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Deliciousuness おいしい知覚

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2016年に書いたものを定期的に少しづつアップしていきます。この論の目的は、これまで学んできたことを生態学の知見のもとに相対化し、設計に関わる環境の中に知覚される対象として再配置…
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2020年5月の記事一覧

おいしい創作 補足

■『建築に内在する言葉』 関連:坂本一成 『当然のことながら、人の生活が始まったその場と、竣工時からの状態とのあいだに、そこに現象する空間の質の違いを感じた。そこでは私が計画して建てた空間は消失し、別の空間が現象している。[…]人が住むそのことが、生活を始めるそのことが、別の空間を現象させることを意味する。すなわち、住むこと(住むという行為である生活)はひとつの空間をつくることになると言ってよい。[…]<住むこと> と< 建てること>(ハイデッガー)が分離してしまった現在にお

おいしいまとまり ~認識と全体へ向かう力

まとまりとはなんだろうか。 まとまりは認識に似ている。認識は人との共有可能性を持ち、自己と周囲との接触を維持する能力である。 まとまりによって環境のさまざまな情報がひとまとまりに直接的に知覚される。まとまりの知覚は例えば「あの感じ」というように他者と(三項関係の相互行為として)共有できる可能性があるし、まとまりを自己の中で共有もしくは定位することは、知覚に持続性を与えることになる。 そして、まとまりの知覚は断片的なものの情報の配置によってもたらされる。 また、知覚は絶

おいしいまとまり 補足

■『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』 199(翻訳2000)エドワード・S. リード 先にあげたようにリードは相互行為による環境との切り結びの観点から認識を捉えた。認識について再度まとめてみる。 人間は集団の中に入ることで薪を集めたり食べ物を探したりと言った具体的課題に含まれる一連の活動の方略とその適正さについて考えられるようになる。 それはすなわち<認識>を共有できるようになるということである。 <認識>は人-認識-人の三項関係の相互行為とも考えられる。 それは生

おいしいはたらき ~知覚と行為の循環

環境との関り合いは知覚と行為の絶え間ない循環であり、そこにはたらきがある。 個人の中に知覚と行為のはたらきがあり、また、集団としての社会的・文化的・歴史的はたらきがある。そのはたらきのことを「生きている」と言ったりする。 では、はたらきに関して<何を>の文脈で何が言えるだろうか。言い換えると、はたらきの可視化はどのようにできるだろうか。 これまで書いてきたような知覚への働きかけはそこにいる人のはたらきを促進するだろう。しかし、それは可視化と言うには少し物足りない。 そ

おいしいはたらき 補足

■『応答 漂うモダニズム』2015 辻琢磨 他 『一言でいうとすれば、私は建築を流動状態として捉えている。[…]「物が動く」流動の途中として建築概念を捉え直すと、新築も解体も改修も減築もすべて同じ建築行為として並列化される。』(辻琢磨)建築を流動状態として捉えるとははたらきの中に建築を見出すということだろう。氏らの活動ははたらきの実践であり「生きている」ことの実践的表現であるように思われる。 ■ 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』2002 檜垣 立哉 『個体とは、揺らぎで

おいしい距離感 ~建築の自立性と自律性

建築を知覚の対象として考えた時、建築はあくまで環境である、というあり方、すなわち、建築の自立性が重要となる。 人の知覚が働くためには、人が能動的である必要があるが、そのためには、建築は私の内面に回収されないように、一定の距離を持った存在でなければならない。いうなれば建築が私と並列の関係としてあるように自立している必要がある。 建築が私から自立していることは一歩間違えば「不便さ」といたネガティブな意味になりかねない。しかし、前に述べたように、その距離によって起こりうる予測誤

おいしい距離感 補足

■『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』 2013 河野哲也 他 『彼(リード)が現代社会における間接経験の過剰を嘆いたのは、他社によって制限された情報をただ受け取る受動的な間接経験に慣らされることで、人は、能動的に情報を探索する習慣や能力を容易く失ってしまうからだ。以上の議論を、先ほどの倫理的行為の分析に応用するならば、単なる共感に終わる人と、実際に身体が動く人の差異は、行動への能動的な構えの有無による事になる。』(柳澤田実) 『私は不便であることは大変重要だ

おいしい地形 ~原っぱから洞窟へ

青木淳氏の「原っぱと遊園地」で建築を環境との関り合いへと開くこと(原っぱ)と自立性のための方法論(決定のルール)が謳われており、今思えば生態学的な視点をつかむターニングポイントともなった本である。 「原っぱ」では環境の意味合いが薄いように思ったので「洞窟」という言葉に置き換えていたのだが、その違いは際立った地形の有無である。 原っぱにおいては地形性は決定のルールによって補われていたように思うが、地形の特質とはなんだろうか。 一つは私と適切な距離を保ち関り合いができること

おいしい地形 補足

■『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』2004 青木淳 『ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。』 『普通には「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるよ

How どう/技術

どうつくればよいのか。 その目的あるいは目標は、おいしい建築すなわち「それによっておいしい知覚が可能となるもの」である。 しかし、「おいしい知覚をつくること」とは少し違うように思う。 何が違うか考えてみたい。 目指すところは建築設計における生態学的転回である。 はたらきとしての設計生態学的な設計とは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、それを利用して調整することの循環による、自律的なはたらきのことである。 ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に

How どう/技術 補足

■『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』2013 村田純一 他 『私は、自己決定や意思決定と呼ばれるものには、二種類のものがあるのではないかと考えている。一つ目は、行為を行う「前」に、どのような行為を行うかについての予測を立て、その予定に沿った形で自己監視しながら行為を遂行するというものである。これを、「予定的自己決定」と呼ぶことにしよう。リハビリをしていたころの一挙手一投足は、予定的自己決定だったと言えるだろう。 二つ目は、さまざまな他者や、モノや、自己身体

終わりに 棲み家

ここまで書いてきて改めて思うのは、学生の頃に考え始めた「棲み家」という言葉をずっと追い求めていた、ということである。 その後考え続けることで建築に対する考えはどんどん拡散していったが、今回の試みで何とか一本の幹のもとにレイアウトすることが出来た気がする。 しかし、その多くは自ら実践できているとは言いがたい。これからは実践的態度の実践に力を注いでいきたい。 棲み家 2002 オノケンブログ学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