『日清・日露戦争の陸軍脚気惨害は森鴎外の責任』は俗説:板倉聖宣の主張に由来

対象とする読者
「森鴎外のせいで陸軍は日清戦争、日露戦争で大量の脚気患者と脚気死者を出した」と知っている人。
この記事の主題

「森鴎外のせいで陸軍は日清戦争、日露戦争で大量の脚気患者と脚気死者を出した」は、板倉聖宣(いたくら きよのぶ)が広めた俗説だということの考察。
この記事の結論
板倉聖宣は、1988(昭和63)年に出版した『模倣の時代』において、エリート教育批判をするのに森鴎外に目をつけて稚拙な理由づけで陸軍脚気惨害の責任はエリートの森鴎外にあると主張した。板倉聖宣は、この本の出版後も色々なところでその主張を広めた。その主張に影響された人たちが現れ、その人たちが「板倉聖宣の主張」を「歴史的事実」であるかのように広めた。しかし、この「板倉聖宣の主張」は根拠不十分な俗説にすぎない。

今回の記事は、以下の記事の姉妹編となります。以下の記事は、歴史的にみて森鴎外の責任といえるのかを検討したものです。

本記事は、敬称略とします。


■はじめに

森鴎外(本名 森林太郎)のために陸軍は日清戦争と日露戦争で大量の脚気患者と脚気死者を出した、と良くいわれます。このことについて、信頼できる文献や古い1次資料、2次資料から史実を調べてみると、森鴎外だけに責任を負わせるような理由が見当たらず、どうして森鴎外の責任だと広まったのか不思議でした。
着眼点を変えて、森鴎外のせいだと書いているものが何を参照しているのか参考文献一覧から脚気に関するものを拾い出し、その拾い出したものがさらに参考にしているものは何かを追っていく作業をしてみました。すると、ある人物が浮かび上がりました。それは、『模倣の時代』の著者である板倉聖宣(いたくら きよのぶ)です。

板倉聖宣についての詳細は、wikipediaに項目があるのでそちらを参照ください。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/板倉聖宣

以下、『模倣の時代』の上下巻を単に「上巻」「下巻」と表記します。

■板倉聖宣と脚気の歴史

板倉聖宣は、日本の脚気の歴史を扱った『模倣の時代』を仮説社より1988年に出版しました。執筆を始めた頃、これまでの医学史の本には脚気の歴史を扱った本はなかったと著者は述べています(下巻p.604)。

【補足】簡単な脚気の歴史について書かれたものなら存在した。たとえば、萩原弘道『日本栄養学史』(国民栄養協会、1960)【文献6】は、第1篇で明治期の脚気対策の歴史を扱っている。(ただ、この本の第1篇には間違った記載がみられる。)

『模倣の時代』には、たくさんの人物が登場するが、森鴎外を別格に扱っています。上巻p.275では、森に着目することについて記載があり、その理由は資料が多くて研究に便利だからと言っています。しかし、それは詭弁です。本を読めばわかるのですが、森を貶めるための特別扱いです。

板倉聖宣の著書『増補 日本理科教育史』(2009、仮説社)p.481において、『模倣の時代』について触れており、以下を述べています

“「〈有名な小説家で、陸軍省医務局長にまで出世した森鴎外(1862〜1922)〉がとんでもない科学観の持ち主で、そのため陸軍の兵隊たちに、大量の脚気患者を発生させ、死に至らせる結果になった」ということを、〈森鴎外その人の言動〉から疑問の余地なく明らかにすることが出来ました。”

