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[過去原稿アーカイヴ]Vol.5 ビョーク(1996年)

 音楽之友社から出たムック本に寄稿した記事。ムック本の名前は失念した。私にとってのビョークの魅力は、25年以上前に書いたこの原稿で言い尽くされている。1996年執筆。

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https://note.com/onojima/m/m1f1bcef5c6a3

 96年の春ごろだったか、ぼくは「世界の衝撃映像大特集」とか、そんな類のテレビ番組を見ていた。交通事故や天変地異の大災害の映像が次々と流れるのをぼんやりと眺めていたら、いきなりビョークが出てきた。

 空港らしき場所を子供の手を引きながら急ぐビョーク。テレビのレポーターのような女性が近寄り一言ふた言、話しかける。するといきなりビョークはその女性に襲いかかり、引き倒したうえ馬乗りになって髪の毛を掴みめちゃくちゃに殴りつけたのである。殴られた女性も驚いたろうが、周りの人間もあまりのことにしばし呆然として、慌ててビョークをはがい締めにして女性から引き離す。しかしビョークの怒りはおさまらず、ものすごい形相で大暴れを続けたのである。

 なんでも96年初頭の来日のあとバンコクに向かったビョークは空港で5分間のインタヴューを申し込まれていたが、彼女の機嫌が非常に悪く直前になってマネジメント側がキャンセルしていたらしい。ところがレポーターはキャンセルになったのを知らずビョークに話しかけてしまい、大暴れになったという。なんでも同行していた9歳の息子をマスコミの目に晒したくないという思いがこんな行動に走らせたということのようだ。

 ぼくはその直前の来日時、ビョークに取材している。実に穏やかで礼儀正しい、そして知的でチャーミングな女性だった。そのときの印象と、テレビ映像での彼女の暴れっぷりとがうまく結びつかない。気に入った者、自分を心地よくさせてくれる者には無類の優しさを見せるが、自分に危害を与える者には敵意を剥き出しにして威嚇する。これではまるで野獣である。動物の母親が子供を守るために巨大な敵に遮二無二噛みついていくような、そんな印象さえ受けた。そして、彼女の存在、彼女の生理、そして彼女の音楽、彼女の表現は、まさにそうした皮膚感覚によって成り立っている。

 しかし、彼女が依って立つ場所はそこだけではない。そうした彼女の野性を支えるものは、鋭利に研ぎ澄まされた知性である。

 彼女はレコーディング・メンバーやリミキサーの選択、サウンド・プロダクツのディテールやヴィデオの内容、ジャケット・デザインなどのヴィジュアル・ワーク、はてはマーチャンダイスのTシャツのデザインに至るまで、完璧に自身でコントロールしている。自分に関することはすべて私が決める。ハンパな妥協は絶対にしない。彼女ははっきりとそう言い切っていた。実際に会話したビョークは事前の予想をはるかに超えて聡明であり理知的であり博学であり、かつ勉強家だった。

 たとえば、彼女は故郷であるアイスランドについて、次のように語っている。「アイスランドは1944年までオランダの領土だった。私たちはとても貧しかった。中世の世界のような神話を信じて生き、テクノロジーなんてまったく無縁だった。それからものすごいペースで近代化が進んだ。私の祖父母は泥で出来た家に住んでいた。でもその後の100 年でアイスランドは700 年分発展してしまった。だから、私たちの社会ではとても精神分裂的な状況が見られるの。たとえば、BMWでドライヴしていて、車はとてもハイ・テクで近代的なんだけど、その道は奥深い山の中をそのまま走っている。山をつぶすことが出来ないのは妖精たちが住んでいるからなのよ。テクノロジーと神話が共存している世界ね」。

 お気づきだろうが、この知的な分析はそのままビョーク自身、ビョークの音楽そのものについても当てはまるのだ。知性に裏打ちされた野性。あるいは、知識や技術を瞬時に無効化するプリミティヴな衝動。西欧的なものと非西欧的なもの。新しいものと古いもの。性的なものと無垢な純粋さ。ありとあらゆる相反するもの。そのすべてが共存し、お互いがお互いの世界を殺すことなく、むしろ補完しあって、それまでに経験したことのない新しい世界を作っている。同じアルバムにトリッキーとデオダートとネリー・フーパーが並んでクレジットされてまるで違和感を感じさせないのだからすごい。

 彼女のシングルをリミックスした顔触れをみれば、彼女の音楽的パースペクティヴの広さが実感できる。最近のものだけでも、プレイド、テイ・トーワ、カーカス、フォテック、ダラス・オースティン、ハウイー・B、トッド・テリー、ブロドスキー・クアルテット、アンディ・ウエザオール、ゴールディ、デオダート、アンダーワールド……と、こっちの頭が混乱しそうなほど多彩。これらをすべて彼女自身の判断で選んでいるのだ。テイ・トーワやフォテックあたりならまだしも、デス・メタルのカーカスまで登場したのは正直言って驚いた。

 そしてこうした万華鏡のような音作りを最後の最後で制圧するのは、ビョークの声そのものであり、しなやかな肢体である。その声が、肉体があってこそ初めて成立する世界。周到に計算され構築された精緻なサウンドの上を、軽やかに跳ねまわるビョークの声。ライヴでの、まるで雲の上をスキップするような美しい仕種。ギターなし、ドラム/ベース/キーボード2台/アコーディオンというバンド構成からは、ありきたりのロックにしたくないという意欲がひしひしと伝わる。

 彼女の、“音”に対する貪欲なまでの冒険心と探究心がある限り、そして知識や知性に軽やかな足取りを絡めとられないかぎり、コンセプチュアルなサウンドスケープを構築する知性と、無礼なテレビ・レポーターに問答無用に殴りかかる野性が共存する限り、ビョークの時代は続くだろう。時代に応じて次々と新しい衣装をまといながら、深く深くアイスランドの伝統と民族の血をたぎらせるアンビバレンツなビョークの世界。それはワールド・ミュージックを超えた、21世紀のポップを予見している。

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