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[過去原稿アーカイヴ]Vol.1 セックス・ピストルズ来日公演評(1996年10月〜11月)

 これから順次、過去に雑誌や新聞、ライナーノーツなどに寄せた原稿をアップしていきます。原稿データが残っている90年代半ば以降のものが対象になります。明らかな事実誤認やミスタイプ、勘違い等以外はすべて当時のままの転載です。

 まずは1996年の秋に初来日した再結成セックス・ピストルズのライヴ評から。ロック・バンドのバンドの再結成ビジネスがごく当たり前になった今となってはそこに否定的なニュアンスはほとんどありませんが、当時は決まって「金儲け目当て」という批判が起こり、アーティストたちは常に言い訳を用意しているような時代でした。ピストルズは当時の記者会見で「俺達には共通の目的ができた、それは金だ!」という言葉を残しています。掲載は「ミュージックライフ」誌。

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(1996年10月28日 川崎クラブチッタ)
 もとよりそこには何もないことはわかっていた。ただ会場に向かうまでは、もしかして、とんでもなく面白いものが見られるのではないかというほのかな期待が、多少なりともあったのだ。

 クラブチッタ川崎は満員の盛況、観客の年齢層は予想通りかなり広い。とはいえ、その雰囲気にどこか醒めたものを感じたのは、ぼくひとりだろうか。20年以上も伝説でありつづけた偉大なロックンロール・バンドがオリジナル・メンバーでやってきた、その記念すべき日だというのに,期待に満ちた熱気など、どこにも感じられない。未体験の若い世代によるお祭り騒ぎ的な喧騒もなく、いたって静かなもの。すでに十分わかっているものを、自分の目と耳で確認するためにここまで来た、という印象。それがもう蜜ではなく単なる灰に過ぎないことは、だれでも知っている。ただ、その灰の味がどんなものであるのか確かめたくなってしまうのが、ぼくたちの救いのないところである。

 で、肝心の演奏なのだが、実に整然としたものであった。先日出たライヴ盤とまったく同じである。演奏も、曲順も、全部同じ。おそらく世界中どこでも寸分たがわぬコンサートをやっているのだろう。それが悪いというつもりはない。プロのミュージシャンが、プロに徹すれば徹するほど、そうなるのは仕方のないことだ。プロはその日のコンディションや成り行きで演奏の出来に上下があってはならないのだから。演奏のムラを最小限に抑えるためにも、なるべく同じアレンジやメニューで日々のコンサートを消化していくのは、ある意味では理に適っているのである。しかも、いかにもルーティン・ワークをいやいやこなしている的な投げやりな態度も、少なくとも表面上はまるで見えない。ロットンは小刻みに身体を揺すりながら、堂々と歌っているし、演奏陣もソツなくこなしている。とくにロットン。愛想はないが、堂に入ったエンタテイナーぶりで、皮肉でなく感心した。彼特有の斜に構えたシニカルさとかトゲトゲした攻撃性みたいなものがほとんど感じられないのだ。観客の方もそんな彼らをすんなりと受け入れているように見える。ごくふつうのお約束のロック・コンサートのノリなのだ。一通り暴れて汗をかけば、あとはきれいさっぱりと忘れてしまうような。思えば十数年前にPILで来たときは、アーティストも観客ももう少しピリピリしたものがあったような気がするが、確実に時間は流れているということなのだろう。

 よくできたロックンロール・ショウ。一言で評価すれば、そういうことになる。演奏は手堅いし、観客の求めるものは100%提供している。需要と供給が見事にバランスしているのだ。いまさら彼らにパンクを期待する者など誰もいないだろうし、音楽以上、よくできたロックンロール以外のものを求める人もいないだろう。昔のヒット曲をいい状態で聞ければ十分。そういう意味で、彼らは期待されたものに確実に100%応えている。決して200%にはならないが、50% にも落ちることがないのがプロのプロたる所以である。