この発言からも、『模倣の時代』は森鴎外を貶めることを意図していることがわかります。あとで検証しますが、とても「疑問の余地なく」とはいえません。

■『模倣の時代』での森鴎外の扱い

『模倣の時代』で森鴎外をどう扱っているかを簡単に箇条書きしてみます。
(1)森鴎外は麦飯を否定
(2)陸軍医務局長、かつ、大本営陸軍部野戦衛生長官だった人物の、石黒忠悳(日清戦争時)、および、小池正直(日露戦争時)に影響を与えた
(3)そのために両名は日清、日露戦争で麦飯を取り入れなかった
(4)白米飯を兵食の主食としたため陸軍で脚気惨害が起きた(下記【補足】参照)
とされています。
森鴎外は兵食を決める権限を持つ野戦衛生長官ではなかったので(2)(3)としているのは筋が通っています。問題は、板倉聖宣は、この(2)(3)について確かな証拠や十分な状況証拠も示しておらず、板倉聖宣による稚拙な推測だけしか示せていないということです(あとで検証します)。しかし、森鴎外を非難したい人たちにとってはそんなことは些細なことのようで、板倉聖宣の主張を真に受けた人たちが次々に現れています(詳細は後述)。

【補足】白米飯が主食だと脚気となる理由
現代では白米を主食にしたからといって脚気になることは、まずない。これは、現代と当時では「主食」の位置づけが違うためである。当時は、摂取カロリーのほとんどを「主食」から得ていた。当時のおかずの量はとても少なく、主食を食べ進めやすくするための添え物という感じであった。脚気はビタミンB1が不足することで起きるが、白米が含有するビタミンB1は少ない。米を精白して白米にすると、おいしくなるが、ビタミンを豊富に含む部分を失ってしまう。日清戦争、日露戦争のころは、ビタミンという栄養素が存在することを人類はまだ知らなかった。
当時の陸軍の戦時兵食は以下のためビタミンB1が不足した。
・主食を1日あたり白米6合とした(6合を炊くと、お茶碗で約12杯)
・副食が貧相だった。そのため副食から得られるビタミンB1が少なかった。
日露戦争では陸軍でも明治37年8月から一部で麦飯が支給され、のちに陸軍全体で米7麦3の割合の麦飯としたが、それでも脚気を完全にはなくせなかった。

■板倉聖宣のエリート教育批判

下巻p.559-561「結語」に、著者が本を書いた目的が表れています。以下に抜粋します。

“模倣の時代は、エリートたちにもっとも効果的な活躍の場をあたえた。しかし、エリートというのは、もともと学ぶ=模倣するに値するものがはっきりしているときにもっともそのエリートぶりを発揮できるのであることを忘れてはいけないであろう。あたえられた枠内では頭の回転が速くて記憶力が抜群な人々がエリートとなることができた。そういう学校秀才はもともと権力に弱いのである。”(下巻p.561)

森鴎外の上官であり陸軍におけるもっとも強硬な麦飯反対者にふさわしい言動の記録が残っている人物は石黒忠悳です。『模倣の時代』でも石黒忠悳が麦飯に反対していたことが何度も取り上げられています【注釈
2】。しかし、石黒忠悳は東大卒ではなく、エリート教育を受けた人物ではありません。そこで板倉聖宣は、東大卒の森鴎外に着目したと思われます。

板倉聖宣は、「日清戦争にあたって石黒忠悳が麦飯を採用しなかったのは、森鴎外のせいだといえるように理由づけができないか?」そう考えたにちがいありません。
「そうだ、森の傍観機関論争が使える」こうも言ったかもしれません。
板倉聖宣が『模倣の時代』で使っている書き方を真似ました。冗談ではなく、本当にこんな感じで書いています。

板倉聖宣は、『週刊朝日百科 日本の歴史 103 近代1−4 学校と試験』(1988/4/10、朝日新聞社)において、「エリート教育の欠陥」と題した記事を書いています。出版日からすると『模倣の時代』を書いてすぐに書かれたと思われます。以下に抜粋します。

“陸軍省の中でもっとも強硬な麦飯反対者は森林太郎で、東大医学部の中でもっとも強硬だったのは長い間その医学部長の地位を独占した青山胤通であった。彼らは、西洋医学の成果を学ぶのにはもっとも意欲的で有能であったが、そのためまた、日本人自身の現場的な感覚による独創的な研究成果を無視したのである。”

