20分で読める 中島敦『山月記』全訳 現代語訳(令和版)
中島敦の小説『山月記』を現代語訳したので公開します。
はじめに
『山月記』は漢文調の難しい表現を多用した文体が特徴であり、それが魅力のひとつです。しかし、その特徴のために、学校の国語の授業で習ったときには読めても卒業してから再び読むのは難しいのではないでしょうか。大人になってからのほうがより深く味わえる作品だと思うので、『山月記』を再び読みたいと思う人のお役に立てるように、大人を想定読者とした現代語訳をしてみました。ぜひ、お気軽に読んでみてください。(本音をいうと、自分自身のために訳しました)
翻訳方針
・用語説明は注釈として書く。説明的な文章にはしない。
・直訳調にせず、読みやすい日本語の文章となるように努める。そのために、言葉を多少補ったり、簡潔な言葉に置き換えたり、文の区切りを変えたり、段落分けを変えても良いものとする。
・虎に関連すると思われる表現は、できるだけ残す。
・主人公の李徴は自分自身を指す言葉として「己(おのれ)」、「自分」、「我」と様々な表現を使っているが、変えずにそのままとする。
・地名の読みがなは、一般的な読み方を採用する。例えば、「隴西」は「ろうさい」ではなく「ろうせい」とする。
・役職名の読みがなを和風にしない。具体的には、「江南尉」は「こうなんのい」ではなく「こうなんい」とする。(最近の教科書を2冊確認したら「こうなんのい」でした)
お断りとお願い
公開後も見直してちょこちょこ修正すると思います。もし、明らかな間違いがありましたら、コメントで連絡していただけると助かります。
(2023年12月31日追記 翻訳本文の見直しが終わりました。今後は、翻訳本文への大きな修正はしないつもりです。)
翻訳本文
隴西の李徴は、博学にして才知に長け、天宝の最後の年に若くして虎榜に名を連ね、その後、江南尉という官職に任命された。
しかし、彼は、他人に妥協しない性格な上に自分の才能を信じるところがはなはだしく、賤吏でもしかたなく受け入れることを許せはしなかった。まもなく辞職して、その後は故郷の虢略に戻り、人と交わることなく、ひたすら詩を作ることに耽った。長きにわたり下級官吏として俗悪な大官の言いなりになるよりも、詩人として名を死後百年まで残そうとしたのである。
しかし、詩で名をあげるのは容易なことではなく、生活は日に日に苦しくなっていく。李徴は、とうとう焦燥に駆られた。この頃から、容貌が険しくなり、肉が落ちて骨が目立ち、眼光だけがむやみに鋭く光り、かつて進士に合格した頃の肉付きの良い頬をした美少年の面影は、どこにもなかった。
数年後、貧しく苦しい生活に耐えきれず、妻子の衣食のため、ようやく主義を曲げて再び東へ赴き、地方官吏の職に就くこととなった。一方で、己の詩業に半ば絶望したためでもあった。
かつて自分と違わなかった者たちが出世して、はるかに高い地位につき、以前は頭が鈍くて歯牙にもかけなかった連中の命令に従わなければならなかった。過去には並外れて優秀だった李徴の自尊心をどれほど傷つけたのか、想像に難くない。彼はいつも不満を抱えて面白くなく、道義にもとる性分を抑えるのが、ますます難しくなった。
一年後、公務の旅で汝水のほとりに宿泊していた時、ついに、発狂した。ある夜中、急に顔色を変え、寝床から起き上がり、何やらわけのわからないことを叫びながら、そのまま下に飛び降り、闇の中へ駆け出した。彼は二度と戻ってこなかった。付近の山野を捜索しても、なんの手がかりもない。李徴がその後どうなったかを知るものは、誰もいなかった。
翌年、陳郡の袁傪という監察御史が、勅命を受けて嶺南に向かう途中、商於の地で宿を取った。次の朝、まだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うには「この先の道に人喰い虎が出るので旅人は昼間でなければ通れません。今はまだ朝早いからもう少し待ったほうがよいでしょう」とのことであった。しかし、袁傪は、お供が大勢いることを頼りに駅吏の言葉を退けて出発した。
残月の光をたよりに林の中の草地を通っていた時、まさに忠告されたとおり、一匹の猛々しい虎が草むらの中から躍り出た。もう少しで袁傪に飛びかかるかにみえたが、たちまち身をひるがえし、もとの草むらに隠れた。草むらの中から人間の声で「あぶないところだった」と繰り返しつぶやくのが聞こえた。その声に袁傪は聞き覚えがあった。彼は、驚きと恐れを感じながらも、とっさに思いあたって叫んだ。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
袁傪は李徴と同じ年に進士に合格し、友人の少なかった李徴にとってはもっとも親しい友人であった。袁傪は温和な性格で、李徴の厳しい気性と衝突しなかったためであろう。
草むらの中からは、しばらく返事がなかった。忍び泣きかと思われるかすかな声がときどき漏れるばかりである。少し間をおいて、低い声で返事があった。
「そうだ、自分は隴西の李徴である」と。
袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて草むらに近づき、懐かしげに御無沙汰をわびた。そして、なぜ草むらから出てこないのかと尋ねた。
