。メロスのあたまは、からっぽだ。なにひとかんがえていない。ただ、わけのわからぬおおきなちからきずられてはしった。

じゅう 三日みっか とうちゃく

 は、ゆらゆらへいせんぼっし、まさにさい一片いっぺん残光ざんこうも、えようとしたとき、メロスは疾風しっぷうのごとくけいじょうとつにゅうした。
った)
て。そのひところしてはならぬ。メロスがかえってきた。約束やくそくのとおり、いまかえってきた」
大声おおごえけいじょうぐんしゅうかってさけんだつもりであったが、のどがつぶれてしわがれたこえがかすかにたばかり、ぐんしゅうは、一人ひとりとしてかれとうちゃくがつかない。すでにはりつけはしら高々たかだかてられ、なわたれたセリヌンティウスは、徐々じょじょげられてゆく。メロスはそれを目撃もくげきしてさいゆう先刻せんこくだくりゅうおよいだようにぐんしゅうをかきけ、かきけ、
わたしだ、けいころされるのは、わたしだ。メロスだ。かれ人質ひとじちにしたわたしは、ここにいる!」
と、かすれたこえせいいっぱいにさけびながら、ついに はりつけだいのぼり、げられてゆくともりょうあしに、かじりついた。

【最後の勇】最後の勇気。(補足 この表現は慣用句「掉尾ちょうびゆうふるう」から来ているかもしれない。意味は最後の勇気を振りしぼること。「掉尾」とは魚が死の間際に尾を激しく動かすという意味だが、そこから転じて、最後に威勢が増すことをいう)
【刑吏】刑を執行する役人。または、刑場で働く役人。

 ぐんしゅうは、どよめいた。「あっぱれ」「ゆるせ」と口々くちぐちにわめいた。セリヌンティウスのなわは、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス」
メロスはなみだかべてった。
わたしなぐれ。ちからいっぱいにほおなぐれ。わたしは、ちゅういちわるゆめた。きみがもしわたしなぐってくれなかったら、わたしきみ抱擁ほうようするかくさえないのだ。なぐれ」
 セリヌンティウスは、すべてをさっしたようでうなずき、けいじょういっぱいにひびくほどおとたかくメロスのみぎほおなぐった。なぐってからやさしく微笑ほほえみ、
「メロス、わたしなぐれ。おなじくらいおとたかわたしほおなぐれ。わたしはこの三日みっかあいだ、たったいちだけ、ちらときみうたがった。まれて、はじめてきみうたがった。きみわたしなぐってくれなければ、わたしきみ抱擁ほうようできない」
 メロスはうでにうなりをつけてセリヌンティウスのほおなぐった。
「ありがとう、ともよ」
二人ふたりどうい、ひしとい、それからうれしきにおいおいこえはなっていた。
 ぐんしゅうなかからも、きょこえこえた。

【歔欷】歔→すすり泣く、欷→むせび泣く、であり、泣き声を出さずに静かに泣くこと

 暴君ぼうくんディオニスは、ぐんしゅうはいから二人ふたりさまを、まじまじとつめていたが、やがてしずかに二人ふたりちかづき、かおあからめて、こうった。
「おまえらののぞみはかなったぞ。おまえらは、わしのこころったのだ。信実しんじつとは、けっして空虚くうきょ妄想もうそうではなかった。どうか、わしをもなかれてくれまいか。どうか、わしのねがいをれて、おまえらのなか一人ひとりにしてほしい」
 どっとぐんしゅうあいだに、歓声かんせいこった。
万歳ばんざい王様おうさま万歳ばんざい
 一人ひとりしょうじょが、のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。ともは、をきかせておしえてやった。
「メロス、きみは、ぱだかじゃないか。はやくそのマントをるがいい。この可愛かわいむすめさんは、メロスのたいを、みなられるのが、たまらなくくやしいのだ」
 勇者ゆうしゃは、ひどく赤面せきめんした。
   (伝説でんせつと、シルレルのから。)

補足 『走れメロス』の元ネタについて

『走れメロス』の最後には以下の記載があり、全くのオリジナルではないことが表明されています。

“(古伝説と、シルレルの詩から。)”

教科書に掲載されている『走れメロス』のなかには、この一文が省かれているものがあるため、知らない人もいるかもしれません。

元ネタについて以下の論文に詳しく書かれているのでぜひとも読んでみてください。

『「走れメロス」材源考』角田旅人 著
https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/1643

元ネタが単なる美談なのに対して、太宰治は滑稽な肉付けをして小説に仕上げていることに気がつかれると思います。