この記事には、石黒忠悳は出てきません。この記事の副題は「脚気をめぐって」ですが、エリート教育を受けていない石黒忠悳の名前は一切出てきません。

板倉聖宣は歴史をねじまげています。石黒忠悳の影響を小さくみせ、あるいは存在を消し、戦時ならではの様々な考慮事項も無視し、「エリート」の森鴎外に責任を押し付けた単純化した物語を広めているのです。

■板倉聖宣による森鴎外責任説の布教

板倉聖宣は、『模倣の時代』を出版後に、色々なところで森鴎外を名指しして陸軍脚気惨害の責任があると広めています。いくつか取り上げてみます。

雑誌『科学朝日』1988年7月号(朝日新聞社)

シリーズ『科学者をめぐる事件ノート』の第19回として「森鴎外 陸軍脚気大量発生事件」を書いています。ここでは、森鴎外のせいといって良いと、はっきりと述べています。
この記事は単行本化され『スキャンダルの科学史』(1989、朝日新聞社)、『スキャンダルの科学史(朝日選書)』(1997、朝日新聞社)に収録されています。

『脚気の歴史 日本人の創造性をめぐる闘い』(2013、仮説社)

『模倣の時代』のエッセンスをコンパクトにまとめた80頁ほどの冊子です。ここでは「死ぬまで麦飯支給に反対してきたことがあきらかな森鴎外」p.78 と語調を強めています。(似た表現は『模倣の時代』にもある。「主食と脚気病との間に関係はないと最後まで主張しつづけた森林太郎」(下巻p.534)との記載がある)

【補足】森鴎外が「死ぬまで麦飯支給に反対」したことは、史実ではありません。
史実では、以下のように麦飯が認められています。
(1) 日露戦争中、森鴎外は、担当する第二軍の各軍医部長に向けて、脚気予防として麦および雑穀の供給に尽力するように要請している(詳細は【注釈3】参照)。
(2) 麦飯が陸軍兵食規則に正式採用(【文献2】【文献3】)されたのは、森鴎外が陸軍医務局長の時代である。

NHKのTV番組「ライバル日本史」の1996年2月22日の回「日清・日露 軍医鴎外の大敗北〜高木兼寛と森鴎外〜」

このテレビ番組に板倉聖宣は解説者として出演しています。
放送内容は『抗争 ライバル日本史4』(1996、角川文庫)に収録されています。
この本で内容を確認したところデタラメだらけでした。日清戦争、日露戦争で陸軍医務局長であった石黒忠悳も小池正直も出てきません。さらに、ここで語られる森鴎外には、石黒忠悳の言動が混じっていて現実には存在しない架空の人物となっています。
ここでも板倉聖宣は森鴎外を貶める発言をしています。いくつか引用します。

“新しい発見というのはだいたい現場からもたらされます。ところが鴎外は、ベルリン大学で学問一辺倒になってしまって、現場の軍医がそんなものを発見できるわけがないと思い込んでいたのです。”(p.251)
“鴎外は、「ドイツ医学者にも発見できないものが日本の現場軍医に発見できるはずはない」とまで考えていたんです。”(p.257-258)

この発言のもとが下巻p.512-520にありました。小池正直と森林太郎の共著である『衛生新編』について書かれた箇所です。大正三年に発行された『衛生新編 第五版』では、新たに「脚気」の項目が追加されており、その内容について検討しています。板倉聖宣は、書かれるべき日本人の業績が抜けていることから想像を膨らませています。下巻p.519-520から引用します。

“森林太郎にとっては、ヨーロッパにおける脚気研究の状況を知らせることだけが問題であったのだろう。(略)森林太郎=鴎外とは、そのような人であったのである。だから、欧米の医学者の栄養学説を固守して麦飯の脚気予防説を断固として排したのである。(略)森林太郎は青山胤通に負けず劣らず欧米崇拝者で、〈日本の医学者には何もできないもの〉と思いこんでいたのである。もちろん自分も何も発見できるとは考えていなかったので、自ら脚気の原因を探る努力もしなかったわけである。彼らの仕事といえば、日本の学者たちがヨーロッパの医学の伝統の枠を越えて独創的に振る舞うことに対して断固として弾圧することだったのである。”

