森林太郎(森鴎外)と陸軍の脚気惨害についての通説は本当か?

文豪 森鴎外のことを調べていると、よく目につくのが脚気論争、そして明治陸軍でおきた脚気惨害のこと。
作家 森鴎外のもう一つの顔、陸軍軍医 森 林太郎は非常に世間の評判が悪い。森 林太郎が脚気の原因を誤ったため陸軍に大量の脚気患者と死者を出したといわれている。
実際どうなんだろうかと調べてみると話はそう単純ではなかった。

気になって調べたことを書いていたらまとまりなく大量の文章になってしまいました。(まだ書き足りなくて、あちこち見直して修正中 2022/4/27~)

なので先に結論をいっておきます。世間で叩かれるほど、脚気惨害の責任が森鴎外(森 林太郎)にあるとはいえない。森鴎外を叩く人たちは、森鴎外の影響力を過大に評価して、まるで森鴎外が陸軍兵食のすべてをコントロールしていた(または、できた)はずだという幻を見て虚像を作り出している。その虚像としての森鴎外を現代において歴史的事実のように公にばらまいているのが日本の栄養学の界隈。さらに、海軍軍医 高木兼寛を持ち上げたい人たち(特に、高木を学祖とする東京慈恵会医科大の関係者)。当然、森鴎外を叩きたい人たちも。さらに、エリート森鴎外を批判する板倉聖宣の説に同調する人たち(板倉聖宣の説については別のnote記事に書きました)。

注意 この記事に書いたことは執筆時点において少数派の見解です。
お願い もし、歴史的資料から間違いと判断できる記述を見つけたら、訂正したいので、ぜひ教えてください。

目次 ここに↓目次が出ない場合は、まだ読み込み中なので少しお待ちください。


⬛はじめに

森林太郎が白米にこだわったから陸軍で脚気が出まくった?

まず、下の図を見てください(表示までに少し時間がかかるかもしれません)。

この図は、日清戦争が始まる明治27年より前の平時における陸軍の脚気の状況と、森林太郎の兵食論の時期をまとめたものです。陸軍では明治24年には脚気死者数をひと桁まで下げています。
世間では、森林太郎が白米にこだわったため多くの脚気患者を出し続けたようにいわれています。しかし、実際には、森林太郎が日本食(米食)の優位性を述べた兵食論を発表しても、陸軍での麦飯化は進み、その結果、脚気をかなり抑止できていました。この図から、少なくともこの期間については、森が陸軍兵食に与える影響はなかったといえます。
この後に、陸軍で再び脚気が大量発生し問題となるのは戦時のことであり平時ではありません。つまり、陸軍の脚気惨害を正しく理解するには、それが戦時問題だと認識することが重要です。

通説を疑って欲しい

通説が正しいとは限りません。単純化されていたり、面白く脚色されていたりします。

たとえば、海軍の軍医 高木兼寛は海軍の兵食を変え、白米飯を止めて麦飯にすることで脚気対策をしていたとよくいわれますが本当でしょうか?過去の資料から調査してみるとそう単純ではないことがわかりました(詳細はあとで説明します)。
麦飯を導入した明治18年に脚気をほぼ撲滅した海軍でしたが、日清戦争の頃の海軍の糧食の規定をみると麦飯はなくなり白米とパンになっています(パンが多い)。
再び海軍で糧食の規定に麦飯が採用されるのは、日清戦争が終わった後になります。

おかしな情報が多すぎる

調査していて気が付いたことですが、森鴎外(森 林太郎)と脚気惨害について書かれたもの(書籍や論文、各種記事など)において、森鴎外に脚気惨害の責任があると見えるように誇張した表現、あるいは、誤解や思い込み、偏見によって適切でない表現をしたものがみられだすのは、元号が平成になった頃からのようです。そして、こうした記述を参考にすることで、歴史的に適切でない記述をした論文や記事などが新たに生まれています。現在入手しやすい情報はこのようにして生まれたものばかりです。このため、脚気惨害について調べるにあたっては、批判的に文献を参照し、できるだけ一次資料に近い情報を得て自分で判断する必要があります。

【参考】信用できないものの簡易な見分け方
脚気惨害について書かれた記事や書籍などにおいて、それが信用できないものだと簡単に判断できる方法を見つけたのでひとつ紹介します。下記のように受け取れる説明をしているものは怪しいと思って構いません:
「日露戦争において、陸軍は兵食を麦飯にせず白米飯とし続けた」
史実では、日露戦争において陸軍は当初は白米飯でしたが、途中から麦飯にしています。
このことを知らない、あるいは、知っていても伏せているものは史実を尊重しておらず、あてになりません。

明治時代の重量の単位について

明治時代の資料を引用している箇所では、今では使われていない重量の単位「匁」(もんめ)が使われています。
1匁は約3.75gです。たとえば、40匁は約150gになります。

⬛世間で良くいわれること

脚気惨害について、以下の3点セットが一般的に世間でよく言われています。
(1)海軍は、兵食に麦飯を導入することで脚気を撲滅した
(2)しかし、陸軍軍医 森 林太郎は、脚気の原因は細菌だと信じていたので麦飯による脚気対策を否定
(3)その結果、陸軍は兵食を白米飯のままにし続け、日清戦争、日露戦争では脚気による患者および死者を大量に出した

この3点セット(以後、単に「3点セット」と書きます)の妥当性について調査したことを書くのが、この記事の一番の目的です。ですが、気になりだして調べたことも書いているために、あちこちに脱線しています。

【補足】麦飯について
麦飯とは、麦だけのご飯を指すこともあるが、一般的には麦と米とを混ぜた飯を指す。おなじ量の麦飯でも、麦と米の割合しだいで含まれる栄養価は異なる。また、米と麦の実は殻を取った後に外側を削る加工がなされるが、その削り度合いによっても栄養価が異なる。白米の場合には、ぬか層と胚芽を取り除く。
ちなみに、明治期の文献を調査していると麦飯と表記せずに米麦混合とか米麦混合飯という表現をしている文献がある。

この3点セットは、単にネット上での個人的な発言として良くみかけるというだけではありません。医学についての一般向け入門書でも良く見られます。以下の本はその例:

【例】『すばらしい人体』坂井建雄 著、ダイアモンド社
脚気の箇所を抜粋した記事が公開されており、以下のリンクから読めます。
“日清、日露戦争で3万人以上が「脚気」で死亡…文豪・森鴎外の「大失敗」とは?”
https://diamond.jp/articles/-/282093 
該当箇所を引用します:
“海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させた。(略)
 一方、陸軍軍医であった森林太郎は、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわった。
(略)
当時の陸軍の兵食は一日に白米六合であり、副食は乏しく、皮肉にも脚気のリスクが極めて高い食生活であった。
 その結果、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡した(略)。”

⬛世間で良くいわれることへの疑問

この3点セットをよく見てみると2つの疑問が湧いてきます。

疑問1つめ
なぜ、日清戦争と日露戦争に着目するのか?

疑問2つめ
森林太郎に、陸軍の方針を決めるほどの権限や影響力があったのか?つまり、3点セットの(2)がどうやって(3)につながるのか?
なかには、森林太郎が陸軍医務局長または陸軍軍医総監だったことを書き、陸軍軍医のトップといいたげに書いたものをみかけるが、時期が合わない。森林太郎がそうなったのは日露戦争が終わった後です。

【補足】上記の軍医総監となった時期の事例のように、世間での森林太郎への批判のなかには、出来事の時間的順序を考慮していない的はずれな批判が見られる。

⬛陸海軍で脚気が問題になった頃の状況をまとめる

・脚気は国民病ではあったが、特に軍隊で発生しやすかった。←重要
・脚気は、いまではビタミンB1不足で起きる病気だとわかっている。当時はビタミンの存在自体を人類はまだ知らず、脚気の原因はまったくの謎であった。
・貧相な副食が当たり前の時代だったので、主食で十分なビタミンB1をとる必要があった。
・陸軍では、兵食の主食の規定は、1人あたり1日白米六合(茶碗で約12杯)
・白米とは、米粒の外側を削ることで味を良くしたもの。削り落とされた外側は糠(ぬか)となるが、ここにビタミンB1を多く含んでおり、白米となった米粒にはビタミンB1が少ない。
・(都市部以外の)庶民は、ふだん、白米のみの飯は食べておらず、稗(ひえ)、粟(あわ)、麦などの雑穀を混ぜた飯を食べていた。そのため、ビタミンB1を摂取でき脚気予防になっていた。つまり、当時“貧しいとされた飯”の方が白米のみの飯よりもビタミンなどの栄養は豊かだった。(ただし、現在市販されている麦飯用の麦は、食べやすく精麦をしっかりしてあるので、白米同様にビタミンが少なくなっていることに注意)
・現代では「白米」のみの「白米飯」がごく当たり前だが、当時の人々にとっては白米飯はごちそうとされて特別だった。
・ごちそうである白米飯が毎日食べられることは、軍隊の魅力でもあった(脚気対策のために兵食が変わるまでは)
・脚気は西洋にはない病気のため、西洋医学には脚気に対する知見がなかった。
・当時、ドイツ医学では様々な病気の病原菌が見つかり細菌学が盛んだった。ドイツ医学派の医者たちの間では、脚気も細菌による伝染病だとする説が有力だった。

【補足】
・ビタミンの必要量は個人差が大きい。運動量や年齢、性別によっても異なる。
・ビタミンB1は体内貯蔵量が少ないため、欠乏を起こしやすい。大量に摂取すると過剰に摂取した分が体外に排出されてしまう。

⬛日清戦争・日露戦争で大量の脚気が陸軍で発生したのはなぜか?

長い調査内容となるので、調査した結果、わかってきたことを先に書きます。陸軍でも平時では減少していた脚気死者が戦時で大量に発生しています。その要因のうち主となると考えられるものを2つづつあげます。

【日清戦争(狭義の意味)
(1)陸軍 医務局長 兼 野戦衛生長官 石黒忠悳は、脚気菌説の立場であり、また白米主義だったため、陸軍の戦時兵食の主食を麦飯にせずに白米のままとした。(※)
(2)陸軍の兵站へいたん力不足により、副食が十分ではなかった(規定通りには提供できなかった)。
(※ただし、現実には、本邦米の供給が足りず、雑穀、朝鮮米、支那米を現地調達して食したので常に白米だったわけではない)

【日清戦争(台湾征討)】
(1)陸軍 医務局長 兼 野戦衛生長官 石黒忠悳は、脚気菌説の立場であり、また白米主義だったため、陸軍の戦時兵食の主食を白米とした。
(2)台湾の気温は、脚気が発生しやすい高温である。

【日露戦争】
(1)陸軍の兵站へいたん力不足により、大本営は麦を送ることを後回しにした。当初の主食は白米のみであった。
(2)陸軍の兵站へいたん力不足により、副食が十分ではなかった(規定通りには提供できなかった)。陸軍 医務局長 兼 野戦衛生長官 小池正直が副食を軽視する人物であり、その影響もあったかもしれない。

【補足】兵站へいたんとは
武器、弾薬などの軍需物資の輸送や補充、食料、馬の飼料などの配給、その他、戦闘を維持するための後方支援活動。

【補足】戦時の陸軍は平時と異なる
陸軍は、日本を出て海を渡り戦地に赴き、そこに活動拠点を構えなければならない。そのためには、まず、様々な物資と人員をそこへ運ばなければならない。戦地の道が良いとは限らない。過ごしやすい環境とも限らない。適切な保管ができるとも限らず食料を腐らせてしまうこともある。現地人に食料を盗まれるかもしれない。日清戦争、日露戦争のころはまだ自動車は使われておらず人と馬で運んでいた。馬が使えないような悪路もある。そうしたら人力のみで運ぶしかない。日本から物資を運ぶには、船で海を渡らないといけない。戦況にみあった船舶が十分に確保できるとも限らない。飲み水はどうする?現地の水を利用する。食料が足りない?現地で調達する、現地で徴発する。戦地では様々な感染症が待ち受けている。コレラ、チフス、マラリア、赤痢。前線が先に進むと補給路が長くなり往復に時間がかかるようになる。補給が間に合わないこともある。このように、平時とは大きく異なる状況に対応していかなければならない。

【補足】徴発(ちょうはつ)とは
軍が民間の所有物を取り立てること。対価として軍票や銀貨などを渡した。

【参考】海軍は陸軍のための輸送を拒否したため、陸軍は自分たちで船舶を確保し輸送を行う必要がありました。
以下に陸軍が船舶で輸送した歴史が詳しく書かれており参考になります。
『広島市公文書館紀要』第33号の刊行について - 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市
https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/5/207101.html
より、
『陸軍運輸部の誕生』村上宣昭 著
https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/144601.pdf
また、以下の本の第2章にも分かりやすく説明されています。
『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』堀川惠子 著、講談社、2021

上記の補足はまだ十分に書ききれていないがこの記事の目的から脱線しすぎるので、この辺でやめておきます。戦時は多数の人員が陸軍に追加される、人の食料だけでなく馬の飼料も用意しないといけない、など書きたしたいことはまだまだあります。大事なことは、戦時における陸軍の状況は平時とは大きく異なるという点です。

⬛海軍は脚気対策として白米飯を麦飯に変えたのか?