 しかし、そこには感動がなかった。やる曲やる曲全部、かって浴びるように聴き倒した、いわば自分の血肉を分けたような曲であったはずなのに、こんなにも何にも感じないコンサートも珍しかった。出てくる音はそれなりに完成されたロックンロールであっても、演奏する彼らの目には精気というものがなかった。ぼくをこの仕事に導くきっかけとなった彼らの演奏には、そのとき何のチカラも未来も希望も感じられなかった。もうぼくも含めた多くのファンは、かってと同じような気持ちで『勝手にしやがれ』を聴くことはできないし、もとよりそこから、音楽を越えた物語を感じ取ることも、語ることもできそうにない。DJをやっていても、ピストルズの曲をかけることはできなくなってしまった。これは少なくともひとつの批評だし、自分たちにまつわる幻想を破壊したいという彼らの目的は、完璧に達成されたわけだ。だがそれにしても、この灰の味はあまりに空虚だった。

(1996年11月4日 日本武道館)
 東京周辺だけでなんと7回のライヴ。有り難みも出し惜しみも何もない。ほんとに彼らはピストルズを終わりにさせようとしているのだと実感する。

 武道館での彼らも、クラブ・チッタでの彼らと何ら変わりはなかった。むしろ椅子のあるアリーナという場所柄、なお一層今回の再結成の本質が浮き彫りにされたように思う。

 再結成について「ピストルズに音楽的な発展性が欠如していたのは、音楽への愛情がなかったからだ。愛情をもっているなら、当時の完コピでの金儲け再結成などするはずがない」という意味の文を読んだ。だが彼らは、金儲けが目的の再結成なら、当時の完コピの方が需要に応えていると判断しただけだ。その方が客が喜ぶから、客の気が済むと思ったから、そうしているのである。そこに音楽的な発展性や創造性を求めるのは筋違いというものだし、まして彼らに音楽への愛情があるかないかという話とは、まったく関係がない。いやむしろ、彼らは守りたい何か、侵されたくない大切なものをいつまでも保持しておくために、あえてピストルズを犠牲にしたのだとも思える。この機会に、彼らはまとわりつく伝説や幻想の類を完全に葬り去り、自由になろうとしているのだ。そのために彼らは、客の望むセックス・ピストルズを、あえて完璧に演じてみせた。客の気が済むように。そこで、余韻を残すような、次を期待させるようなことをやるわけにはいかなかった。これが正真正銘の最後なのだから。

 彼らは、自分たちをふつうのロックンロール・バンドとして見てもらいたい、という思いに常に駆られていたような気がしてならない。ピストルズの音楽は、タネを明かしてしまえば、ただの音楽であり、ただのロックンロールであり、今となってはただの伝統芸能である。彼らの伝記を読むとわかるが、ピストルズの出発点は、ごくありきたりのロックンロール・バンドだった。だがジョニー・ロットンとマルコム・マクラレンという希代のトリックスターによって化学変化がおこり、音楽以上、ロックンロール以上の何物かになってしまった。ピストルズが語られるとき、音楽そのものについてうんぬんされることはほとんどない。それは「音楽的な発展性がなかった」からではない。音楽以外の幻想や神話や物語や伝説が膨れ上がりすぎたからだ。バンドを解散して20年近く、彼らはその幻想にがんじがらめに支配されて、身動きがとれなくなっていた。そもそもフェイシズのようになりたかった彼らは、ひとつ違っていれば、ドクター・フィールグッドやラモーンズのようなバンドになっていたかもしれない。今回の再結成ライヴは、そういう彼らの真の姿が、浮き彫りされただけなのだろう。本誌宮崎女史が今さらのように「彼らの曲の良さがわかった」と漏らしていたのも、結成以来20年にして初めてピストルズがまっとうなミュージシャンとして評価された、ということなのかもしれない。

 でもまあ、これは精一杯彼らに好意的な見方である。決まりきった様式美を飽きもせず繰り返す伝統芸能的なものを、ぼくは嫌いではない。だがピストルズの様式美には、ついぞ心が動かなかった。それはぼくが現在紋切り型のロックンロールに飽き飽きしているという事情以上に、どこかでパンクなピストルズを期待してしまう自分、セックス・ピストルズという幻想にいつまでも縛られている自分がいるからなのだとも思う。きっとこれは一生拭えないだろうな。

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