李徴の声が答えて言う。自分の体は今や人間ではない。どうして恥ずかしげもなく昔なじみの前にあさましい姿をさらせよう。それに、自分が姿を現せば、必ず君は怖がり嫌うに決まっているからだ。しかし今、思いがけず昔なじみに会う機会を得て、恥じて赤面してしまうのを忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんのしばらくでいいから、我が醜悪な今の外見を嫌がらずに、かつて君の友、李徴であったこの自分と話しをしてもらえないだろうか。
後で考えてみれば不思議なことだが、そのときの袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を止めて留めさせ、自分は草むらのかたわらに立ち、姿の見えない声を相手に話をした。都のうわさ、旧友の消息、袁傪の現在の地位、それに対する李徴からの祝いの言葉。青年時代に親しかった者どうしが、以前のように隔てのない語調で、それらを語った後、袁傪は、どうして今の姿になるにいたったのかを尋ねた。草むらの中の声は次のように語った。
今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のことだ。ひと眠りしてから、ふと目を覚ますと、外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招いている。思わず自分は声を追って走り出した。無我夢中で駆けていくうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、いつのまにか自分は左右の手で地面をつかんで走っていた。何か体中に力が満ちあふれているような感じがして、軽々と岩石を跳び越えていった。
気がつくと、手先や肘のあたりに毛が生えているらしい。少し明るくなってから谷川に行き、姿を映してみると、すでに虎になっていた。自分は初め、目を疑った。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中でこれは夢だぞと知っているような夢を自分はそれまでに見たことがあったからだ。夢ではないことをどうしても受け入れなくてはならなくなった時、自分は呆然とした。そして、恐れた。本当にどんな事でも起こり得るのだと思って深く恐れた。
しかし、なぜこんなことになったのだろう。分からない。まったく何事も我々には分からない。理由も分からずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。自分はすぐに死を思った。
しかし、その時、目の前を一匹の兎が駆けて通り過ぎていくのを見た途端、自分の中の人間はたちまち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血で血まみれとなっていて、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。
それ以来、今までにどんな所行をし続けてきたか、それは、とても語るに忍びない。ただ、一日の中で必ず数時間は、人間の心が戻ってくる。そういう時には、かつての日と同じく、人の言葉も操れれば、複雑な思考もできるし、経書の章句を暗誦することもできる。その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見て、己の運命をふりかえる時が、もっとも情けなく、恐ろしく、腹立たしい。
しかし、その、人間に戻る数時間も、日が経つにつれ、しだいに短くなっていく。今までは、どうして虎などになったのかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。もう少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれ、消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎がしだいに土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去をすっかり忘れ、一匹の虎として狂いまわり、今日のように道で君と出会っても友人と認めることなく、君を裂いて喰らって何の悔いも感じないだろう。
一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。なのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、まったく、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持ちは誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上になった者でなければ。
ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
袁傪をはじめ、一行は、息をのんで草むらの中の声が語る不思議な話に聞き入っていた。声は続けて言う。
他でもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、そうなる前に、この運命を迎えた。かつて作った数百篇の詩は、もちろん、まだ世に出ていない。遺稿の所在ももはや分からなくなっているだろう。ところで、その中で、今でもまだ憶えているものが数十篇ある。これを我がために記録して欲しいのだ。何も、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。作品の良し悪しは分からないが、とにかく、財産を失い心を狂わせてまで自分が執着して作ったものを、一部なりとも後の世に伝えないことには、死んでも死に切れないのだ。