調べてみたら、「海軍は脚気対策として白米飯を麦飯にした」という表現は誤解を招く不適切な表現だとわかった。その表現だと「主食を白米飯から麦飯に変えただけで脚気対策をした」と思えてしまうが実態は違う。

海軍は、西洋には脚気がないことなどに着目し、脚気対策としてまず兵食の西洋食化をおこなった。この当時の西洋食化とは、肉食とパン食にすること。
しかし、パン食を推進していく(割合を増やす)にあたり問題があった。当時の日本人はパンになじみがなく兵士たちには不評で、なかには食べない者まで出た。また、パン食を推進するには金が掛かる。麦飯なら兵士たちも食べなれているし、挽割麦を使えば従来設備で米同様に炊ける。
そうして、麦飯も導入し、パン食と麦飯を主食とするようにした。

【参考】以下の論文の表4に明治16~18年の海軍兵食改善がまとまっている。明治17年にパンを少し取り入れ、明治18年から麦飯とパンの導入を進めたとわかる。
『脚気原因の研究史―ビタミン欠乏症が発見,認定されるまで―』松田誠 著
https://ir.jikei.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=1758&item_no=1&page_id=13&block_id=30

【参考】海軍が麦飯を導入した理由
『高木兼寛伝』高木喜寛 著 、「第三 海軍医事衛生」に高木の演説内容が掲載されており、p.80~82 に麦飯導入の理由について書いてある。ざっと以下とのこと。
 パン食を推進していくにあたり次の問題を抱えていた
・パンを食わない者がいた。
・いままでと違うことをするには金が掛かる。
明治16年頃の調査で挽割麦のことを知った(自分は九州人なので知らなかった)。これなら、米を炊くのと変わらず、設備も従来のままで構わない。兵も食べ慣れている。
明治18年に麦飯を導入することにした。

そして、麦飯の導入もした明治18年に海軍ではほぼ脚気を撲滅した。(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.38 または、上記【参考】のリンク先の論文『脚気原因の研究史―ビタミン欠乏症が発見,認定されるまで―』松田誠 著の表5)

ややこしいことに、海軍の兵食の変更はそれからも続けられている。傾向としては、白米・麦を減らしパンを増やしていること。一貫しているのは、兵食改良前に比べ、炭水化物を減らし、たんぱく質の多い食事としていること。

話が横にそれてしまうが、逸話を1つ紹介します。兵食の変更は、兵員から反発されたという事例。
『海軍逸話集 第1輯』(p.81)
「(七)坂本中将談」「剣を抜いて兵員の暴挙を鎮む」より旧字を新字に置き換えて引用します。
(参照元は、国立国会図書館デジタルコレクションのリンク先→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171543/55

明治二十三年私が鳴海の二番分隊長のことである。(略)糧食条例の変更で、米飯が麦飯とハードビスケットに変つた。之に不満を抱いて下士卒がストライキを起した。(略)私は自分の分隊員を集めて懇々と説き聞かせた。が一般の兵員中には未だ副長の「総員上へ」の号令があつても、故意に之に応ぜぬものがあつた。そこで私は遂に抜剣して、二番分隊の名簿を読み上げて上甲板に整列を命じ、「若し聞かなければ斬り殺すぞ」と真剣に立ち向かったところ、其の一言で事件は忽ち落着した。

ここで、「ハードビスケット」と書いているのは「かたパン」のこと(Wikipediaの項目をリンクから参照ください→堅パン

ともかく、海軍がしてきたことは「主食の白米を麦飯にしたら脚気が起きなくなった」という単純な話ではない。西洋食化が基本にあり、すべての主食をパンだけにすると兵たちから反発されるし供給上の問題もあるので麦飯も取り入れた、という話。

つまり、陸軍が海軍をまねて兵食で脚気対策しようとしたら陸軍も西洋食化をすることになる。ここで話がややこしくなる。繰り返しますが、海軍が脚気対策としてしたことは「兵食の西洋食化(パン食と肉食)+麦飯も導入」です。しかし、この方針がそのまま継続していたわけではないことを次の章で述べます。

【補足】海軍の兵食改善を進めた軍医 高木兼寛は、西洋食に比べて日本食では含水炭素(炭水化物の旧称)の割合が多いことに着目した。食物に含まれる含水炭素とたんぱく質のバランスが脚気の要因であり、たんぱく質の割合が少ないことで脚気が発生するという説を発表した。現代からみて間違っているだけでなく、当時の医学者からみても粗雑な説であったため、様々に批判され医学界から相手にされなかった。しかし、理論は間違ってはいても、その考えをもとにした献立は結果的に脚気対策になっていた。

⬛海軍は日清戦争、日露戦争時に麦飯だったのか?

日清戦争、日露戦争の頃の海軍の糧食の規定に着目してみます。

【日清戦争】
海軍糧食経理規定の穀物の欄には「白米」「豆」「麦粉」と記載されています。
(『海軍衛生制度史 第2巻』p.334 「第六編 兵食」「第二章 脚気対策時代ノ兵食」「第四節 糧食経理規定ノ改正」「第一表 糧食品日当表」より。
参照元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464432/178 )

麦粉では麦飯にはなりません。つまり、日清戦争のときは、規定上は海軍は麦飯としていなかったといえます。ただ、現場が嫌う場合は変更して構わないことが規定に書かれており、また、実際に麦飯を食べていたという資料があります(詳細は後日加筆します)。
このように、高木兼寛が麦飯にしたという通説ほど単純ではありません。

【参考】海軍の兵食改革を進めていた海軍軍医 高木兼寛は、麦飯をなくして完全なパン食を目指していた。明治18年3月に麦飯を麺麭めんぽう(パンのこと)に置き換える上申をした記録がある。
『海軍脚気病予防事歴』(海軍衛生中央会議 発行)p.98~99に上申の内容が記載されている。抜粋して引用する:
“兵食には麺麭を措き他に選択すべきものなし。故に来る十九年一月より米麦を麺麭に御換与相成候様致度。右は炊房の改作準備等も有之候義に付此の段上申仕候條至急仰高裁候也”
(読みやすく、旧字を新字に、片仮名を平仮名にするなどして引用。
引用元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834731/52 )

【日露戦争】
改正されて穀物の欄に「麦粉」とは別に「割麦」が追加となっています。
(『海軍衛生制度史 第2巻』p.355 「第六編 兵食」「第三章 日露役以後ノ兵食」「第一節 明治三十七年改正ノ兵食」第二十表 より。
参照元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464432/188 )

つまり、日露戦争では海軍は麦飯だったといえます。
先の表には白米100匁、割麦35匁と記載されており、割合にすると、白米7.4割、麦2.6割の麦飯となります。これは、陸軍が日露戦争の途中から導入した麦飯が米4合、麦2合と比べて同じくらいの割合。それなのに、陸軍が麦飯を導入した後でも脚気患者を出し、海軍はほとんどだしていない。このことから、脚気対策として白米飯を麦飯にするかどうかに着目するだけでは意味がないことがわかります。

⬛なぜ世間は日清戦争、日露戦争に着目するのか?

陸軍でも主食の白米飯を麦飯にするなどの兵食改良により日清戦争(明治27年)開戦前には脚気対策がほぼできていました
戦時を除く平時であれば、陸軍でも脚気の発生は少なく年間の脚気死者数は二桁以内となっています。
(『病気の日本近代史 ~幕末からコロナ禍まで~』秦郁彦 著、小学館新書、p.77)

しかし、戦時では、陸軍は異常に大量の脚気患者と死者を発生させています。そのために話題性の点から日清戦争・日露戦争を世間では取り上げていると思われます。

なぜ陸軍で戦時と平時の差が生じたのでしょうか?海軍と陸軍では脚気を減らす取り組み方に違いがありました。

【海軍】
海軍医務局を海軍軍医の高木兼寛が主導し、脚気対策として兵食の改良を推進した。兵食の規則にも取り入れた。

【陸軍】
陸軍医務局によってではなく、各現場(師団ごと)でそれぞれ独自に兵食による脚気対策に取り組み、白米飯から麦飯にするなどした。
兵食に関する陸軍の規則は白米のままだったが副食を良くするための追加規則(「精米ニ雑穀混用ノ達」)を適用して白米を減らした。この追加規則は、副食代増額が認められなかった代わりに定められたもの。(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.64)

「精米ニ雑穀混用ノ達」は明治17年9月25日に発せられている。
国立国会図書館デジタルコレクションの『陸軍衛生制度史』P.1325にて参照できる。リンク先↓
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088199/679

【補足】「精米ニ雑穀混用ノ達」について補足。平時における陸軍の糧食の規程において、白米は6合と分量が決まっているが、副食は金額で決まっていた。そのため物価があがれば副食は減らすしかなかった。「精米ニ雑穀混用ノ達」により、白米の一部を安い麦などに変えるなどして差額で生じた浮いたお金を副食代に回すことができるようになった。平時の陸軍において脚気患者が減ったのは、副食改善の効果もあったと推測できます。

【参考】陸軍の脚気の減少について以下の論文で数値が参照できる。
『明治期日本の医学制度と「難病」』
https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/archive/bun/bun203/bun203i.pdf
より、「表3.7 戦役前内地の陸軍患者比率(人員毎千比例)」を参照(pdfとしての33ページ目)
この論文は以下に収録されている。
『内閣府経済社会総合研究所 経済分析第203号』
https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/archive/bun/bun203/bun203.html

【参考】陸軍軍医 堀内利国が陸軍で最初に麦飯を始めているが、その経緯などについて以下に詳しい。
『高島鞆之助と堀内利国』三崎一明(著)
https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON_102110904
P.55より
“大阪鎮台では明治 17年(1884)(11 月頃とおもわれる)から 1 ヵ年,兵食を米麦混合食(麦 4割米 6 割)とすることになる.”
ということで、海軍が麦飯を導入する明治18年の前年から麦飯にしていた。

戦争が始まると戦時体制に変わります。「大本営」が設置され、大本営の組織で決めた方針に全体が従うことになります。

日清戦争において
日清戦争開戦の明治27年7月25日から少しして『陸軍戦時給与規則細則 明治二十七年八月六日陸達第九十三号』が出されます。金銭で規定されていた副食が、戦時規則では具体的な給与物で規定されました。
それまで平時には現場では「精米ニ雑穀混用ノ達」を適用して麦飯を取り入れていたのに、主食は白米と規定されました。その上、実際の副食は規定通りに給与できず不十分でした。

日露戦争において
大本営は、麦の輸送を後回しにしました。最初は麦なしの白米のみとしたので脚気が発生した。また、麦飯が全軍で導入されてからも、ピークより大きく減ったものの脚気が発生し続けた。副食が非常に貧相だったことが影響した。

【補足】歴史的資料を読むと、糧秣に大麦を用意していることが記録されている。この大麦は馬のための飼料であって人間が食べるためのものではありません。割麦や挽割麦と書いてあれば米と混ぜて麦飯にする麦になります。

⬛日清戦争、日露戦争のときに陸軍の兵食を決める責任者は誰だったのか?

大本営 陸軍部 野戦衛生長官が陸軍の衛生についての責任者であり、兵食についても責任があった。それが誰かというと、
 日清戦争時 石黒忠悳
 日露戦争時 小池正直
と、どちらも当時の陸軍医務局長だった人物。森林太郎ではない。森林太郎が医務局長になったのは日露戦争が終わってから。

ということで森林太郎は、日清、日露戦争のときには陸軍の兵食に対して責任ある立場ではない。

石黒忠悳および小池正直は、森林太郎に影響されて陸軍の戦時糧食を白米飯にしたというのだろうか?どんな人物なのかを知る必要がありますので、あとで調べていきます。

そして、もう1つ頭に入れておいて欲しいことがあります。戦時において、実際に食材の調達や運搬をするのは兵站を担当する部隊の役割であって、医務局や軍医たちの役割ではないということです。

⬛『鴎外最大の悲劇』(坂内正 著、新潮選書)によると

森林太郎と脚気について書かれた本や論文で、良く参考文献としてあげられている『鴎外最大の悲劇』を読んでみました。脚気惨害が起きたのは森林太郎に責任があると書いた本として有名な本だと思います。
この本なら、良くいわれる3点セットの(2)から(3)へのつながりについて何か書いてありそうに思えます。

この本の表紙にはいかにも森鴎外が脚気惨害の責任者であるようなことが書かれています。引用します

秘密とは、例えば近年明らかにされつつある陸軍兵食論の致命的誤りと、その誤りの固執とが陸軍にもたらした脚気惨禍についての彼の重大な関与と責任である。その結果、陸軍は日清戦争で四万一千余の脚気患者と四千余の同病死者をだしただけでなく、次の日露戦争でも二十五万余の患者と二万八千にのぼる同病死者をだしたのである。

しかし、「その結果」にいたる経緯についてろくに追求をしていません。

日清戦争時の石黒忠悳については、
森が実施した兵食試験の結果から米食に自信を持ったような感じに書かれている程度。
(p.113、p.115など)

日露戦争時の小池正直については、
森、石黒などの影響があったのだろうという感じで説得力がある説明がない。p.177-178 から引用します。

 衛生面の全てを統轄し責任をもつ立場に立った小池野戦衛生長官も麦の輸送をしなかった。
 彼の身近かには(略)彼の正面に立ち塞がった林太郎がいるのである。その林太郎の背後には、始終学問、学者といって仄めかすように、いまや東大医科大学長(医学部長)として勢威を振るいだした青山胤通をはじめとする細菌派のドイツ医学がある。敵に廻したときの文飾を力にした林太郎の執拗な攻撃性は身近かにあって存分に見聞きしたことであった。退役したとはいえ陸軍衛生部の武内たけのうちの宿禰すくねを以て任ずる石黒の軍医部内の力は隠然たるものがある。

以上のように、当時の陸軍軍医のトップの両名を差し置いて森林太郎の責任を問うほどの重大な責任が森林太郎にあることについて、この本には書かれていなかった。

『鴎外最大の悲劇』を読むときは注意!!
この本は、事実と著者の見解を混在させて、リスリーディング(誤読)を誘う書き方をしていて注意が必要です。たとえば、森林太郎が「米食の優秀さ」を主張したことを、「脚気対策に麦飯は不要」と主張したかのように書いていました。
まるで、著者が読者をだまそうとしているように思えます。
 
著者は、読者がいちいち確認しないだろうと思っているのか、それとも、妄想力がたくましすぎるのか、平気で事実をねじ曲げた自論を展開しています。例えば、『日本兵食論大意』が脚気を扱っていないことに対して、森が問題をすり替えているなどと非難しています(p.49)。しかし、脚気の知見がないドイツで栄養学を学んだ森がドイツで書いた論文ですから、むしろ脚気を扱わないことの方が適切です。
この本には他にも色々とおかしなことが目につきます。

⬛石黒忠悳について調べてみた

石黒は、森林太郎の上司。
陸軍創設時の陸軍軍医制度づくりに貢献した人物。
また、西洋医の普及に尽力し、主流であった漢方医を撲滅へ向かわせた人物の1人でもある。
森林太郎が陸軍に入る前に『脚気論』を出版し、脚気菌説を述べている(『脚気論』において「黴菌(ピルツ)」だといっている。黴(カビ)は細菌ではなく真菌)
(下記のリンク先の左ページにピルツとの記載があります:
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834764/7 )

石黒は、脚気菌説を海軍高木に直接に主張している。『高木兼寛伝』高木喜寛 著、p.83より、高木兼寛の演説部分から引用(旧字は新字に置き換えた):

今日はどうか知りませぬけれども、自分の在職中は、陸軍の軍医上長官と、海軍の上長官が時を定めまして、年々数回合致して、執務上の事なり、其他の事に就て御互に研究申合ひ等を致しつつ居つたのであります。そこで十七年の五月八日、築地精養軒に於て、陸海軍軍医上長官の協議会を開いたのであります。其時に高木と、石黒及石坂軍医正と議論を闘はしたのであるが、御慰み半分に之を御聴きに入れましょう。
 此時にどう決定することになつたかと云うと、どうしても陸軍では石黒君の御説では、脚気病と云ふものは、何に原因するかと云ふと、主として黴菌が原因となつている。黴菌は如何にして発達するかと言へば、不潔な空気中に棲息するが為めに、肺より出で、其他の部分より排出する所のものが、空気中に充満して、而して体より出づること能はざるものであるのである。其所に至つて、初めて体に形をなして病をなすに至る。斯う云う御説であります。それであるからして、兵営の造り方が悪い。即ち壮麗ではあるけれども、今日の兵営の造り方が悪い。即ち煉瓦で造つた、或は木製なれども、西洋風の拵方が悪い。それであるけれども、今日の如き多数の者を置くには、又是已むを得ぬ所から、成るべく模様替へをして、空気の調整を十分にしなければならぬ。斯の如くして充分なる空気を供給すれば、此病を防ぐに足ると斯う云う論である。

そして、麦飯を否定し続けていた。石黒が書いた『脚気談』(明治18年2月出版)には麦飯について以下の記載がある:

“余は麦飯以て脚気病を防く可く麦飯以て脚気病を癒す可しとの説は未た信ぜざるなり。”

(p.44 より旧字を新字に、片仮名を平仮名に置き換えて引用。
引用元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834741/25 )

【私訳】
私は、「麦飯で脚気を防ぐことができ、麦飯で脚気病を治せる」との説を、いまだに信じはしない。

と、世間では麦飯が脚気にきくとの声があることを分かって否定している。『脚気談』の出版は、森林太郎がドイツで書いた「日本兵食論大意」を石黒に送った10月より前に出版されたものであり、森とは関係がない石黒自身の見解だといえる。

石黒は米食を兵食とすることに学問的な裏付けをするため、森林太郎をドイツに行かせ栄養学を学ばせ、帰国した森林太郎に人体実験による兵食試験をさせている。石黒は、この兵食試験を高く評価した。
(『懐旧九十年』石黒忠悳 著、岩波文庫、p.270)

石黒の晩年の著書に、海軍の兵食についての見解と森林太郎の名前が出てきます。

『懐旧九十年』(石黒直悳 著、岩波文庫)
P.269-270より引用します:

海軍で高木たかぎ兼寛かねひろの主唱で、パンを主とする洋食が採用され、洋食・邦食の論議は一時非常にやかましいものでした。しかし私は断じて洋食論に譲らず、我が国は国初以来、邦食を以て人口繁殖して今日に至っている、これを改良するにはやぶさかではないが、そのどこが悪いか第一に長短を学問的に精査してその成績によっておもむろに改善に進むべきである。なお徴兵制度の下において、兵食を一般国民食と全く別に違わせるということは甚だ考えものである。一朝いっちょう、大兵を挙げる必要が生じた場合に、食糧物資の調達に直ぐ行き詰ってしまう。パンの原料、その副食物等はとても今の現状では困難であるという点で洋食論に反対し、一方また、兵食と我が国古来の食物との学問的研究のため軍医もりりんろう君に独逸ドイツ留学を命じ、当時世界的に有名であったフォイト博士に就いて栄養学の研究をなさしめた。これが我が国における食物の近代的研究の始りであります。

ちなみに、上記より、石黒は海軍を「洋食」「パン食」であるとみなし、白米を麦飯にしたとの認識はしていないことがわかる。

森林太郎を脚気惨害のことで責める人たちのなかには、森林太郎が脚気菌説のリーダーだという人がいる。何を根拠にしているのだろう?ここまでみてきた石黒忠悳の発言や行動からすれば、陸軍において石黒の方がリーダーに相応しいと思う。

さて、ドイツに行った森林太郎ですが脚気についての研究はしていません。(参考文献『軍医 森鴎外のドイツ留学』武智秀夫 著、思文閣出版)

帰国後に実施した兵食試験でも脚気についての調査はしていません。兵食試験でしたことは当時の最新の栄養学からの調査。

この兵食試験は、米食の方が麦食や洋食と比較して熱量やたんぱく補給能力が高かったことを示したにすぎない。(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.90)

石黒は、米食が兵食としてすぐれていると主張する際に、この兵食試験のことを理由として持ち出している。一方で、麦飯については、脚気にきくという学問的裏付けがないといって退けた。
この石黒の主張の論理はおかしい。「当時の栄養学で分かっている栄養のこと」と「脚気対策のこと」は本来別々に扱うべき。

学問的な裏付けも科学的な裏付けもない(正確には「学理がない」といった)ことを、石黒は漢方を撲滅しようとする際にも言っている。
漢方では小豆や麦などが脚気に効くことが知られていたので、石黒のなかでは、麦飯を導入することを漢方の復活のようにとらえていたのかも知れない。

明治政府は西洋医のみを医師とする方向に舵を切っていたが、日清戦争の前のころに、漢方医たちによる医師復活の政治活動が盛り上がっていました。

明治25年、漢方医たちは漢方医を医師として継続する継続法律を議院に請願。

明治25年12月、石黒は漢方排斥の演説をします。(『医界之鉄椎』p.446に演説内容とそれに対する漢方視点の意見あり)

そんななかで、日清戦争(明治27年7月-28年4月)。

明治28年2月には、漢方医が提案した漢医継続願である「医師免許規則改正法案」が第八回帝国議会にかけられた。結果は、否決。
(『明治維新・漢方撲滅の実相』寺澤 捷年 著、あかし出版、p.67-69)

具体的には、総数181、可76、不可105 で否決。たった25票差。
議事録は以下よりPDFで参照できます
『第8回帝国議会 衆議院 本会議 第25号 明治28年2月6日』
「第四 医師免許改正法律案」(p.403下段~p.405下段)
https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=000813242X02518950206&spkNum=0&single

もし、陸軍が日清戦争で麦飯を採用していたらこの改正案の採決の結果に影響していたかもしれない。

明治政府は漢方医を医師として認めない方向で進み、漢方は滅びへと向かいつつあったが、そんななかで漢方の良さをうったえた有名な本として『医界之鉄椎』がある。そんな本で、あえて石黒忠悳による漢方医に関する演説が取り上げられ批判されるくらいなので、石黒はかなり漢方医から恨まれ、対立した関係にあったと考えられる。

ともかく、
森と石黒の関係は、森が脚気細菌説を信じ米食を主張したからといって、石黒が米食とするような関係ではない。もともと石黒は、脚気菌説の立場であり、かつ、麦飯否定の米食主義だった。
森林太郎はむしろ石黒に利用されていた。

【参考】『陸軍軍医学校五十年史』の「付録」に、石黒が書いた「陸軍衛生部草創時代」があり、石黒が脚気と兵食についてどのような考えだったかが書かれている。
国立国会図書館デジタルコレクションに収録されており参照できる:
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446781
「其一 脚気病に就て」→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446781/476
「其四 兵食に就て」→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446781/482

【参考】漢方が滅ぼされていく過程の概要が以下にまとまっていて参考になります。
『明治百年と漢方』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1950/19/3/19_3_159/_article/-char/ja/
ここには、“石黒忠悳は 「陳腐蒙昧なる漢方医学を撲滅して,燦爛たる西洋医学の殿堂を築きあげねばならぬ」と言っている ” との記載まであります(ただ、引用元の記載がないので信憑性が分からない)

⬛日清戦争時の陸軍兵食

日清戦争時の陸軍の規程において、主食は白米となっている。副食は金額での規定ではなくなり、具体的に肉類や野菜の分量で示されている。

答えを知っている現代目線からすると、陸軍で麦飯による脚気対策の効果が出ているのだから麦飯にしないのが不思議に思える。しかし、石黒は脚気菌説の立場から陸軍の感染症対策を進めていたので、その対策の効果が出てきて脚気が減ったという解釈もできてしまう。

以下が日清戦争時の兵食の規則です:

『陸軍戦時給与規則細則 明治二十七年八月六日陸達第九十三号』より引用する。
国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798083/18

(読みやすくするため、旧字の新字への置き換え、改行の追加、句点の追加、片仮名の平仮名化、読み仮名の追加、空白の追加、一部の漢字の平仮名化をした。)

第一表
通常兵餉へいしょう
精 米   六合
副食物
一 鳥獣魚肉類 四十匁
  あるいは、塩肉類 二十匁
  あるいは、干乾せる肉類 三十匁
二 野菜類 四十匁
  あるいは、乾物類 十五匁
三 漬物類 十五匁
  あるいは、梅干 十二匁
  あるいは、食塩 三匁
四 茶および調理用醤油味噌などは現費消高
携帯口糧
ほしいい      三合あるいは代用品
副食物
一 鳥獣魚肉類缶詰 四十匁
  あるいは、塩肉類 二十匁
  あるいは、干乾せる肉類 三十匁
二 食塩 三匁

補足 1もんめは約3.75g。たとえば、40匁は150g

『明治二十七八年戦役陸軍衛生紀事摘要 』p.16より、兵食の実際が記載されている。
(参照元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837232/37 )
以下の理由により、米が定量通りとならなかったと述べている
・悪路のため運搬が難しい
・現地で雇った運び手が盗む
不足を補うため、雑穀米飯混合食、支那米、朝鮮米を提供することもあった。つまり、ビタミンB1が少ない白米だけでなく、他にも主食として食べていたといえる。

「その三 副食物」p.24
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837232/41
より、読みやすく文字を置き換えて引用:
“運輸不便のため主食において減したれば均しく副食物もまた実地においては定量より概して減量せし~”

規定量に近い副食にできたといえるのは明治28年1月以降との記載がある。狭義の日清戦争の期間は明治27年7月~明治28年4月であり、終わりの方である。

石黒は主食だけで栄養は十分だと語ったという。(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.117-119)

規定通り副食が給食できなかったことの言い訳に聞こえる。この規定通りに副食が給食されていたなら肉からビタミンB1を得ることで脚気の発生はもっと少なくすんだかもしれない。

参謀本部が編纂した『二十七八年日清戦史 第8巻』をみると、副食軽視な計画だったことがわかります。副食は若干扱いとなっています。p.89 より引用します

一 糧秣給養の要規及計画
野戦部隊は移動準備として各師団に六日分の両秣(各人二日分、各馬一日分を携帯し各隊の大行李に一日分、糧食縦列に三日分を携行す)を有し(一人一日分は通常兵餉に在りては精米六合、副食物若干、携帯口糧に在りては糒三合或は代用品、肉缶詰四十匁或いは塩肉類二十匁或いは干肉類三十匁及食塩三匁とし携帯馬糧は玄米二升五合或いは大麦五升とす)

(読みやすくするため、旧字は新字に、片仮名は平仮名に置き換え、濁点を追加した。参照元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774128/54 )

