10分で読める 森鴎外『杯』現代口語化版、注釈付き
明治43年に発表された短編小説『杯』を読みやすく現代口語化しました。古い文体が苦手、森鴎外苦手と思って避けている人がいたらぜひお試しください。
内容は、たんに少女たちが泉で水を飲むだけの話です。ですが、他者に迎合せず自分をつらぬけとのメッセージ性が感じられる寓話のようなお話となっています。
現代口語化の方針
(1)現代の日本語としてできるだけ自然な日本語となるように書き換える。意味が分かりにくい場合には、言葉の順序を変えたり、文を分けたり、言葉を足したり、言葉を置き換えたりもする。
(2)「てよだわ言葉」を用いた女性のセリフは、おさえめに書き直す。
(3)原文の時代感は残したいので以下とする
・難しくない古い表記は残す
・カタカナ語はそのままとする
・古いカタカナ表記もそのままとする
本文
温泉宿から鼓ヶ滝へ登って行く途中に、清く澄んだ泉が湧き出ている。
水は井桁の上で凸面のように盛り上がり、余りは四方へ流れ落ちている。
青い美しい苔が井桁の外を覆っている。
夏の朝である。
泉を取り巻く木々の梢には、今まで立ち込こめていた靄が、まだ、ちぎれちぎれになって残っている。
はかりしれない数の玉が転がるかのような音をさせ、谷川が流れている。その川に沿った小道を温泉宿の方から数人登って来るらしい。
賑やかに話しながら近づいてくる。
小鳥が群がってさえずるような声である。
みな、子供に違いない。女の子に違いない。
「早くいらっしゃい。いつでもあなたは遅れるのね。早く」
「お待ちになって。石がごろごろしていて歩きにくいんですもの」
娘たちは、前後を入れ替わりながら歩いてくる。洗い髪を結ぶリボンは、どれも同じように真っ赤で幅広く、ひらひらと蝶が群れて飛んでいるように見える。
藍色がかったお揃いの浴衣の袖がひるがえる。足に履いている赤い鼻緒の草履も、また、お揃いである。
「わたし、一番」
「あら、ずるいわ」
先を争って泉のそばに寄る七人。
みな、年は十一、二くらいに見える。姉妹にしては、あまりに粒が揃っている。みな美しく、ややなまめかしい。友達であろう。
この七つの珊瑚の珠を貫く紐は何なのか。誰が温泉宿に連れてきているのだろうか。
朝日の光は、漂う白い雲の間を抜け、木々の梢の間を抜けて、荒い縞のように泉の畔に差し込む。
真赤なリボンのいくつかが燃える。
娘の一人は、口にふくんだ丹波ほおずきを膨らませて取り出し、泉の真ん中に投げた。
凸面のように盛り上がった水の上に投げた。
ほうずきは二三度くるくると回って、井桁の外へ流れ落ちた。
「あら。すぐに落っこってしまうのね。わたし、どうなるかと思って、楽みにしてやってみたのに」
「そりゃ、落っこちるわよ」
「落っこちると分かっていらして?」
「分かってるわ」
「うそばっかし」
ぶつ真似をする。藍染の浴衣の袖がひるがえる。
「早く飲みましょう」
「そうそう。飲みに来たんだわ」
「忘れていた」
「ええ」
「まあ、いやだ」
それぞれが懐を探って杯を取り出した。
青白い光が七本の手から流れる。
みな、銀の杯である。大きな銀の杯である。
日がちょうどいっぱいに差してきて、七つの杯はますます輝く。七本の銀色の光線が伸び、蛇のごとく泉をめぐって走る。
銀の杯は、お揃いで、どれにも二字の銘があった。
それは「自然」の二字である。
妙な字体で書いてあった。何か、よりどころがあって書いたものか。それとも独創の文字か。
かわるがわる泉を汲んで飲む。
濃い紅の唇を尖らせ、桃色の頬を膨らませて飲む。
木立のところどころで、じいじいという声がする。蝉が鳴き始めている。
白い雲が散り、日盛りになったら、山をゆするような鳴き声になるであろう。
この時たった一人で坂道を登ってきて、七人の娘の背後に立った娘がいる。