板倉聖宣は膨らませたこの想像の正しさを検証していません。
この想像の酷さは、別の著者による調査からわかります。山下政三『鴎外 森林太郎と脚気紛争』(2008、日本評論社)も、この『衛生新編 第五版』に追加された「脚気」の項目を分析しています(p.419-422)。そこでは、「脚気」の項目は統一がなく雑然としているが、それは他者の記述からの寄せ集めであるためで、そこには森鴎外の意見は全然ない、ということが明らかにされています。
このことから、板倉聖宣とは(少なくとも森鴎外に関しては)、十分な調査検証もせずに森鴎外について否定的に想像し、激しい思い込みをする人物であり、信用ができない人物であることがわかります。

また、板倉聖宣が森鴎外に「欧米崇拝者」のレッテル貼りをしていますが、その誤りは少し考えればすぐにわかります。欧米崇拝者たちが洋食(肉とパン)にすべきだと主張していた頃に、森鴎外は兵食を日本食から洋食(肉とパン)に変更する必要はないと主張しました(上巻p.393-399)。さらに、陸軍では森鴎外に担当させて実際に兵の体を使った栄養の吸収率の測定をする兵食試験を実施し、日本独自の測定結果を出しています(なぜか『模倣の時代』ではほとんど取り上げられていない)。森鴎外らは、単なる欧米崇拝者ではありません。

■板倉説の賛同者

板倉聖宣の主張の要点は
・文豪として有名な森鴎外は軍医としては大失敗していた。大量の脚気患者と死者を出した。
・エリートの失敗
ということなので話のネタとして面白くて興味をひきやすく、そのために、受け入れやすく広がりやすいのではないかと思います。

板倉聖宣の主張に影響されたものが色々と登場しています。いくつか例をあげていきます。

土屋雅春『医者の見た福澤諭吉』(1996、中公新書)

『模倣の時代』をもとにして、森鴎外を脚気惨害を引き起こした人物としてとりあげています。

坂内正『鴎外最大の悲劇』(2001、新潮社)

脚気に関しての森鴎外批判に特化した本となっています。『模倣の時代』を参考文献としてあげています。森鴎外の兵食論などは細かく自ら分析しているのに対して、板倉聖宣『模倣の時代』の主張する「森鴎外が石黒忠悳、小池正直に影響を与えた」とする考えを特に疑いもせずに取り入れています。

内田正夫『日清・日露戦争と脚気』2007

以下のURLより参照できます
http://id.nii.ac.jp/1073/00002441/
参考文献に、『模倣の時代』『鴎外最大の悲劇』『脚気の歴史 日本人の創造性をめぐる闘い』があがっています。ネット公開されていて参照が容易なので、SNSなどで、鴎外に陸軍脚気惨害の責任があることの根拠資料としてあげられているのを見かけます。
ここには、こんなことが書かれています。

“なかでも細菌説は最も有力であった。東京大学医学部卒業者の多くがそれに傾き、とりわけエリート軍医、森林太郎(鴎外)がその中心人物となった。そして、彼がこの考えにこだわり続けたことが、その後の陸軍の悲惨な脚気禍をもたらしたと言ってよいのである。”

あえて「エリート」と付けた上で森鴎外のせいにしており、板倉聖宣の影響がよく出ています。

安斎育郎『だます心 だまされる心』(2005、岩波新書)

森鴎外が麦飯を否定したことで脚気惨害が起きたことをとりあげています。参考文献で脚気に関係しそうなのは『スキャンダルの科学史』。おそらく、板倉聖宣が書いた「森鴎外 陸軍脚気大量発生事件」を参考にしたのでしょう。そうだとしたら、板倉聖宣に見事にだまされて森鴎外について誤った認識をしているので実に皮肉です。