米さえ食えればよいという考えは陸軍において伝統的なものなのかもしれません。戦時における部隊の運用などについて書かれた『明治二十四年 野外要務令』には、糧食の記載が p.239にあります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843855/131
読みやすく書き直して引用すると
「糧食一日量は、精米六合、食塩あるいは梅干、および魚菜若干とす」
と、副食は「若干」の扱いとなっています。あとで出てくる日露戦争時の野戦衛生長官の小池の発言では、副食は主食を口に入れるための「そえもの」と副食を軽視する言葉がみられます。

⬛日清戦争(台湾征討)時の陸軍兵食

日本は清国に勝利し日清講和条約(下関条約ともいう)を結んで、狭義の意味での日清戦争は終わった。これにより台湾が日本に割譲されたが、台湾では日本への抵抗が続いていた。戦時体制は続き、陸軍は台湾平定に向けて戦った。つまり、大本営の体制が続いた。台湾での陸軍の主食は変わらず白米6合であった。

野戦衛生長官である石黒忠悳は、台湾が暑い場所であることから精白米とするように指示していた。
『明治二十七八年戦役陸軍衛生紀事摘要』p.240より

四月二十六日野戦衛生長官は台湾駐屯兵に係る衛生事項に関し左の意見を具申す
 
一 暑熱の地に於けるや米は精白ならざれば蒸け易く副食物は精品にあらざれば腐敗し易し。殊に缶詰は炎熱地方に堪ゆ可き精選品を以て支給せらるること

(読みやすく、旧字を新字に置き換え、片仮名を平仮名に置き換えるなどして引用した。
引用元 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837232/149 )

内地(日本本土)から船での米の輸送が順調であり、内地米を用いていたことが以下より分かる。(後述するが、この記載は怪しい)
『明治二十七八年戦役陸軍衛生紀事摘要』p.21より

幸に糧食の転送に甚しき障碍を受けずして征台軍は概ね皆本邦米を食することを得たり

(読みやすく、旧字を新字に置き換え、片仮名を平仮名に置き換えるなどして引用した。
引用元 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837232/39 )

このようにして、台湾では精度よく精米された内地の白米を食べており、つまりはビタミンB1が非常に少ない米を食していたようによめる。

また、『明治二十七八年戦役陸軍衛生紀事摘要』p.21によると、食材を現地調達して給食は足りていたといえる記載がある。以下に引用する:

台湾は土地豊穣にして物産少なからず米穀は勿論、家鴨、鶏、豚、魚類および野菜など取て以て兵食に給食したるものすこぶる多し(略)征台軍は給養に乏きを告げたることほとんどなきと称して可なり

(読みやすく、旧字を新字に置き換え、片仮名を平仮名に置き換えるなどして引用した。
引用元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837232/39 )

しかし、『明治二十七八年戦役陸軍衛生紀事摘要』での台湾の状況についての報告をそのまま受け取れない。というのも、以下のサイトで公開されている台湾の現場からの報告とのずれがあるからだ。これらを読むとほぼ内地米だったとするのは誤りだとわかる。

『描かれた日清戦争 ~錦絵・年画と公文書~ | 日清戦争とは』
https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p005.html

たとえば、「関係公文書⑨ レファレンスコード: C06060458300 件名 8月29日 近衛師団監督部長代理辻村楠造発 野戦監督長官男爵野田豁通宛 近衛師団監督部臨時報告」には糧食についての記載があり、苦労しているようすが報告されている。
リンク先 https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/about/pdf/02-05_09.pdf

やたらと調弁という言葉が出てくる。

【補足】調弁(ちょうべん)とは
軍隊が、兵馬の糧食などを現地調達すること

先のリンク先のPDFから、いくつか引用する(読みやすく新字に置き換えるなどした)

第四十三 各品調弁の状況、如此なるに依り、目下第一の必要は醤油、次を大麦とす。故に、兵站路上、追送糧秣の順序は、第一 醤油、第二 大麦、第三 精米ならんことを要す。其他副食物のごときは、運搬力の都合に依りては中絶せらるも可なり。

PDFでの頁37より
注)ここでの「大麦」は馬の飼料

右の方針を以て各部隊各個に買弁給与のこととなせしに依り各地兵站部より受領せし副食物の数量は最もすくなく定量の約三分の二を減じたるものの如し。

PDFでの頁59より

以下も参考になる。人民が逃げてしまい調弁に苦労した様子が報告されている。

関係公文書⑪ レファレンスコード: C06061983100 件名: 10.12 近衛師団の給養実況臨時報告 近衛師団監督部長
https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/about/pdf/02-05_11.pdf

このように台湾でも副食の軽視がみられ、十分とはいえなかったと思われる。

台湾の脚気発生率は異常に高い。『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.114 表12 によると、日清戦争での脚気発生率は以下となっている:
 台湾 約107.8%
 清国  約15.7%
 朝鮮  約12.6%
台湾は100%を越えている。おそらく、一人で複数回脚気となる人が多くいたのでしょう。

脚気は夏場に発生しやすい傾向があり、台湾の気候が影響したことが考えられます。台湾は亜熱帯または熱帯であり、さらに、台湾征討の期間は明治28年5月から10月とまさに暑い季節でした。

【参考】脚気と季節について
『分量的ニ観察シタル脚気』(内閣統計局、明治39年10月)p.6 に、日本での明治32、33、34年における月ごとの男女別の脚気死者数の表がある。8月、9月にピークがある。この表は以下のリンク先より参照できる。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/835015/8

⬛小池正直について調べてみた

小池は森より7才年上だが、東大医学部では同期卒業。
森より先に陸軍に入った。
森を陸軍に採用するよう推薦文を石黒へ送った。
森よりあとに、ドイツ留学し衛生学を学んだ。

日露戦争前の小池の演説をみると、小池が西洋食否定派であったことが分かる。以下に内容が記載されており、その一部を引用する。

『日本陸軍衛生上の概況』(明治30年出版)
p.3~p.4
国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837146/4
読みやすくするため、句読点を付け直し、旧字を新字へ変更、読み仮名を追加して引用する:

わがくにおいて、こめ陸兵りくへい主食しゅしょくたてたのは至極しごく適当てきとうかんがへる。もっと陸軍りくぐん兵食へいしょくついては、軽率けいそつひとにくすくないとかあぶらすくないとか西洋食せいようしょくにせいとかなんとかひともあるが、マア、ちかくは二十にじゅう七八しちはちねんえきかんがみてもそんな妄論もうろんがどこからるかとあやしむのである。し、えきわがくにへいみな西洋食せいようしょくつてつたならば、どうであつたらうとかんがへるがよろしい。わたし到底とうていあんないくさ出来できなかつたらうとおもふ。御承知ごしょうちとおり、当時とうじ敵国てきこくそのとなり朝鮮ちょうせんさいわいに、みなこめくにであつたゆへ、なべでもかまでもかまどでも敵地てきちのものを其儘そのままもちひることが出来できこめ沢山たくさんかいたのみならず兵食へいしょく国民こくみん常食じょうしょくかわりがなかつたゆへ自国じこくよりの供給きょうきゅう充分じゅうぶんやりげて立派りっぱつたのである。れが西洋食せいようしょくになつてつたならば「パン」がま肉焼鍋にくやきなべ、ソツプなべ付属ふぞく器具きぐ食器しょっきなどにて運輸うんゆ一層いっそう困難こんなんになり、輜重しちょうつたものではない。御負おまけに供給きょうきゅうつづかない。吾々われわれはとつくに餓死がししたであらう。(大笑たいしょう

小池のこの演説は、日清戦争時の兵食の供給の状況も語っている。米をすべて日本から送ったのではないことが読み取れる。

この演説のP.6には、副食を軽視する発言が書かれている。米さえ食べていればよいが食べきるために添え物としておかずがあるという。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837146/6
(読みやすくするため変更して引用した。主に、旧字を新字に置き換え、現代送り仮名にし、漢字の一部を平仮名にし、句読点をつけ直した)

しからば、米の飯ばかりで兵の栄養を保っていけるかというに、もしスッペラ飯にて八合も一升も食べ尽くすことができるならば平時も戦地も米ばかりでいけぬことはない。実際昔は、にぎり飯と梅干し位で戦争をしたのである。だが、今のように常備隊を置いて数万もしくは数十万の兵を平時より養う制度においては、衛生上、さようなことはできぬ。なぜなれば、兵の一部分は定量のスッペラ飯を食べ尽くすこともできましょうが多数はなかなかそうはまいらぬ。また、戦時とても命を的にして戦う間はまるで精神が変わってくるゆえ、どんな困苦でもやり遂げ、どんな甘くないものでもムシャムシャ食いますが、行軍の間とか宿営の間にはまだその気にはなれぬのである。そこでもって、よく口をだまして多量の飯を喰わせるそえ物、すなわち、オカズが必要になる。

補足 「スッペラ飯」とは、文脈より「すっぽりめし」「すっぽうめし」「すっぽろめし」などと同じく、おかず無しでご飯だけを食べることと考えられる。

その後の小池の言動は、麦飯が脚気に有効と考えたようにもみえ、そうでもないようにもみえた。(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.221-228より。この本の著者は小池が麦飯有効を信じていないと断言している)

日露戦争にあたっては、麦飯を求める軍医谷口の意見に賛成し、小池は麦飯導入を大本営会議に提案した。しかし、戦地で主食を複雑にするのは実施上困難、と反対された。輸送の途がよくなってから時期をみて、ひきわり麦を送ることに決まった。
(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.306-p.307)

日露戦争では、
明治37年5月くらいから脚気が出始め、8月にピーク。8月から一部で麦飯の支給が始まり、翌年4月から全軍で麦飯となった。
(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.311)
ということで、陸軍でも遅れて兵食は麦飯になっている。

飯導入の時期、出征兵員千人あたりの脚気数、麦飯における米と麦の割合について『明治三十七八年戦役陸軍衛生史 第5巻 第3冊』陸軍省編 の以下のページから分かる:
国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935720/30

米7対麦3の割合の麦飯を導入し、脚気患者は減ったものの発生は続く。副食の軽視が影響し、脚気を防ぐのに十分な量の麦ではなかったと考えられる。

ともかく、森林太郎のせいで白米にし続けたということはない。

⬛日露戦争での輸送能力について

では、日露戦争初期の陸軍の輸送能力はどうだったのか?

『新史料による日露戦争陸戦史: 覆される通説』(長南政義著、並木書房)に、日露戦争初期における第二軍の兵站(へいたん)について書かれた箇所があったので引用します

“道路用輸送手段の車輛に関しては、(略)それだけでは戦時需要を満たすことができず、民間からの徴発および購買に依存する必要があった。また、補助輸卒隊は、徒歩編成で、人力で車輛を動かした。”(p.291)

“六月九日現在の第二軍は、輸送能力は不足ぎみかギリギリ足りるといった極めて危うい状態であった。”(p.292)

ちなみに、第二軍の軍医部長は森林太郎です。
(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.279-282)

ということで、開戦初期において麦を送るどころの状況ではなかったといえそうです。

『明治三十七八年戦役陸軍衛生史 第五巻第三冊』には、麦飯の導入の時期について分かりやすくグラフ化されて記載されている。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている以下のリンク先参照↓
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935720/30
明治37年8月から一部で麦飯の導入が始まっている。森林太郎が担当していた第二軍も8月から麦飯の一部導入が始まっている。森林太郎のせいで白米にし続けたということはない。P.31には麦の追送が困難であったことが書かれている↓
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935720/29

日露戦争では陸軍大臣から麦飯を喫食するように訓令が出ている。この訓令が発せられた時期は、すでに麦飯が部分的に始まっているころ。おそらく、全軍への麦飯展開を促進するために発せられたと思われる。

その訓令は、明治38年3月10日「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」で以下の内容:

“出征軍人軍属には、脚気予防上、麦飯喫食せしむるの必要ありと認む。依て、時機の許す限り主食日糧精米四合挽割麦二合を以て給養することを努むべし”

(国立国会図書館デジタルコレクションより、『陸軍衛生制度史』P.1334から引用。読みやすくするため旧字は新字に置き換え、片仮名は平仮名に置き換え、句読点を追加した。引用元 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088199/684 )

この訓令に次いで、内地部隊に向けて、明治38年3月29日に「内地部隊麦飯喫食ノ訓令」が出ている。精米七麦三の比で給与するよう努めるべし、と述べられている。
(『陸軍衛生制度史』P.1334
国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088199/684 より参照できる)

この訓令は大臣の名で出されています。兵食を決める責任者のはずの野戦衛生長官である小池正直がどうかかわったのか気になるところですが、調査不足でわかりませんでした。

⬛日露戦争での脚気の状況

陸軍省が発行した『明治三十七八年戦役陸軍衛生史 第五巻第三冊』の「七章 脚気」には、色々と面白い報告がなされている。
(引用元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935720)

P.28「第二十五表 兵種別脚気罹患率」より、戦地のデータを千分率から百分率に変換し昇順に並べかえて引用する:
 その他   7.352%
 騎兵    8.053%
 工兵    9.567%
 歩兵   10.668%
 野戦砲兵 11.019%
 輜重兵  11.386%
 要塞砲兵 13.065%
 補助輸卒 37.645%
補助輸卒が他を引き離して脚気になりやすい。補助輸卒は、安い賃金で牛馬以上にこき使われて荷を運んだ。その過酷な労働に見合う食事ができていなかったと考えられる。

そんな補助輸卒の状況について『兵士たちがみた日露戦争』雄山閣 発行、P.232より以下に引用する

「輸卒の苦心努力は絶頂に達し、宿営地到着後炊爨すいさんして食事する余力なく、生米をかじりつつ奮闘を続け、中には日々此の如き苦痛を続けるよりむしろ死を欲するむね」を口にする者さえいた。しかも、「輸卒の被服は日々の労働の為全く修理も出来ざる様に大破し、ほとんど裸同様なかつ素足のままで実に目もあてられぬ有様で、支那人は彼等を目して苦力兵(クーリーピン)と呼んだ」

また、西村真次 著『血汗』「日露戦争の輸卒生活」には、当時補助輸卒だった人物により、その日常がつづられている。
夕食として二合の飯に梅干しと書かれており貧相な副食であったことがわかる(p.12)。
(国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781851/13 )

さて、話を『明治三十七八年戦役陸軍衛生史 第五巻第三冊』の「七章 脚気」に戻して、P.29「第二十六表 階級別脚気罹患率」より、戦地のデータを千分率から百分率に変換して引用する:
 将官   1.316%
 上長官  1.443%
 士官   5.129%
 準士官  5.093%
 下士   9.942%
 兵卒  14.632%

階級が下がるほど脚気になりやすい。階級が下がるほどに、労働に対して十分な副食が得られていないためと考えられる。

⬛日露戦争中の内地の主食は何か?

日露戦争において、兵站力の不足から大本営陸軍が戦地へ麦を送るのを後回しに決定したというなら、内地は平時と同じく麦飯だったのでしょうか?

その答えの一例が、陸軍省『明治三十七八年戦役陸軍衛生史 第五巻第三冊』p.40 の「第十一師団の脚気患者消長表」にありました。グラフの最下部の内地の欄には「米麦(三十%)食」との記載があり、ずっと麦飯であったことが示されています。(図で使われている「麥」の字は「麦」の旧字)

以下に図を引用します(保護期間終了しているので、そのまま転載した)

引用元
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935720/35

この図より、少なくとも第十一師団では内地まで白米にさせられるようなことはなかったといえます。そう考えると、他でも麦飯は続けられたのではないでしょうか。

⬛日露戦争での麦飯供給遅れの謎

日露戦争のとき、陸軍大臣は麦飯派である寺内正毅だった。それなのに、陸軍は兵食の主食を当初は麦飯にせず白米とした。脚気対策として主食を麦飯とする訓令を寺内が出したのは明治38年3月。開戦から約一年後である。なぜ初めから麦飯としなかったのか?

他にも気になる点がある。
寺内は、明治37年11月に東京都下の新聞記者を集めて秘書官を通じて、できる限り麦を送っているなど脚気流行に対して弁明をしている(山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』p.308-309)。そのときから麦飯にする訓令をだすまでに数ヶ月たっている。この訓令が出るまでは、麦飯の供給は陸軍全体ではなく部分的な状況が続いていた。

これらより、寺内正毅陸軍大臣であってさえも陸軍全体を麦飯にすることができない理由があったのではないかと思われる。その理由とは、麦の供給体制を整えるのに時間がかかったからではないだろうか?

大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』(1987、立風書房)p.245-246には、馬糧としての大麦確保が困難だったことが書かれている。麦飯に使う挽割麦も大麦なので同様な状況だったと思われる。以下に引用します。

“大麦の場合、平時にはほとんど消費されていなかった軍用馬糧というかたちの新しい巨大な需用が生じた。(略)もともと大麦は農民の自給食糧であって、市場をかたちづくる商品としての性格に乏しい。(略)第一、大量集荷市場が形成されていないのである。陸軍省は大麦の買上げを陸軍糧秣廠長に命じたが、大量集荷市場が成立していない大量買上げは不可能であった。(略)関東地方の大麦買上げの見通しがついた九月三日、糧秣廠は関西・中部各府県からの買上げに取りかかった。”

これは日露戦争が始まった明治37年のことであり、戦争まっただなかの状況です。

つまり、当初から麦飯としなかったのは以下だと考えられます
(1)陸軍全体に麦を供給し続ける体制の確立が困難
(2)麦は主に自家で消費されており、大きな市場をもっていなかった
(3)軍馬の飼料が麦であった。大量の軍馬の飼料確保でさえ苦労していた
(4)白米ならば供給ができた

陸軍は平時に麦飯だったのだから戦時になってからも麦飯にできると思う人がいるかもしれないが、陸軍ではそう簡単ではない。陸軍は戦時に人数が激増している。
陸軍の推定人数は、
 明治36年15万
 明治37年90万
 明治38年90万

 明治39年20万
日露戦争の年である明治37、38年は戦前の明治36年の6倍になっている。
一方で海軍は
 明治36年3.7万
 明治37年4.1万
 明治38年4.5万

 明治39年4.7万
年に約1割程度の増加。
戦前からの増加は、海軍は数千、陸軍は数十万、二桁も違う。
(人数は、日本長期統計総覧第5巻、1988 をもとにした)

⬛まとめ

調査結果をもとに、「世間でよく言われる3点セット」について見解をまとめます。

(1)海軍は、兵食に麦飯を導入することで脚気を撲滅した
→そう単純ではない。海軍は、白米飯を麦飯にしたというよりも、基本は、パン食+西洋食化をした。パン食だけだと不評なので麦飯も導入した。さらに、西洋食化に伴い副食を豊かにしたことも脚気対策として重要。

(2)しかし、陸軍軍医 森林太郎は、脚気の原因は細菌だと信じていたので麦飯による脚気対策を否定
→今回、ここは突っ込んで調査していない。

(3)その結果、陸軍は兵食を白米飯のままにし続け、日清戦争、日露戦争では脚気による患者および死者を大量に出した
→そう単純ではない。「その結果」といえるほどの関係性の根拠がない。
・戦争に入ると大本営が設置され戦時体制に入る。
・当時、森林太郎は陸軍兵食の責任者の立場にはない。日清戦争時は石黒忠悳、日露戦争時は小池正直が陸軍軍医トップであり責任者。
・石黒忠悳は、森林太郎が陸軍に入る前から脚気菌説の立場であり、かつ、麦飯を否定していた。石黒は森林太郎を利用し、栄養学の点から米食の優秀さを示させた。
・日露戦争では兵站力不足から麦を送るのを後回しにした。が、途中からは麦飯が導入されて、米7麦3の割合の麦飯となった。それで白米飯のときよりは脚気患者数は減ったが脚気患者がなくなることはなかった。
・副食が貧相だったことも脚気惨害の要因。陸軍では戦時糧食規定で規定した量の副食を給食できていなかった。

⬛さいごに

この記事は、世間で良くいわれる3点セットに着目し、その論理が成り立つのかを調べました。調査した結果、成り立たないと判断します。

だからといって、脚気惨害に関して森鴎外には何も問題がないと言いたい訳ではありません。この記事ではほとんど取りあげていませんが、森鴎外にも問題となる言動はありました。

ただ、明治陸軍の脚気惨害がなぜ起きたかを追及するためには、森林太郎ばかりに着目したのでは視野が狭く、現実を正しく認識するためには、より広い視野を持つ必要があります。この記事では、簡単にですが、石黒忠悳の漢方医排斥の政治活動、陸軍の兵站へいたん力不足、陸軍における副食の軽視に触れました。広い視野から陸軍の脚気惨害の原因の研究が進んで欲しいと思います。

最後は、ある本からの引用で締めたい。
『ミライの授業』瀧本哲史(著)、講談社より

P.81 “森鴎外ら陸軍の軍医たちは「脚気は伝染病で、食事なんて関係ない」と言い張りました。(略)そして日露戦争では、(略)2万8000人もの兵士が脚気で命を落とします。”
P.86 “森鴎外は、「権威の思い込み」にとらわれた典型的な人でした。”
P.87 “両者の分かれ道は、「権威や常識を疑うことができるかどうか」、そして「事実をベースにしてものごとを考えられるか」にあります。”

この本の著者は、「陸軍の脚気惨害は森鴎外の責任」という常識を疑って事実をベースに考えているでしょうか?

⬛付録 陸軍はドイツ医学派だから脚気栄養説も麦飯も否定?

世間の通説として、陸軍はドイツ医学派だから脚気菌説の立場であり栄養説を認めなかったというものがあります。その見解は、お雇い外国人の言動からすると怪しい。

ミュルレルとホフマン

お雇い外国人としてドイツから来たホフマンやミュルレルは脚気の対症療法として食事の改善をしていました。

日本医師学雑誌 第34巻第4号(昭和63年)
http://jsmh.umin.jp/journal/34-4/index.html
より、
『御雇教師ミュルレルとホフマン(2)』
小関恒雄 著
http://jsmh.umin.jp/journal/34-4/585-600.pdf
から引用

もちろん、当時脚気の原因はわかっておらず(『医事新聞』二九号、一八八○、宗田その他)、伝染説、中毒説、栄養障害説等諸説があったが、ホフマンらは身体の栄養不足衰弱とし、当然対症療法として栄養改善を採っていた。この食料云々ということは実際行われていたらしく、当時の寄宿舎の宿料が四円五十銭もしたという。これは、ホフマンの説では脚気は食事に関係があるというので、朝は卵三個とお汁、香の物、昼は百目位の牛肉一皿、夜は魚、牛肉のスープ、野菜といった献立だったという(『東京帝国大学法医学教室五十三年史』一九四三より)

ベルツ

お雇い外国人教師エルウィン・ベルツは、ドイツ医学を日本に広めるのに貢献した人物で、東京大学医学部で医学を教えていました。また、脚気細菌説を唱えて東大の脚気細菌説に影響を与えています。

その日記は翻訳されて出版されており、脚気について言及した箇所があります。明治37年8月21日の箱根でのことを書いた日記です(ただし、すでに東大を退任している)。8月は日露戦争で陸軍の一部にやっと麦飯が導入された月であり、それまでは白米飯で脚気患者が急増していた時期になります。
『ベルツの日記 (下)』トク・ベルツ 編、菅沼竜太郎 訳、岩波文庫(青426-2)の p.151-152より引用します:

 箱根は傷病兵であふれている。ここに転地させられているのは、主として脚気患者であるが、負傷回復期のものもいる。東京鎮台の兵士で、たいていは予備兵や後備兵である。いずれも栄養佳良で、立派な体格をし、強壮に見受けられる。ただ歩行によって、慣れた眼には、ただちに脚気患者であることがわかる。
(略)
 風土の影響以外に、食物の影響を確かめるため、こんな絶好の機会を利用しないのは不思議だ。たいていの脚気症が、高地の気候でなおるのは事実だが、しかしながら(もっとも自分は、この病気を伝染性のものと考えているのだが)食物がこれにいくらか関係のあることも確実だ。戦地の軍隊が、麦や豆を加えないで、ほとんど米だけで養われているのに、自分は驚いた。自分は、陸軍省内の関係当局に交渉してみようと思う。
 しからば、まず当地で何をすればよかったかというに、兵士の半数を米で、他の半数をパンまたは麦飯で養い、もって後者が前者よりも速やかに全快するかどうかを観察すべきであったと思う。

このように、ベルツは細菌説の立場は変えないものの、脚気と栄養の関係を認めています。

ベルツとはどんな医学者なのかを酒井シヅによる解説から引用します。
『ベルツの日記 (上)』トク・ベルツ 編、菅沼竜太郎 訳、岩波文庫(青426-1)の p.5-6より引用:

一八七二年四月、ベルツは、学士試験を「最優秀」の成績で合格した。その後二─三ヵ月の間、同大学(引用者注 ライプチヒ大学)の病理学教室の助手を勤めたが、この時の経験が、東京に来て病理学を講義した時に役立ったに違いない。
 ベルツが正式にウンデルリヒの内科の医局に入局したのは同年の秋であった。それから、四年間、ここでドイツの最先端の内科学をみっちり叩き込まれた。
 ウンデルリヒの内科学は、それまでドイツで広く見られた経験や個々の徴候を漠然と捉え、自然治癒力を期待するロマン主義派の医学に批判的な立場を取っていた。ウンデルリヒは、医学は生理学と不可分であり、実証された事実に根拠を持たねばならぬ、また、生体が生き、病気にかかり、治癒するか死亡するかの過程を法則で教えるものであるべきだと主張した。つまり、いまでは当たり前になっている医学に科学性を持たせることを目的として、生理学および病理学的所見を重視した。いま病院で患者の枕頭に必ずある体温表はかれの考案したものである。このようにウンデルリヒは理論を重んじたが、実際の臨床医が知識と論理だけで患者を扱えないことを十分承知していた。医者は、たえず諸現象を高度な直感を働かせながら綜合判断をし、ただちに正しい処置が行えるようにならなければならないと教えた。
この姿勢がベルツに継承され、日本に伝えられたのである。

理論を重んじた医学を学んだベルツでさえ、少なくとも明治37年8月には、脚気と栄養の関係を認めていたということです。
世間では、脚気論争を「ドイツ医学vsイギリス医学」の対立構造として語られますが、そのような色眼鏡で脚気論争を解釈しようとするのは判断を誤らせる危ういものだと思います。

⬛付録 脚気菌説の歴史

以下の記事に脚気菌の歴史がよくまとまっているので参照ください。

日本医史学雑誌第32巻第1号 (昭和61年)
http://jsmh.umin.jp/journal/32-1/index.html
より、
『わが国の『脚気菌』研究の系譜』
松村康弘、丸井英二 著http://jsmh.umin.jp/journal/32-1/26-42.pdf

ここには、石黒忠悳の名前は出てきますが、森鴎外(森林太郎)の名前はでてきません。つまり、脚気菌説において、森林太郎の存在はその程度でしかなかったといえるでしょう。

⬛付録 森林太郎(森鴎外)は死ぬまで脚気細菌説にこだわったのか?

「森林太郎(森鴎外)は死ぬまで脚気細菌説に固執した」と書かれているのを見かけますが、これは疑わしい。少なくとも、ある頃から栄養と脚気に関係があることは認識していたと思われる。

まず、陸軍が兵食の規定を変更し主食に麦飯を正式に採用したのは大正2年であり、このときの陸軍医務局長は森林太郎だったということ。(ちなみに、ネットではこの改正時期のことを森が退官した後と書いたものを見かける。しかし、森が医務局長を退任したのは大正5年であり改正後。)
変更内容が書かれた『陸軍給与令中改正 勅令第四十三号』(大正二年)は、以下より参照できます。
国立公文書館デジタルアーカイブより
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000023611

次に、『日本米食史』(岡崎桂一郎 著)には、森林太郎が書いた序文があり、そこには、精米の度合いと脚気に相関があると書かれているということ。つまり、脚気が栄養によって生じることを認めているということです。この序文には、明治四十五年五月との記載があり陸軍兵食規定に麦飯を取り入れた大正二年の一年前になります。

『日本米食史』(岡崎桂一郎 著)の序文は以下から読めます:
国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク→
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980938/10

漢文で書かれています。該当箇所の抜粋と、私訳を以下にのせておきます。

【該当箇所抜粋】
食米之民 多罹之
而国人上古食糧米 不知脚気
中古則食其舂而猶麤者 亦未至受其弊
自近古至現代 則偏食其太精者 於是乎脚気矣
余承乏臨時脚気病調査会長
与委員諸家 探究病因
知米麤精与病之消長 交互相関也

【私訳】
米食の民は、脚気となることが多い。
しかし、上古の日本人は、米を主食にしていても脚気を知らなかった。
中古には、うすでついた米を食していたが粗い精米のため、その弊害を受けるまでにはいたらなかった。
近古から現代において、精度高く精米した米を偏食し、ここにおいて、ついに脚気にかかるようになってしまった。
私などが臨時脚気病調査会長をうけたまわることになり、
委員諸氏とともに脚気病の原因を探究し、
精米の度合いと脚気の間に相関関係があることがわかった。

補足 上古、中古、近古は歴史の時代区分のこと。

【参考】森林太郎が知った経緯は以下に詳しい。
公益社団法人福岡県病院協会 機関誌『ほすぴたる NO.730』p.18
『特別寄稿 脚気論争(8)』岡村健 (著)
https://www.f-kenbyou.jp/magazines/index/year:2018

さらに、日露戦争中に森鴎外が報告した第二軍軍医部長臨時報告の明治38年2月6日第九十六回臨時報告において、脚気予防として麦と雑穀の供給に尽力するように森鴎外が通達したことが書かれている。
その通達は森鴎外が第二軍の各軍医部長宛てに「凍傷予防」「伝染病予防」について書いたもので、脚気予防として、「麦及雑穀ノ供給ニ尽力スルヲ要ス」の一文がある。(『鴎外全集 第三十四巻』1974、岩波書店、p.434より、読みやすくするため新字に置き換えて引用)
これは、寺内正毅陸軍大臣が明治38年3月10日に「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」を出す前のこと。伝染病予防として脚気を書いているので脚気を伝染病として捉えてはいるものの、麦や雑穀による脚気予防効果について認めていたといえる。

⬛付録 森鴎外が征露丸を脚気対策として配らせたのか?

征露丸(現在は正露丸と呼ばれる薬)に関して、脚気や森鴎外にからめて語られるのを見かけるが、本当だろうか?

征露丸の主成分は木クレオソート。漢字では、結麗阿曹篤とか結列阿曹篤などと表記されます。
(補足 現在は石炭クレオソートとの区別のため「木(もく)クレオソート」と表記するが、かつては単にクレオソートと呼ばれていた)

世間で以下のことが言われているのを見かけます:
森鴎外は、脚気の原因を「脚気菌」と考えていたため、木クレオソートの抗菌作用により脚気対策となることを期待して征露丸を兵に配った。

例として、『毒と薬の世界史』(船山信次著、中公新書)p.160-161 から引用します。

 日本の軍隊にとって、衛生状態の悪い外地において、戦死より病死の方が多いというありさまであった。この状況下、クレオソート(木クレオソート)を主原料とした「正露丸」が開発されたのである。
 陸軍ではこの丸薬を「クレオソート丸」と呼んでいた。森林太郎(鴎外)ら陸軍の軍医たちは、脚気が未知の微生物による感染症であろうという仮説を確信していた。そこで、強力な殺菌力を持つ「クレオソート丸」は脚気に対しても有効であるに違いないと考え、日露戦争に赴く将兵に連日服用させた。

歴史的資料から「征露丸」の由来に関する記載を探してみました。二つとりあげます。

1つめ。
『明治三十七八年戦役陸軍衛生史. 第5巻 第1冊』p.457 の腸チフスに関する予防法の箇所。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935718/277
(参照先 国立国会図書館デジタルコレクション)

ここにはまず、岡田軍医正、戸塚軍医正による研究について述べられています。こんなことが書いてあります。
「クレオソートを少量服用し続けると、大腸菌はクレオソートに対する抵抗力が増し、抵抗力を増した大腸菌が他の細菌の発育を疎外することを発見した。これにより、消化器系の伝染病に対する間接的な予防効果が期待できる。」

続く p.458 の最後に以下の記載がある。引用します。(「瓦」は、グラムのこと)

野戦衛生長官は右の報告により、結列阿曹篤の応用によりて間接的に消化器よりする伝染病を予防するに決し、戦役の初めより諸種の便宜上、結列阿曹篤を丸としてこれを征露丸と名けて出征者全部に支給して一日その○・三瓦宛の分服を命じたり。

(読みやすさのため、旧字は新字に、片仮名は平仮名に置き換え、句読点を追加、一部の漢字を仮名にした。
引用元 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935718/278 )

この時は日露戦争なので、野戦衛生長官とは小池正直のことです。森ではありません。
ここでもう1つ重要な点は、クレオソート自体に殺菌力があることを期待していない点です。つまり、世間がいう「脚気菌」に対する抗菌作用を期待した、とは異なります。

2つ目。
『日露戦役に於ける衛生業務の大要』(陸軍軍医学会、明治39年4月25日)に、日露戦争での衛生の結果について小池正直がおこなった演説の内容が書かれています。そこから引用します。

個人的衛生として次に実施したのは征露丸の服用である。陸軍軍医学校にて担当教官が戦役前より研究した仕事で、これを常用するときは腸に付く伝染病すなわち腸チフス、赤痢等の予防になることを学理上実験上より証明し

各兵に服用させることを決し三十七年三月なかばより製造に着手し同年五月より飲ませ始めました。

(読みやすくするため、旧字は新字に、片仮名は平仮名に置き換え、句読点を追加、一部の漢字を仮名にした。
引用元資料
「日露戦役に於ける衛生業務の大要 陸軍軍医学会」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13110536600、日露戦役に於ける衛生業務の大要 明治39.4(防衛省防衛研究所)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C13110536600
13枚目 )

小池正直本人が自分で決定し兵に飲まさせたと語っています。

以上をまとめると、
日露戦争時の陸軍医務局長および野戦衛生長官であった小池正直が自らの判断で、消化器系の伝染病予防を目的にクレオソート丸を用意させ、征露丸と名付けて配らせた、ということになります。

世間でいうような日露戦争における征露丸と森鴎外との関係ではないし、脚気対策でもありません。

また、インターネット上では、クレオソートの歴史に関して、森鴎外らによってドイツから日本に持ち込まれた、との書き込みが見られます。これはまったくのデマではないかと思います。というのも、森鴎外が陸軍に入った明治14年よりも前の明治10年に陸軍でクレオソートが薬品として使われている記録があります。

石黒忠悳が明治10年に書いた『大阪陸軍臨時病院報告摘要』の薬品消費総計表のなかに「結列屋曹篤」として記載があります。
以下の左ページにて確認できます。
参照先 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833135/54

【参考】木クレオソートの歴史について以下に詳しい。PDFは画像でサイズが大きいので注意。
薬史学雑誌の一覧
http://yakushi.umin.jp/publication/index.html
より
Vol.42 No.2
http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol42-2_all.pdf
のP.110 『木クレオソート製剤の史的変遷』
森口展明, 佐藤茜, 木村益雄, 柴田高, 米田幸雄

⬛付録 森林太郎の論文などでよく誤解されているもの

ねじ曲げて理解している人たちがいるので整理する。

『日本兵食論大意』

明治18年、森林太郎がドイツ留学中に書き上げて、上官である石黒忠悳に送った論文。石黒が医学誌に掲載し、森林太郎に代わって講演もした。もし石黒忠悳が利用価値がない論文だと判断していたら、公開されなかったかもしれない。
この論文は、当時の最新の栄養学からすれば、日本食(米食)でも少し改善すれば十分だということを述べている。洋食(肉食+パン食)派を批判している。
また、洋食を採用するにあたっての懸念点などについても扱っている(国内の肉の供給力不足など)。
脚気については語っていない。というか、脚気については語らないと明記されている。

『日本兵食論大意』は以下より読むことができる。
リンク先 国立国会図書館デジタルコレクション
『鴎外全集 第17巻』岩波書店、p.13
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978783/15

【参考】明治18年に書かれたこの論文で森林太郎がすでに懸念していた国内の牛肉供給力不足は、日露戦争(明治37~38年)において兵食用牛缶詰めの生産において現実となった。以下の論文が参考になります。
『日露戦争を契機とする牛価高騰と食肉供給の多様化』野間 万里子 著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/arfe/47/1/47_60/_article/-char/ja/

【参考】日清日露戦争と軍需缶詰生産について以下の記事が参考になります。
歴史地理学 第140号[1988年3月] | 歴史地理学会
http://hist-geo.jp/img/archive/histricalgeograpy140.html
より
『明治・大正初期における本邦の缶詰業-農産缶詰を中心として-』多田統一 著
http://hist-geo.jp/img/archive/140_3.pdf

『非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス』

ドイツ留学から日本に戻って2か月後の明治21年11月に森林太郎が大日本私立衛生会にておこなった演説。森林太郎は、その内容を『非日本食論将失其根拠』として自費出版した。

『非日本食論将失其根拠』は、以下より参照できる。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837167

日本食(米食)にはたんぱく質が足りないという主張があることに対して、当時の最新の栄養学からすればそうではないことを述べている。肉食をしてたんぱく質をとるべきと主張する洋食派批判といえる。
また、必要な栄養の摂取量について、西洋の学説を鵜呑みにすべきではなく自分たちで調べるべきとの主張もしている。この主張は、陸軍の兵食試験につながっていると考えられる。
脚気については語っていない。
「イギリス流偏屈学者」という表現を用いて、暗に海軍軍医 高木兼寛をバカにした発言をしている(『非日本食論将失其根拠』p.27)。海軍ではイギリス医学を採用しており、海軍で洋食化を強力に推進していたのは高木なので、わかる人にはわかったはず。話の流れとしては、日本人に向いた食事が何かを調べもせずに西洋をまねて西洋食化したことへの批判となっている。

【参考】明治初期、中期における肉食の受け止められ方について以下の論文が参考になります。森林太郎が肉食である洋食を否定したことを、単純に海軍軍医 高木を批判したとみなしてよいものではないとわかると思います。
『肉食という近代 ―明治期日本における食肉軍事需要と肉食観の特徴―』真嶋 亜有 著
https://icu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=236&item_no=1&page_id=13&block_id=28

兵食試験

ドイツ留学から戻ってきた森林太郎が上官である石黒忠悳の命令により行った実験。
当時の栄養学をもとに日本人を被験者として人体実験にて、日本食(米食)、日本食(麦飯)、西洋食を比較した。摂取カロリーの多さなどの観点での比較をし、日本兵の体づくりに適した食事は米食であることを示した。この兵食試験の価値の高さは、海外の文献や情報を輸入した知識ではなく、人体に吸収されるかどうかをふまえた調査を実際に日本人を用いて日本人が調べたこと。
ただし、脚気については何も調査も報告もしていない。

兵食試験の報告書のなかの『呈兵食試験報告表』を石黒忠悳が書いているが、そこには陸軍兵食の副食代が6銭では十分ではないとの訴えがある。以下に引用する(読みやすくするため、句読点をつけ直し、旧字は新字に、片仮名は平仮名に置き換えるなどした):

“菜価金六銭に至りては、いまだ十分なりとすべからず。概してこれを論ずれば、この従来習用の兵食をもって我が兵食の最下限と定むることを得べし。しかれども決してこの額より減ずることを得べからざるなり。” 

(引用元 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088199/684 )

つまり、白米だけ食べていれば十分という報告とはなっていない。

【参考】兵食試験の辞令の画像が以下より参照できます。
https://www.digital.archives.go.jp/img/1693400
「陸軍省兵食試験委員ヲ命ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111722700、公文類聚・第十三編・明治二十二年・第十巻・兵制・兵制総・陸海軍官制(国立公文書館)

『脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎』

明治34年8月『公衆医事』に掲載された論文。統計データを用いて、陸軍で脚気が減ったのは麦飯のおかげではなく、たまたま脚気の伝染病がおさまった時期に重なっただけだと述べている。
しかし、最後の方に以下が書かれている:

“以上の我言は全く時流と去就を殊にし、予は殆ど医界に孤立する者なり。此小文にして他人の一顧するなくば已む。若し或は過ちて物議に上らば、予は諸家掩撃の焼点に立たざる可からず。”

この文からすれば、麦飯派が優勢であると森はとらえていたといえそうです。

『鴎外 森林太郎と脚気紛争』山下正三著、日本評論社、p.231-237 によれば、好意的に読んでも「医学を論ずる文にはみえない」ものであり、反論は現れなかったという。

本論文は、『公衆医事』から転載されたものが以下より読めます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjmj/M34/345/M34_807/_article/-char/ja

⬛付録 海軍軍医 高木兼寛と注意

この記事では、海軍の脚気対策を主導した軍医 高木兼寛についてほとんど触れませんでした。高木の脚気への取り組みと、高木への当時の批判について、以下を参照してみてください:

『高木兼寛とその批判者たち -脚気の原因について展開されたわが国最初の医学論争-』
著者 松田 誠
https://ir.jikei.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=1716&item_no=1&page_id=13&block_id=30

高木兼寛を調べていると、東京慈恵会医科大学の関係者が書いたもの(上記リンク先もそうです)、あるいはそれを参考にしたものばかりだと気がつきます。この大学は、高木兼寛が創立した学校が母体となっています(下記サイト参照)。そのためか、関係者が書いたものには、高木を良く見せ、陸軍や森鴎外(森林太郎)を悪く書く傾向がみられます。よくよく注意して読む必要があります。

「源流 ―貧しい病者を救うために―|学校法人 慈恵大学」
http://www.jikei.ac.jp/jikei/history_1.html
より引用:

東京慈恵会医科大学の源流は、高木兼寛(嘉永2年(1849)―大正9年(1920))によって明治14年(1881)5月1日に創立された成医会講習所に始まる。

【参考】慈恵医大関係者への批判的な内容が、『東大病院だより』という冊子のなかにありました。
『東大病院だより』バックナンバー
https://www.h.u-tokyo.ac.jp/cooperation/letter/backnumber
より
『東大病院だよりNo.56』(平成19年1月31日)
https://www.h.u-tokyo.ac.jp/cooperation/dayori/__icsFiles/afieldfile/2019/07/04/dayori56.pdf
P.11より引用します
“高木兼寛と脚気問題の歴史をよく引用する慈恵医大関係者の報告は東大医学部は陸軍軍医監の森林太郎(鴎外)が中心となってまるで帝国大学の権威で細菌説で高木兼寛に反対したかのように現在でも言う。事実はそうではなく研究者がそれぞれに真実を求め、さまざまな研究がなされていたのである。”

事例1
石黒、小池や東大の学者の名を出さず、高木vs森林太郎の構図でのみ語っている。

『くすりのリスク・ベネフィットを 検証する会
RAD-AR News Vol.13, No.1 (May. 2002)』
https://www.rad-ar.or.jp/news/pdf/rad-ar-news13-1-2002may.pdf
に掲載された記事『高木兼寛と脚気』東京慈恵会医科大学 薬物治療学研究室 浦島 充佳みつよし著 より

“その後、ドイツ医学を学んで帰国した陸軍軍医の森 林太郎(森 鴎外)らが脚気の病因を明らかにすることに固執したのに対して、兼寛の目的は脚気の原因を明らかにすることではなく、脚気の発生を予防することであった。この2人はそれぞれ陸軍と海軍で持論を固持し、結果は歴然としたものだった。”

事例2
小説をもとに脚気論争を語り、その上さらに森林太郎がおこなった兵食試験をねじ曲げて解釈し「脚気病食の効果がないと結論」というありもしない結論をでっちあげている。

医学界新聞
〔連載〕How to make
クリニカル・エビデンス
-その仮説をいかに証明するか?-
浦島充佳(東京慈恵会医科大学 薬物治療学研究室)

〔第4回〕高木兼寛「脚気病栄養説」(4)
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2001dir/n2434dir/n2434_06.htm

“今までの「兼寛脚気病栄養説」に関しては兼寛の論文を参考に進めてきましたが,次回は吉村昭著『白い航跡』(講談社)を参考に兼寛「脚気病栄養説」対鴎外「脚気病細菌説」の論争を材料に書き進めていきたいと思います。”

〔第5回〕高木兼寛「脚気病栄養説」(5)
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2001dir/n2436dir/n2436_05.htm

“にもかかわらず,鴎外は第 I 相試験の結果をもって第 II 相試験(効果が予想される小人数の患者に投与し,有効性,安全性,使い方を調べる),第 III 相試験(多数の患者に投与し,有効性,安全性,使い方を確認する)を飛び越して脚気病食の効果がないと結論してしまったのです。また8日間の食事では脚気に影響を及ぼさないでしょう。”

事例3
森林太郎が脚気菌を発見したというありもしないことを捏造している。

森鴎外が間違えた「白米論争」と明治時代のロカボ食 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
https://forbesjapan.com/articles/detail/19390/1/1/1

“陸軍軍医総監であった森鴎外(後の文豪)は脚気菌を発見したと発表。疫学調査は一切行わず、動物実験でコッホ四原則によりこれを証明したというのだ。脚気の原因が脚気菌であれば、栄養の偏りで脚気になるわけがないと主張し、陸軍は白米中心の兵食を堅持した。”

著者情報
うらしま・みつよし◎1962年、安城市生まれ。東京慈恵会医大卒。小児科医として骨髄移植を中心とした小児がん医療に献身。その後、ハーバード大学公衆衛生大学院にて予防医学を学び、実践中。

事例4
日露戦争において陸軍は米食の徹底をしたという誤った情報を流している。

『高木兼寛と森林太郎の医学研究のパラダイムについて (資料)』
東京慈恵会医科大学名誉教授
松田誠 著
https://ir.jikei.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=804&item_no=1&page_id=13&block_id=30
より引用

“非常に理解しづらいところであるが,日清戦争の 10年後の日露戦争でも陸軍はまたしても大量の脚気患者を出した(日清戦争をはるかに上回る25万余の脚気患者と 2万 8千の死者であった).そしてその理由も前と同じく戦地で米食を徹底したためであった.陸軍医務局中枢の頑迷さにはあきれるばかりである.”

⬛【注意】小説『白い航跡』を真に受けないでください

調べていると、吉村 昭 著『白い航跡』を参考文献にあげた記事や本、論文を良く見かけます。(『白い航跡』が出版されたことで、森林太郎と脚気惨害の関わりが広く知られて森が批判される世間の風潮ができあがったような感じがします)

この小説は史実を良く調べて書かれているとはいえ、これはあくまで小説です。そこに書かれていることは、事実と著者の想像がごちゃまぜになったものです。当然、主人公である海軍軍医 高木兼寛をひいきして書かれています。面白くなるように知名度のある森鴎外(森林太郎)を悪者のように書いています。

著者の森鴎外に対する見方は「あとがき」にはっきりと現れています。引用します:

医学者として終始、兼寛の学説に徹底的に反対したのは、陸軍軍医総監にもなった森林太郎(森鴎外)である。

この小説に書いてあることを事実として真に受けないでください。

たとえば、兵食試験報告の箇所をみてみましょう。『白い航跡』下巻より引用します

 それは、森が前年からおこなっていた陸軍兵食試験の結果を報告したもので、その内容は、兼寛の主張している麦飯および洋食尊重に対する激烈な反論であった。
 その内容を知った兼寛は、顔色を変えた。

引用箇所のあとも報告のことが続き、高木が森からひどく批判されたような描きかたがされています。

 しかし、明治23年に提出された兵食試験報告は、おおざっぱにいうと栄養の摂取量について人体実験で調べたところ米食が最も優れていたという報告でしかありません。脚気については、何も調査しておらず、何も述べていません。海軍についても何も書いていません。
 5年前の明治18年には海軍の脚気をほぼ撲滅し維持している高木兼寛にとっては、顔色を変えるほど衝撃を受ける内容とはいえません。
 しかも、高木は2年後の明治25年に予備役となり一戦を退いています。そんな頃の出来事です。
 つまり、小説ではいかにも、高木vs森 と見せるための演出がされているということです。

ちなみに兵食試験報告は、解像度が低いのですが、以下のリンク先から参照できます:
国立国会図書館デジタルコレクションより
『陸軍衛生制度史』大正5年、P.1335~
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088199/684

参考事例 『鴎外は何故袴をはいて死んだのか―「非医」鴎外・森林太郎と脚気論争』志田信男 著

この本は、小説『白い航跡』で脚気惨害を知り、小説の内容を真実として脚気論争を語り、そこから森鴎外に脚気責任を負わせる良い事例だと思います。著者が『白い航跡』を読んで森鴎外が脚気惨害の責任者だと感じて書いた読書感想文のようなもの、との印象です。何かと森鴎外をおとしめるレッテル貼りをするのですが、それを裏付ける根拠の提示がありません。
以下にP.117より引用します

脚気問題においては、鴎外はドイツ医学に拠る東大医学部・陸軍軍医部のイデオローグだったのであり、石黒忠悳の「学理至上主義」に殉じたのではなく、それに理論的支持を与えるばかりでなく、盲目的信奉者で頑固な実践者だったわけである。日露戦争末期、脚気の原因が白米食にあることにようやく気づき本格的にその対策に取り組み始めた時に軍内部で兵食改善の最大の障害になったのが、鴎外であったことは有名な事実である。

そのような事実が本当にあるのなら「有名な事実」と誤魔化さずに根拠を示して欲しいものです。

⬛【注意】栄養学の界隈が脚気惨害を森鴎外の責任だと広めている

色々と調べているうちに栄養学の界隈の人たちが脚気惨害についておかしな知識をまきちらしていることに気がつきました。あと、疫学の分野でもみかけます。

「基礎栄養学」の本には必ず日本の栄養学の歴史の解説があります。というのも管理栄養士国家試験出題基準(ガイドライン)の科目「基礎栄養学」の範囲に「栄養学の歴史」が含まれているからです。「栄養学の歴史」の解説には、ビタミン発見までの歴史も解説されていて、高木兼寛が脚気は栄養因子によるものと発見したことが書かれています。そこまではよいのですが、なかには「3点セット」のようなことを書いている本があります。

事例 3点セットに近い記載の例。『新 食品・栄養科学シリーズ 基礎栄養学 第5版』灘本 知憲(編)、化学同人、p.26 のコラム「ビタミン発見」より引用:

ドイツ医学を信奉していた陸軍医の森林太郎(森鴎外)や石黒忠悳は,病気細菌感染説を支持し,高木らの「麦飯による脚気予防」説を受け入れなかった.このため,日露戦争(1904~1905)では陸軍と海軍では大きな差が生じることになった.
 日露戦争では(略)脚気が原因と思われる死者が2万8000人に達し,このすべてが陸軍からで,海軍からは0名であった.

事例 『楽しくわかる栄養学』中村丁次(著)、羊土社。この本の一部が読めるサイトが下記リンク先にあります。
https://www.yodosha.co.jp/yodobook/book/9784758108997/13.html
ここから引用します:

日清,日露戦争では,多くの兵士が,この病気で死亡した。特に,陸軍では森鴎外が脚気は感染症だと考え衛生管理を徹底したが,食事の改善を行わなかったために患者を減少させることはできなかった。

海軍の歴史を誤認した事例 今度は海軍側の歴史の誤り事例です。陸軍批判はしていないものの、海軍側は当初から麦飯で脚気対策したと誤認しています。この記事の著者がいう「麦飯を食べさせる艦」とは比較実験した艦のようなので「筑波艦」のはずですが、そのときはまだ麦飯ではありません:

なるほど豆知識 管理栄養士さんが病気を治す??|名古屋学芸大学 管理栄養学部
https://nutrition.nuas.ac.jp/tips/000087.html
より
“海軍では、乗員に白米だけを食べさせる艦と麦飯を食べさせる艦を長期に航海させたところ、麦飯の艦の乗員には脚気の患者がみられませんでした。”

筑波艦の実験の報告は『海軍脚気病予防事歴』(海軍衛生中央会議 発行)に記載されています。
この本の「筑波艦明治十七年医務衛生報告」( p.76~)において、食事の内容の目安はp.80に記載されており下記リンクより参照できる:
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834731/43
1日あたり米180匁との記載がある。グラムにすると約675g であり、約4.5合。6合より少ないものの、主食はまだ米飯であることが読み取れます。米を減らして副食を増やす改良が行われていたのであり、麦飯は導入されていません。また、この報告には少数ですが、脚気患者が出たことが記載されています。ですから「脚気患者はみられません」の記載は間違い。

米飯から五割の麦飯に変更するのは翌年明治18年(p.90~)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834731/48

ファンタジーと化した事例 森林太郎を悪者にしたくて現実ばなれしたことを書いている例です。『栄養学を拓いた巨人たち 「病原菌なき難病」征服のドラマ』杉春夫 著、講談社ブルーバックス

栄養学の本ではなく、栄養学の歴史の入門書。この『第3章 病原菌なき難病』『3「脚気」と戦った先駆者たち』より引用します:

“こうした上層部の判断の背景には、森林太郎による、白米食をテストしたところ問題なしとの報告があった。”

“高木が海軍を救った業績はわが国では、森が死去するまで、公には封印されたままだったのである。”

「テスト」というと兵食試験のことだと思うが、兵食試験では白米と脚気との関係の有無を調べてはいません。
「公には封印」とは何をいいたいのでしょうか?しかも、「森が死去するまで」とは?海軍での兵食改良の業績は、どこにも封印されておらず公になっています。

【参考】偉人伝のような本が出版されており高木兼寛が取り上げられています。『帝国博士列伝』荻原善太郎 著、明治23年5月出版
P.15 「医学博士高木兼寛君小伝」(国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778406/16 )
P.28 には以下のように海軍の脚気を対策できたこと、それにより巨額の節約となったことが言及されている(読みやすく文字を置き換えて引用):
“脚気病をして二十年には絶無に帰せしめたるがごとき本邦医学社会未聞の偉業というべく~(略)~その費用を省けるもの金百十六万九千余円の巨額に当たるという”
(引用元
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778406/20

ファンタジーを真に受けた事例 先ほどの「ファンタジーと化した事例」で取り上げた『栄養学を拓いた巨人たち 「病原菌なき難病」征服のドラマ』(杉春夫 著、講談社ブルーバックス)を参考文献にしたために同じファンタジーを書いてしまった事例です。
『カレント 改訂 基礎栄養学』(木元 幸一 他、‎建帛社、2014)p.6より引用:

“高木が脚気から海軍を救った功績は,森が死去するまで公にならなかった。”

⬛付録【参考】陸軍戦時兵食の副食の規定でビタミンB1は足りるのか?日清戦争の場合

※現代の栄養価での計算なので現実的ではない試算であることをあらかじめお断りしておきます。

陸軍の戦時兵食の規定による食事が脚気になってしまう最低限必要なビタミンB1摂取量にどれくらいとどいていないのかどうかを試しに計算してみました。具体的な食事内容をひとつ仮定しています。ただし、調味料を考慮しない、調理の影響も考慮しないなど非常におおざっぱな概算です。

【計算結果】
先に結論を示します。
白米6合に加えて、仮定した副食もすべて食べた場合のビタミンB1は
 摂取量 0.57mg = 必要量下限 0.57mg
となり、なんとか足りることが分かりました。
一方で、白米のみだった場合は、
 摂取量 0.38mg < 必要量下限 0.51mg
となり、不足しています。
(この「必要量下限」は、この記事での独自の言葉で、意味は後述します)

つまり、白米6合であったとしても、副食が規定通りに与えられていたら、大量の脚気患者を出さずにすんだ可能性がありそうです。

【脚気にならないためのビタミンB1の最低限の必要量】
1000kcalあたりビタミンB1が0.16mgを下回らないことを基準として用います。この値をこの記事では勝手に「必要量下限」と呼び、この値と摂取量の大小比較をすることにします。
0.16mgの値は、以下の資料を参考にしました:

「日本人の食事摂取基準(2020年版)」策定検討会報告書
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_08517.html
のページより、
ビタミン(水溶性ビタミン)(PDF:2,041KB)
https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/000586563.pdf
「〈参考資料〉 ビタミン B1 摂取量とビタミン B1 欠乏症(脚気)の関連」の箇所に以下の記載がある:
“複数の知見をまとめた総説には「ビタミン B1 摂取量が 1,000 kcal 当たり 0.16 mg を下回ると脚気が出現するおそれがある。」とした記述が認められる”
これには「知見の科学的根拠は十分ではないものの」との断りがあるが、この値を利用する。

【参考】1000kcalあたりビタミンB1が0.15mgを下回ると脚気になる可能性があると記載したものもある。
『佐々木敏のデータ栄養学のすすめ』佐々木敏 著、p.122 図2。
同様な図が、以下の A04 にもある
https://www.ucoop.or.jp/shoku_de_kenkou/column/bitamin/?id=column-19 

【栄養価の参照元】
栄養価の数値および重量変化率は、『日本食品標準成分表2020年版(八訂):文部科学省』を用います。
これは以下のサイトより参照できます。
https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/mext_01110.html

【食事内容の仮定】
1日分の戦時糧食の規定中のそれぞれを具体的に日本食品標準成分表の項目に対応づけました。これにより栄養価を参照します。
・白米 6合
食品番号01088「水稲めし 精白米、うるち米」
・鳥獣魚肉類 40匁
食品番号11021「和牛肉 もも 赤身 生」
・野菜類 乾物15匁
ゆでて戻したとして
食品番号06334「切干しだいこん ゆで」
・漬物類 15匁
食品番号06143「福神漬」

【白米の計算】
白米1合は約150g。
食品番号01088「水稲めし 精白米、うるち米」は調理法「炊き」で、重量変化率は210%
よって、1合の白米を炊くと
 150×2.1=315g
となる。

食品番号01088「水稲めし 精白米、うるち米」は100gあたり
 カロリー 168kcal
 ビタミンB1 0.02mg
6合あたりでは、6×3.15倍して
 カロリー 3175.2kcal
 ビタミンB1 0.378mg

白米6合だけ食べた場合のビタミンB1の必要量下限は、
 3175.2÷1000×0.16=0.508032mg
なので、摂取量は約0.13mg足りない。

【肉類】
食品番号11021「和牛肉 もも 赤身 生」を仮定。100gあたり
 カロリー 176kcal
 ビタミンB1 0.10mg
40匁は約150g
40匁あたりだと
 カロリー 264kcal
 ビタミンB1 0.15mg

【野菜類】
切干し大根をゆでてもどしたと仮定します。
食品番号06334「切干しだいこん ゆで」より100gあたり
 カロリー 13kcal
 ビタミンB1 0.01mg
15匁は約3.75×15=56.25g
ゆでによる重量変化率は560%なので
 56.25×5.6=315g
315gあたりにすると
 カロリー 40.95kcal
 ビタミンB1 0.0315mg

【漬物類】
食品番号06143「福神漬」より100gあたり
 カロリー 137kcal
 ビタミンB1 0.02mg
15匁は約3.75×15=56.25g
56.25gあたり
 カロリー 77.0625kcal
 ビタミンB1 0.01125mg

【白米、肉、野菜、漬物をすべて食べた場合】
白米6合、牛肉40、切り干し大根は15匁を戻し、さらに福神漬15匁とした場合を計算する。
カロリーは、
3175.2+264+40.95+77.0625=3557.2125kcal
ビタミンB1は、
0.378+0.15+0.0315+0.01125=0.57075mg

このカロリーでのビタミンB1の必要量下限は、
 3557.2125÷1000×0.16=0.569154mg
なので、摂取量とほぼ同じ。

⬛付録【参考】陸軍戦時兵食の副食の規定でビタミンB1は足りるのか?日露戦争の場合

※現代の栄養価での計算なので現実的ではない試算であることをあらかじめお断りしておきます。
とくに、当時の缶詰の製造技術で現在と同程度のビタミンが含まれていたのか疑わしい。

日清戦争時の糧食規定を元にビタミンB1の計算したのと同様に、今度は、日露戦争での糧食について計算します。

日露戦争時の戦時糧食の規定について、『陸軍給与全書』(明38.2)p.80に掲載されている『陸軍戦時給与規則』の表「野戦糧食」をもとにしました。
(参照元:
国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798040/53 )
表の基本定量から以下とする。
主食 精米 6合
肉類 缶詰肉 40匁
野菜類 乾物 30匁
漬物類 福神漬 10匁

【計算結果】
先に結論を示します。
白米6合に加えて、仮定した副食もすべて食べた場合のビタミンB1は
 摂取量 0.94mg > 必要量下限 0.57mg
となり、足りることが分かりました。

【白米】
食品番号01088「水稲めし 精白米、うるち米」は調理法「炊き」で、重量変化率は210%
よって、1合の白米を炊くと
 150×2.1=315g

食品番号01088「水稲めし 精白米、うるち米」より
100gあたり
 カロリー 168kcal
 ビタミンB1 0.02mg
白米1合は約150g
6合あたりでは、6×3.15倍して
 カロリー 3175.2kcal
 ビタミンB1 0.378mg

【肉類】
食品番号11106「うし[加工品]味付け缶詰」より
100gあたり
 カロリー 156kcal
 ビタミンB1 0.33mg
40匁は約150g
40匁あたりでは、1.5倍して
 カロリー 234kcal
 ビタミンB1 0.495mg

【野菜類】
切干し大根をゆでてもどしたと仮定。
食品番号06334「切干しだいこん ゆで」より100gあたり
 カロリー 13kcal
 ビタミンB1 0.01mg
30匁は約3.75×30=112.5g
ゆでによる重量変化率は560%なので
 112.5×5.6=630g
630gあたりでは、
 カロリー 81.9kcal
 ビタミンB1 0.063mg

【漬物類】
食品番号06143「福神漬」より
100gあたり
 カロリー 137kcal
 ビタミンB1 0.02mg
10匁は約3.75×10=37.5g
37.5gあたり
 カロリー 51.375kcal
 ビタミンB1 0.0075mg

【白米、肉、野菜、漬物をすべて食べた場合】
カロリー
3175.2+234+81.9+51.375=3542.475kcal
ビタミンB1
0.378+0.495+0.063+0.0075=0.9435mg

このカロリーでのビタミンB1の必要量下限は
3542.475÷1000×0.16=0.566796mg
摂取量が必要量下限を上回る。

⬛付録【参考】白米4合、麦2合の麦飯でビタミンB1は足りるのか?

陸軍が日露戦争の途中で取り入れた麦飯は、白米4合、麦2合の割合であった。
副食なしで白米4合、麦2合を食べた場合、ビタミンB1の摂取量が必要量下限に届くのか計算してみたかった。しかし、「挽割麦」が食品成分表に載っていない。近いもので、「押麦」の栄養価を用いたが、「押麦」のビタミンB1が意外と低く、おそらくは当時よりも精麦の度合いが高くて栄養価が低い可能性があります。現代では麦飯による脚気対策効果があまりないということを確認しただけになってしまいました。

【計算結果】
先に結論を示します。
 摂取量 0.39mg < 必要量下限 0.44mg
となり、ビタミンB1の摂取量が足りず、脚気になると考えられる。

【計算の前提】
1合を、白米は150g、押し麦は120gとして計算する。

【麦 2合】
食品番号01170「おおむぎ 押麦 めし」より
100gあたり
 カロリー 118kcal
 ビタミンB1 0.02mg
重量変化率は280%なので
2合だと、2×1.2×2.8倍して
 カロリー 792.96kcal
 ビタミンB1 0.1344mg

【白米 4合】
食品番号01088「こめ [水稲めし] 精白米 うるち米」より
100gあたり
 カロリー 156kcal
 ビタミンB1 0.02mg
重量変化率は210%なので
4合だと、4×1.5×2.1倍して
 カロリー 1965.6kcal
 ビタミンB1 0.252mg

【白米4合、麦2合】だと
カロリー
 792.96+1965.6=2758.56kcal
ビタミンB1
 0.1344+0.252=0.3864mg
このカロリーに対するビタミンB1必要量下限は
 2758.56×0.16÷1000=0.4413696
よって、ビタミンB1摂取量が必要量下限を下回り、足りていない。

【他の混合の割合の場合】
計算過程は省略する。

麦3合 1189.44kcal  0.2016mg
米3合 1474.2cal   0.189mg
合計  2663.64kcal  0.3906mg
必要量下限 0.4261824mg
摂取量が下回る。

麦4合 1585.92kcal  0.2688mg
米2合  982.8kcal  0.126mg
合計  2568.72kcal  0.3948mg
必要量下限 0.4109952mg
摂取量が下回る

麦5合 1982.4kcal  0.336mg
米1合  491.4kcal  0.063mg
合計  2473.8kcal  0.399mg  
必要量下限 0.395808mg
摂取量とほぼ等しい。
ただ、ここまで麦を増やすと今度はカロリーの少なさが懸念される。白米6合の約3175kcal にくらべると約500kcal も減っている。

⬛変更歴

2022/6/6 以降で大きな変更のみを記録

2023/2/16 誤った記載を削除しました。日清と日露をまとめて言うのは誤っています。
章「⬛なぜ世間は日清戦争、日露戦争に着目するのか?」
削除箇所「日清戦争・日露戦争において陸軍では戦死者よりも脚気死者の方が多かった。」

2023/01/17、18 『■日露戦争での麦飯供給遅れの謎』を追加

2022/06/26 『鴎外最大の悲劇』に関する章を加筆

2022/06/11 付録を新たに追加
 ⬛付録 森鴎外が征露丸を脚気対策として配らせたのか?

2022/06/10 以下の章に参謀本部編纂資料より日清戦争での兵食の給与計画について追加しました。
  ⬛日清戦争時の陸軍兵食

2022/6/7 新章追加
 ⬛日露戦争中の内地の主食は何か?

2022/6/6 規定通りの兵食でビタミンB1が足りるか計算した章を付録へ移動。現代の栄養価での計算なので内容の価値が低いため。この件に関連してコメントをくれた方ありがとうございます。