第八の娘である。
背は七人の娘より高い。十四、五になっているのであろう。
黄金色の髪を黒いリボンで結んでいる。
琥珀のような顔から、サントオレアの花のような青い目が覗いている。永遠の驚きをもって自然を覗いている。
唇だけがほのかに赤い。
黒で縁取ったねずみ色の洋服を着ている。
東洋で生れた西洋人の子か。それとも合いの子か。
第八の娘は裳のかくしから杯を取り出した。
小さい杯である。
どこの陶器か。火の穴から流れ出た溶岩が冷めたような色をしている。
七人の娘は飲み終えていた。杯をつけたあとのコンサントリックな輪が泉の面から消えた。
凸面のように盛り上がった泉の面から消えた。
第八の娘は、藍染の浴衣の袖と袖との間をわけて、井桁のわきに進み寄った。
七人の娘は、この時はじめて、平和の破壊者がいることを知った。
そして、その琥珀色の手に持っている、黒ずんだ小さな杯を見た。
思いがけない事であった。
七つの濃い紅の唇は開いたままで言葉がない。
蝉は、じいじいと鳴いている。
しばらくの間、ただ蝉の声がするだけであった。
一人の娘がようやくこう言った。
「お前さんも飲むの」
その声は訝りに少しの怒りを帯びていた。
第八の娘は黙って頷いた。
今一人の娘がこう言った。
「お前さんの杯は妙な杯ね。ちょっと拝見」
その声は訝りに少しの侮りを帯びていた。
第八の娘は黙って、その溶岩の色をした杯を差し出した。
小さな杯は、琥珀色の手の腱ばかりからできているような指を離れて、薄紅のむっくりした一つの手から他の手に渡った。
「まあ、変にくすんだ色だこと」
「これでも瀬戸物でしょうか」
「石ではないの」
「火事場の灰の中から拾ってきたものみたい」
「墓の中から掘り出したようだわ」
「墓の中は良いわね」
七つの喉から銀の鈴を振るような笑い声がした。
第八の娘は両ひじを自然の重みで垂れて、サントオレアの花のような目はただじっと空を見ている。
また、一人の娘がこう言った。
「ばかに小さいのね」
今一人が言った。
「そうね。こんな物では飲めやしないわ」
今一人が言った。
「あたいのを貸そうかしら」
哀れみの声である。
そして「自然」の銘がある輝く銀の大きな杯を、第八の娘の前に差し出した。
第八の娘は、今まで結んでいた唇を、この時はじめて開いた。
“MON VERRE N'EST PAS GRAND MAIS JE BOIS DANS MON VERRE”
沈んだ、しかも鋭い声であった。
「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしは、わたくしの杯でいただきます」と言ったのである。
七人の娘は、可愛らしい黒い瞳で顔を見合わせた。
言葉が分からないのである。
第八の娘の両ひじは自然の重みで垂れている。
言葉は分からなくても構わない。
第八の娘の態度が第八の娘の意志を表していて、誤解の余地はない。
一人の娘は銀の杯を引っ込めた。
「自然」の銘がある輝く銀の大きな杯を引っ込めた。
今一人の娘は黒い杯を返した。
火の穴から湧き出た溶岩が冷めたような色をした黒ずんだ小さな杯を返した。
第八の娘は静かに数滴の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した。
原文情報
この現代口語化版には、どうしても独自解釈が含まれ、また、分かりやすさのため失なわれた部分があります。作品が本来持つ面白さは、原文にてお楽しみください。
本作品の原文は著作権切れしており、青空文庫にて無償公開されています。
青空文庫で公開されている本作品へのリンクはこちら↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card688.html