【補足】 なだいなだ「人間、とりあえず主義(20)森鴎外はそんなに偉い人だったか」(ちくま 350号、2000年5月号に掲載) も参考文献としてあがっていて、その記事でも森鴎外により脚気惨害が起きたことが書かれています。その記事が収録された、なだいなだ著『人間、とりあえず主義』(2002,筑摩書房)で確認したのですが、これはエッセイであり、参考文献が記載されておらず何に影響されたのか不明でした。ここには、海軍の軍医が陸軍も麦飯に変えたらどうか進言したが最後まで突っぱねたのが森鴎外らであり、その先鋒が鴎外、と書かれています。

丁 宗鉄『正座と日本人』(2009、講談社)

一見、脚気と縁のなさそうな本にも影響が出ています。『鴎外最大の悲劇』を参考文献にあげて、森鴎外のせいで日露戦争において陸軍は大量の脚気が出たと述べています。

山本健人『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』(2021、ダイヤモンド社)

一般向け医学入門書でも影響が出ています。森鴎外が脚気細菌説にこだわったために兵食の主食を白米にし続けて日清戦争、日露戦争で大量の脚気が出たと書いています。その参考文献は、上記にあげた内田正夫『日清・日露戦争と脚気』です。

他にもまだまだ影響を受けたものはあります。
板倉聖宣の著書から直接影響を受けるのではなく、影響を受けた書き物を通して影響を受けたものも現れています。このように広がっているため、森鴎外と脚気の関係について「どこかで見た、知った、聞いた」という人が増えていき「常識」化していったと考えられます。一種の都市伝説ともいえるかもしれません。

■『模倣の時代』が森鴎外の責任とする理由の検証

『模倣の時代』では、陸軍脚気惨害を森鴎外の責任とする理由をどう書いているのでしょう?森鴎外は、日清戦争および日露戦争のときにはまだ陸軍医務局長ではなく陸軍兵食を決める権限はありません。そこで板倉聖宣は、陸軍医務局長だった石黒忠悳(日清戦争時)、小池正直(日露戦争時)に森鴎外が影響を与えたと考えました。この点に着目し検証します。

日清戦争の場合

▶前提となる事実
日清戦争(明治27-28)のときの陸軍医務局長および大本営陸軍部野戦衛生長官は、石黒忠悳。
森は、誌上にて傍観機関論争を行い老策士批判をした(明治26年5月)。
そのころ、陸軍医務局長の石黒忠悳は、世代交代を考えて辞任を表明(明治26年7月)。しかし、引き止められて辞任を取りやめた。【出典1】
▶板倉聖宣による説明
石黒忠悳が辞任しようとしたのは、森の傍観機関論争の影響。この影響で、森の言うことに従おうと思うようになった(下巻p.29-32)。石黒忠悳が日清戦争で麦飯にしなかったのは、森鴎外が麦飯を否定してそれに従ったからに違いない(下巻p.35-36)。
つまり、森鴎外のせいで日清戦争のときに陸軍は麦飯を採用せず、そのために陸軍で脚気惨害が起きた(下巻p.37-41 )。
▶検証
板倉聖宣は、憶測しか示していない。
石黒忠悳は、森が陸軍に入る前から反麦飯派で米食派である。
森をドイツ留学させたのも、帰国後に森に兵食試験をさせたのも石黒。兵食を麦飯にしようとする陸軍内の麦飯派を退けてきたのも石黒。【出典2】
その流れからいって、日清戦争で白米にして脚気惨害が起きたのは石黒忠悳の意思によるものとみなすのが妥当。つまり、日清戦争での脚気惨害は、石黒忠悳に責任があります。
ただし、石黒が米食を推進するにあたり、米食の優秀さを示す学術的な情報を提供した森に責任が何もないとはいえません。
つまり、森鴎外にも責任はあるが、森鴎外だけをとりあげて森鴎外のせいだというのは適切ではない。

日露戦争の場合

▶前提となる事実
日露戦争(明治37-38)のときの陸軍医務局長および大本営陸軍部野戦衛生長官は、小池正直。
明治34年に森鴎外が、『脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎』【文献4】との記事を発表。陸軍で麦飯により脚気が減ったというが、麦飯を採用した時期が脚気の減少期にたまたま重なっただけではないかと主張した。その根拠として、蘭領印度の脚気の減少と陸軍の脚気の減少が類似していることを示した(下巻p.118-123)。
▶板倉聖宣による説明
小池正直は麦飯は脚気に効果があると思っていた(下巻p.105-106)。そこへ、森の発表を知って、麦飯の有効性に疑問が湧いて日露戦争では麦飯の採用をしなかった(下巻p.141)。
▶検証
板倉聖宣は、憶測しか示していない。
森が書いた記事は、読めば分かるが非常に酷いものでまったく説得力がない。陸軍と他の国内データとの比較をしていない。たまたま傾向が似た蘭領印度のデータみつけて、比較しただけ。また、麦飯にしてはいけないともいっていない。
つまり、小池正直が日露戦争で麦飯にしないと決断する十分な理由になっていない。
『模倣の時代』においても、森鴎外が書いたこの記事がいかにおかしな記事かを解説している(下巻p.118-123)のだから、小池正直に影響を与えた別の要因について検討を進めるべきです。下巻p.140で、せっかく陸軍医務局の田村俊次の証言を取り上げ、麦が変敗しやすいことや輸送の問題をあげているのに、その証言について深めることなくまるで相手にしていません。そして、続けて下巻p.141で 以下のように森鴎外の責任へと誘導しています。

〈もしかすると、小池衛生長官は、森林太郎の反撃にあって、麦飯の有効性に対する自信を揺さぶられた結果、無理してまでも麦を輸送することを考えなくなったのではないか〉
とも疑われてくる。

繰り返しますが板倉聖宣の憶測でしかありません。
以上より、日露戦争の脚気惨害を森鴎外のせいとするのは適切ではありません。

日清戦争においても日露戦争においても、陸軍脚気惨害の責任が森鴎外にあるとする根拠は不十分である。 

■小説『白い航跡』吉村昭により脚気惨害が知られる

ここまで、陸軍脚気惨害の責任は森鴎外だと板倉聖宣が広めたと書いてきましたが、それとは別の影響について触れておきます。
森鴎外が陸軍脚気惨害に関係していたことを世間に広めたと考えられる小説があります。吉村昭による小説『白い航跡』(単行本1991、文庫1994、文庫新装版2009)です。とくに医学や医療の関係者がよく取り上げているようです(ネットでの個人調べ)。
これは、海軍軍医の高木兼寛を主人公とした小説です。そこには、海軍の脚気対策に批判的な陸軍が描かれており、脚気対策において主人公高木兼寛に敵対した人物として森鴎外が登場しています。日清戦争、日露戦争で陸軍脚気惨害がおきたのは森鴎外のせいであるとは書いていないのですが、そのように読んでしまう人がいるようです。

さらに、この小説を史実として扱ってしまう人がいます。たとえば、渡部昇一『かくて昭和史は甦る:教科書が教えなかった真実』(2015、PHP文庫)では、小説『白い航跡』をもとに脚気について述べています。
そのなかで、
“日露戦争後も森鴎外は米食至上主義をまったく反省せず、陸軍兵士に白米を与え続けたという。”
との記載があります。これは、小説の
“森が軍医総監となって、医務局長に補された。その就任によって、米食を至上とする陸軍軍医部の姿勢は一層ゆるぎないものになった”
をもとにしたのだと思います。
これは史実ではありません。森鴎外が医務局長時代に陸軍兵食規則は変更されて麦飯を正式に採用しています【文献2】【文献3】。また、平時であれば日清戦争前から麦飯にすることが現場裁量で行われていました【注釈1】。

さて、渡部昇一のこの本でも森鴎外のせいで日清戦争、日露戦争で陸軍脚気惨害がおきたと書いています。それどころか「国賊的な“エリート医学者”」とまで言っています。小説はそんな描き方をしていないのにです。この本での脚気の箇所は、日本のエリートの弊害という文脈で登場しています。このエリートの問題は、板倉聖宣の主張と同様です。板倉聖宣の主張に影響を受けた可能性がありそうですが、残念ながらこの本には参考文献の記載がなく確認はできませんでした(『白い航跡』を参照していることについては本文中に記載がある)。

『白い航跡』を読んだ人たちが森鴎外と脚気惨害の関係について知り、興味が湧き、調べてみたら板倉聖宣の著書やその影響を受けたものを読んでしまう、ということがおきることは十分に考えられます。

そのような例といえるのが、志田信男『鴎外は何故袴をはいて死んだのか: 「非医」鴎外・森林太郎と脚気論争』(2009、公人の友社)です。「まえがき」には以下の記載があります。

“吉村昭著「白い航跡」を読んだのが、一九九二年である。この本で脚気が明治初期の日本の国民病の一つであり、医学界の大問題だったことを知った。”(p.7)
“筆者が「鴎外」を追求するのは、別に彼を「目の敵」としているわけではなく、彼が、維新から敗戦を経て現代に至る明治代以来の日本人の思想の在り方、学歴エリートの問題、学問における権威主義、医学における人間疎外状況など現代につながる根源的な問題をはらんだ歴史的人物であり、その要に位置する象徴的な人物だからである。”(p.9)

エリート批判に主眼がある点は板倉聖宣と同様の考えです。本書には、ところどころ板倉聖宣の名前や『模倣の時代』が出てきており影響を受けていることが分かります。

■さいごに

この記事の目的から外れるためにほとんど触れなかったのですが、陸軍脚気惨害が起きたことの責任が森鴎外に全くないということではありません。この記事が問題としているのは、板倉聖宣が十分な根拠もなく陸軍脚気惨害の責任を森鴎外だけに負わせようとしていること、つまり、板倉聖宣が史実ではないことを広めようとしたことです。

この記事で検討したことをまとめます。
(1)板倉聖宣は、十分な史実の検証を怠り、自分の思い込みで森鴎外の責任とみなし、エリートの失敗という話として主張
(2)その主張に賛同する人たちが板倉聖宣の主張を広げた
そこには歴史的正しさを追求する姿勢はありません。そして、何が面白い話題として利用できるかで、拡散しています。いまでは多くの人の常識と化してしまっているように思われます。

この記事により、板倉聖宣が放った呪いから一人でも多くの人が解き放たれることを祈っています。

p.s. 注意点を1つ。この記事は現在確認できる様々な資料から考察したものです。板倉聖宣の説を肯定するような新たな資料が今後発掘されないともかぎりません。仮にそうなったとしても、自説を確かにする根拠もなく想像を膨らませるだけで森鴎外に責任を負わせ、仮説ではなく歴史の真実のように主張した板倉聖宣に問題があることは変わりません。

■参考 山下政三による『模倣の時代』批判

いわゆる脚気三部作の著者であり、脚気とビタミンの歴史の専門家といえる山下政三による著書『鴎外 森林太郎と脚気紛争』(2008、日本評論社)は、タイトルの通り森鴎外を軸にした脚気の歴史本です。これを読めば、いかに板倉聖宣の認識が歪んでいておかしいかがわかると思います(注 ただし、この本は、臨時脚気病調査会のことで森鴎外を妙に持ち上げたりなど十分な説明なく森鴎外を擁護するような箇所がある。そこは差し引いて読む必要がある)。
この本では、『模倣の時代』を名指しで酷評しています。以下に引用します。

“医学を知らない門外の素人が医学の脚気問題を論じている異様な書であるが(そのため各所に驚くほど多く、医学的な錯誤や誤解が見られる)...”(p.430-431)
“森鴎外に対して、あるいは臨時脚気病調査会に対して、はなから中傷する肝でもあったのだろうか?”(p.431)

山下政三の脚気三部作とは以下になります。
『脚気の歴史 ビタミンの発見以前』1983、東京大学出版会
『明治期における脚気の歴史』1988、東京大学出版会
『脚気の歴史 ビタミンの発見』1995、思文閣出版
脚気の歴史を知りたい方はこれらの専門書を参照することをおすすめします。(専門書なので楽しく読める読み物ではありません)

■出典

出典1 【文献5】p.237
https://dl.ndl.go.jp/pid/1884883/1/149

出典2 【文献5】p.220
https://dl.ndl.go.jp/pid/1884883/1/141

■文献

文献1 雑誌『科学朝日』(1988-07、朝日新聞社)

“『科学朝日』48(7)(570),朝日新聞社,1988-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2335783 (参照 2022-12-23)”
(※執筆時点ではインターネット公開されていないので、このURLから中身は確認できません。)

文献2 陸軍平時兵食の麦飯への変更

“第二十一條中「精米」ヲ「米麦」ニ改ム”
と条文の変更がされている。
訳すと「第21条中 精米を米麦に改める」
以下より確認できる
陸軍給与令中改正・御署名原本・大正二年・勅令第四十三号
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000023611

文献3 陸軍戦時兵食の麦飯への変更

陸軍戦時給与規則細則が大正三年の陸達二十号により変更。
従来は主食は精米六合だったものが、精米 四合五勺、精麦 一合九勺へと米麦混合に変更された。
変更内容は官報 第614号(1914年8月17日)に記載されており、以下より確認できる
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2952718/1
このURLは、
“大蔵省印刷局 [編]『官報』1914年08月17日,日本マイクロ写真,大正3年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2952718 (参照 2022-12-23)”
より、1コマ目

文献4 森林太郎『脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎』

森鴎外が『公衆医事』に書いた記事を転載したものが以下から読める。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjmj/M34/345/M34_807/_article/-char/ja

文献5 石黒忠悳『懐舊九十年』

石黒忠悳 著『懐舊九十年』,博文館,1936.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1884883 (参照 2022-12-24)

この本は、一部割愛されていますが岩波文庫から『懐旧九十年』と題して出版されています。漢字を新字にするなどして読みやすくなっています。文庫での番号は、青161-1です。

文献6 萩原弘道 著『日本栄養学史』,国民栄養協会,1960. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2427858 (参照 2022-12-26)
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■注釈

注釈1  明治17年9月25日に発せられた「精米ニ雑穀混用ノ達」では、平時の陸軍兵食規則で主食を白米6合と規定している米の代わりに麦や小豆などの雑穀を用ることを許可し、差額で浮いた分を副食代に用いることとしている。これにより陸軍の平時兵食は、各地の現場判断で麦飯を採用していた。
以下のURLより条文を確認できる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088199/679
このURLは、
“陸軍軍医団 編『陸軍衛生制度史』,小寺昌,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088199 (参照 2022-12-26)”
の679コマ目

注釈2 森鴎外がドイツ留学中で森鴎外の影響はないといえる時期に、石黒忠悳が麦飯を否定した出来事を以下に例としてあげる。
(1)上巻p.354-355
麦飯が脚気にきくはずがないとして石黒忠悳は麦飯派の陸軍軍医緒方惟準と対立。緒方は軍を辞めた。(明治20年)
(2)上巻p.365
高橋中将が陸軍軍医堀内利国を伴って将官会議で麦飯を提案。石黒忠悳の激しい抵抗にあい、面目をつぶされた堀内利国は辞表を提出したが慰留されてとどまった。(明治20年)

注釈3 日露戦争中において森鴎外は麦の脚気予防効果を認めている。
日露戦争中に森鴎外が書いた第二軍軍医部長臨時報告の明治38年2月6日第九十六回臨時報告において、森鴎外が第二軍の各軍医部長宛てに「凍傷予防」「伝染病予防」について通達したことが書かれている。そこには、脚気予防として、「麦及雑穀ノ供給ニ尽力スルヲ要ス」の一文がある。(『鴎外全集 第三十四巻』1974、岩波書店、p.434より、読みやすくするため新字に置き換えて引用)
これは、寺内正毅陸軍大臣が明治38年3月10日の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」を出す前のことである。
森は、伝染病予防として脚気を書いているので脚気を伝染病として捉えてはいるものの、麦や雑穀による脚気予防効果について認めていたといえる。