袁傪は部下に命じ、筆を執らせ草むらの中の声にしたがって書き取らせた。草むらの中からは、李徴の良く澄んだ声が響いた。長短およそ三十篇、格調高く、優雅で、趣きにすぐれ、一読して作者の才能が普通ではないと思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。なるほど、作者の素質が一流であることに疑いはない。しかし、このままでは、一流の作品となるには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。
以前作った詩を吐き出し終えた李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るかのように言った。
恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安の風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。笑ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。
(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思い出しながら、哀しく聞いていた。)
そうだ。お笑い草ついでに、今の思いを即席の詩にしてみようか。この虎の中に、まだ、かつての李徴が生きているしるしに。
袁傪は、再び部下に命じてこれを書き取らせた。
その詩は、こうであった。
精神、病んで、殊類となった
災患ともに、逃れはできず
今は爪牙で、誰より強い
過去は声跡、どちらも高い
我は異物だ、茂みの下へ
君は車上だ、気勢が盛ん
夜の渓山、明月臨む
長嘯ならず、吠え声となる
こうしている間に、残月は冷ややかな光となり、白い露が地面を潤し、木々の間を風が吹き渡り、もう夜明けは近いと告げていた。人々はもはや、事の不思議さを忘れ、静かに、この詩人の不運を嘆いた。李徴の声は再び続ける。
なぜこんな運命になったか分からないと、さっきは言ったが、しかし、考えようによっては、思いあたることが全然ないこともない。人間であった時、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を傲慢だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつて郷土の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩を作る仲間と交わり切磋琢磨して励むことをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に交わることも好まなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。
己の才能が実はそれほどではないとわかってしまうことを恐れたため、あえて力を尽くして磨こうともせず、また、己の才能を半ば信じたため、平々凡々とした連中の仲間に入ることもできなかった。己は、しだいに世間と離れ、人から遠ざかった。憤っては悶え、恥じては怒り、ますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果となった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、とうとう、己の外形をこのように内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
今思えば、全く、己は、己の持っていたわずかばかりの才能を無駄にしてしまったわけだ。人生は何事もなさないでいるには余りに長いが、何事かをなすには余りに短いなどと口先ばかりの警句をもてあそびながら、事実は、才能の不足を暴露してしまうかも知れないとの卑怯な危惧と、力を尽くして励むことを嫌う怠惰が、己のすべてだったのだ。己よりもはるかに乏しい才能でありながら、他を顧みずにそれを磨いたために堂々とした詩人となった者はいくらでもいるのだ。虎と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸が焼かれるような悔いを感じる。
己にはもはや人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんなにすぐれた詩を作ったとして、どういう手段で発表できるというのか。まして、己の頭は、日々、虎に近づいていく。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。そういう時、己は、向こうの山の頂きにある大きな岩に上り、空谷に向かって吠える。この胸を焼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨日の夕方も、あそこで月に向かって吠えた。誰かにこの苦しみを分かってもらえないかと。
しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただ、恐れ、ひれ伏すばかり。山も木も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、激しく吠えているとしか考えない。天に向かって躍り上がり地に伏して嘆いても、誰一人、己の気持ちを分かってくれる者はいない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮が濡れたのは、夜露のためばかりではない。
ようやく、あたりの暗さが薄らいできた。木々の間を伝って、どこからか、暁角が哀しげに響き始めた。
もう、別れを告げなければならない。酔わないといけない時が、(虎に戻らねばならない時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。
だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らはいまだに虢略にいる。いうまでもなく、己の運命について知るはずがない。君が南から帰ったら、己はすでに死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願いだが、彼らには身寄りがないことを憐れんで、今後とも道端で飢えたり凍えたりすることのないように取り計らっていただけるならば、自分にとって、これに勝る幸せはない。
言い終わって、草むらの中から慟哭の声が聞こえた。袁もまた涙をうかべ、喜んで李徴の意に添いたいと答えた。しかし、李徴の声は、たちまち、また、さっきの自嘲的な調子に戻って言った。
本当は、まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を落とすのだ。
そして、さらに付け加えて言った。
袁傪が嶺南から帰るときには決してこの道を通らないで欲しい。次は自分が酔っていて友人と分からずに襲いかかるかも知れないからだ。また、今から別れて、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。勇ましさを自慢したいのではない。我が醜悪な姿を示して、それにより、ここを過ぎてから再び自分に会おうとする気持ちを君に起こさせないためである。
袁傪は、草むらに向かって丁寧に別れの言葉を述べてから、馬に乗った。草むらの中からは、また、こらえることができないかのような悲しい泣き声がもれた。袁傪も、何度か草むらを振り返りながら、涙の中を出発した。
一行が丘の上についた時、彼らは、言われた通りに振り返って、先ほどの林のなかの草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、すでに白くなり光を失った月を仰いで、二声三声吠えたかと思うと、勢いよく元の草むらに戻り、再びその姿を見なかった。
参考 現実的な考察に向けて
学校で『山月記』を習った時には、おそらく、李徴の告白が正しいことを前提にして作品の解釈をしたと思います。教材として扱うならそれでもよいでしょう。しかし、良く考えてみてください。発狂した李徴の言うことが、信じるに値するといえるのでしょうか?李徴のいうことを真に受けて良いのでしょうか?
李徴は草むらに隠れて話をしていたので虎になった姿の李徴が話をしているのを見た者はいません。李徴が虎になったというのは李徴がそう言ったというだけでしかありません。ですから、可能性としては、李徴が虎になったというのは李徴の作り話あるいは妄想であり実は李徴は虎の姿になっていない、ということもあり得ます。
袁傪は声を聞いただけで李徴だと気がついていますが、虎が話す声が人間だった頃の声と変わらないというのは現実的に考えるとありえないでしょう。喉や口が虎になっていては人間の頃とまったく同じ声が出せるはずがありません。李徴も同様に考えていたようで、李徴が袁傪と会ったときにその場で作った漢詩において「不成長嘯但成嘷」と言っています。長嘯とならずに獣の咆哮になると言っているのです。
ラストの場面では、袁傪が今後李徴に会いたいと思わせないために李徴は虎の姿を見せていますが、なぜか袁傪に丘の上に行ってから見るようにという条件をつけています。目の前で虎の姿で話をすれば効果的なのに、なぜか離れて見るように仕向けているのです。このことからも、李徴が虎の姿になったことに疑念がわきます。
李徴の言うことには他にも怪しい点があります。この小説の時代である唐の時代、進士となり官職についたまま詩人として名を挙げた人物は何人もいます。なので、李徴は官吏となっているときも詩人として活動することができたはずです。それなのに、李徴は作った詩が世に出ていないと袁傪に言っているのはなぜでしょう?本当に李徴は詩人になりたかったのでしょうか?
地理についても着目してみてください。李徴は汝水で行方不明となったのに、遠く離れた商於で袁傪と会っています。教科書には地図がついていると思うので位置関係を見てください。東から西へと、汝水 - 商於 - 長安 が線でつながります。これはなぜでしょう?
ただ定番解説を真に受けるのではなく、李徴の言うことを疑って読んでみると、新たな発見があり面白いと思います。
参考文献
・漢詩の解釈において以下のサイトを参考にしました: