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[過去原稿アーカイヴ]Vol.3 ジミ・ヘンドリックス『Bleeding Heart』ライナーノーツ(1997年)

 ジミ・ヘンドリックスのライヴ盤『Bleeding Heart』のライナーノーツの転載である(今CD現物が手元になく、このタイトルだったかどうかはっきり覚えていない)。この音源はドアーズのジム・モリスンとジョニー・ウィンター、そしてジミが共演した貴重音源という触れ込みで70年代初頭からブートレグとして出回っていたもの。1997年に日本の某レコード会社から正規盤としてオファーを受けて書いたものだが、ライナー本文にもある通り、そもそもライセンスを受けた原盤からしてブートレグの可能性が高い。だが既に死んでしまったジミやジムのライナーを書く機会など今後あるかどうかわからないから、大喜びで引き受け、資料を丹念に調べて、それなりに気合いを入れて書いたのである。私の1番好きなアーティストは昔も今もドアーズだが、今のところ彼の関連作品で書いたライナーはこれだけだ。文中でリック・デリンジャー参加の可能性を指摘したが、よく聴くとリックの大ヒット曲「ロックンロール・フーチークー」(1973)の原型みたいなリフも聴ける。1997年執筆。

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 このアルバムはかって「Morrison Hendrix Winter Jam」というタイトルでブートレグとして出回ったもので、ぼくが初めて耳にしたのは70年代の初頭だったと思う。もちろんジミ・ヘンドリックス、ドアーズのジム・モリスンという夭折した2大天才ロッカーに、百万ドルのブルース・ギタリスト=ジョニー・ウィンターというお気に入りのアーティストの共演、この3者が集まってどんな音を出しているのか、接点はどのようなところにあるのか、多いに興味を惹かれたのだが、それ以上に、当時はまるで情報らしきものがなく、まさに不意打ちを食らった気分だったのだ。店頭で粗末なイラストのジャケットのLPを見たときには、思わず息が止まりそうになったことを、いまも生々しく覚えている。

 当時のぼくはジム・モリスン及びドアーズに対するエンシュージアスティックな愛情が最高潮に達していたころだった。たしか店はいまはなき新宿の「KINNIE」だったか。店員に「本当にこの3人が共演してるんですか?」など間抜けな質問を浴びせ掛け、勝手にひとりで興奮したものである。

 そのときはてっきり3人のミュージシャンが火花を散らして激突したものかと思っていたのだが、大枚叩いて購入したその内容は、みなさんがいま耳にしている通り。ジミ・ヘンドリックスを中心とした気軽なジャム・セッションに、酔っ払ったジム・モリスンが勝手に乱入して、歌とも言えぬウメキ声を垂れ流しているだけのもの。あくまでもジミが主役で、モリスンやウィンターは付け足しのようなモノである。「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」のバックで演奏などそっちのけ、マイクも持たずに(?)彼方でわめき続けるモリスンの様子に呆れ(モリスンが何をやっているのかアナウンスしようとして、あまりの醜態に絶句してしまうジミが笑える)、ブート購入後のお決まりの脱力感と、「まあモリスンらしくていいかな」というシブシブの納得で、なんとも複雑な気分だった。なんせ貧乏学生で万年金欠の身に、ブートレグはとんでもなく高価だった。無理やりにでも自分を納得させるしかなかったのだ。

 その後、ビダリア・プロダクションという会社経由で、米ナツメグというレーベルから「High,Live 'n Dirty」というタイトルで、多少構成を変えてオフィシャル発売され、日本盤も出たのには驚いた。あなたがいま手にしているこのCDはその「High,Live 'n Dirty」とまったく同じ内容で、イギリスのレッド・ライトニングというレーベルから80年に発売されたもの。CDは86年に発売されている。72年に、当時のジミのマネージャーであるマイク・ジェフリーの正式な承認を得た、まぎれもない正規盤であるとのこと。現在ジミの残された音源は遺族が管理しているはずだが、そのあたりの契約関係はよくわからない。録音そのものは、ジミ持参のテープレコーダーでおこなわれたらしいが、どう考えてもレコード化を前提として録音されたものではないだろう。

 さて、手元にある「Morrison Hendrix Winter Jam」には70年ニューヨークでの演奏というクレジットがある。当時は「おお、ジミの死ぬ直前の録音じゃないか」とヌカ喜びしたものだが、どうやらこれはまちがいだったようだ。本作のタイトル通り、68年、ニューヨークのクラブ「ザ・シーン」での録音が正解。正確には3月6日である(7日説もある)。

 ジミ・ファン必読の超詳細バイオグラフィ「エレクトリック・ジプシーズ」によると、モリスンはともかく(声を聞けば明らかだ)ウィンターに関しては当時まだテキサス在住で、このセッションには参加していないはずだと指摘されている。アルビノの天才ブルース・ギタリスト、ジョニー・ウィンターが「ローリング・ストーン」誌で紹介され、一躍注目されたのが68年。地元のインディから「The Progressive Blues Experiment」というファースト・アルバムが出たのも68年である。記事を見たシーン・クラブのオーナー、スティーヴ・ポールがテキサスに飛びウインターとマネージメント契約、「百万ドルのブルース・ギタリスト」としてCBSからメジャー・デビューさせたのは69年のことだ。はたしてこのセッションに参加しているのかどうか。実際にジミとセッションしたことがあるのはウィンター自身も認めているが、このセッションだったかどうかは不明である。ベーシストとしてクレジットされているランディ・ホブスとドラムスのランディ・Z(ゼリンジャー)は当時ザ・シーンのハウス・バンドだったマッコイズ(あの「ハング・オン・スルーピー」で有名な)のメンバーで、後にウィンターのバンドにメンバーとして参加している。だからもしウィンターの参加がガセならば、ジミのほかにもうひとり聞こえるギタリストは、マッコイズのギタリストだったリック・デリンジャーとするのが自然である。ただし、「エレクトリック・ジプシーズ」ではそこまで断定されていない。なおバディ・マイルズは後にジミとバンド・オブ・ジプシーズを組んだ、その人。

 ではジム・モリスンの状況はどうだったかというと、論議を呼んだシングル「ジ・アンノウン・ソルジャー」が、ちょうど録音中だったサード・アルバム「ウェイティング・フォー・ザ・サン」から先行カットされたのが68年3月のことである。「すべては終わる! 戦争は終わる!」というリフレインと、銃殺されるモリスンの映像が衝撃的だったプロモーション・フィルムが話題を呼んだこの曲は、もちろん当時のベトナム戦争やステューデント・パワー、ヒッピー・ムーヴメントといった時代背景を無視して語ることはできない。モリスン自身はベトナム戦争のことを歌ったのではないと否定しているのだが、いずれにしろ、ロック・アーティストが若者世代の代弁者として認識されはじめた時期であり、社会的な発言・行動をするのが当然(あるいは、ヒップ)と思われていたのである。きわめて内面的・個人的な想念の世界を歌っていたモリスンにも、そうした周囲の思惑が押し寄せていた。なにより前2枚のアルバムが爆発的な成功をおさめ、ドアーズはビートルズやストーンズに対抗するアメリカきってのロック・バンドとして期待されはじめていたし、モリスン自身もそんな中でカリスマ的ポップ/アイドル・スターとして爆発的な人気者となりつつあったのである。本来モリスンらが描こうとした世界と、そうした周囲の動向とは明らかなズレがあり、それがモリスンを追いつめてもいた。レコーディングのプレッシャーもあり、モリスンのアルコール摂取量は加速度的に増え、その行動は次第に常軌を逸していったようだ。本作のセッションは、まさにそういう時期に行なわれたのである。

 さて、肝心の主人公であるジミ・ヘンドリックスの当時の動向である。

 アルバム「アー・ユー・エクスペリエンスド」は2百万枚を超えるヒットとなり、続く「アクシス:ボールド・アズ・ラヴ」も発売と同時にトップ10に入るヒットとなった。ほんの2年前まではさまざまなR&Bシンガーのサイドメンとしてドサ回りをしていた売れないギタリストだったこの男は、当時では想像もできないような富と名声と成功を得た。あまりに急激な突出ぶりは、あちこちに歪みを生んだ。ジミの回りには彼の成功のおこぼれにあずかろうとする蝿のような連中が群がり、ジミの生き血をすすろうとしていた。

 ジミはそんな状況下でも創作意欲を失うことはなかった。彼は「アクシス」に続く新作を、これまで以上に大胆で野心的な実験作にすべく構想を練っていた。新作「エレクトリック・レディランド」は68年4月から8月にかけてニューヨークのレコード・プラント・スタジオで録音されているが、彼はその際、じっくりと長い時間をかけて納得のいくものにすることと同時に、エクスペリエンスのメンバーにとらわれずさまざまな外部ミュージシャンとのセッションで作り上げていくことを考えていた。ジミは68年2月から2度目の全米ツアーに出発するが、その合間を縫って各地のクラブに出入りして、さまざまなミュージシャンとセッションを繰り返し、そこで得られたアイディアをレコーディングに活かすというやり方をとっていた。

 本作の舞台となったザ・シーンはレコード・プラント・スタジオからほんの1ブロックの場所にあるという。ザ・シーンが夜はやい時間に閉店になると、そこは即席のスタジオとなりミュージシャンたちが集い、運のいい常連客を前にフリーなジャムを繰り返していたらしい。本作でのセッションは、まさにそういう状況でおこなわれたのである。なお「エレクトリック・レディランド」のどこかにモリスンが参加しているという噂もあるようだが、これはどうやらガセネタ臭い。

 ジミはジム・モリスンのひとつ年上。まあ同い歳と言っていいだろう。そのふたりがザ・シーンで邂逅したときのことを、ドアーズのスタッフのひとりはこう回想している。「ジムはとにかく、ぐでんぐでんだった。ヘンドリックスがジャムをやってると、前の方でざわざわするんだ。見ると、ジムが床を這うようにしてステージに近づいていくじゃないか。両腕をヘンドリックスの脛に巻き付けるなり、彼は叫んだ。「お前のチンポコを舐めてやりてえ」。大声でそう叫んだんだが、ヘンドリックスはまだプレイを続けてる。なのにモリスンは放そうとしない。まったく目の玉が飛び出そうな見世物だったよ——モリスンがいかにも好きそうなことだ」(「ジム・モリスン ロックの伝説」より)。なんでもこの時客席にはジャニス・ジョプリンもいて、かねてからモリスンの泥酔の末の乱行に腹を立てていたジャニスはウィスキーのボトルでモリスンを殴り付け、それをきっかけに3人で乱闘が始まり、挙げ句は3人とも店の外に放り出されたという。

 モリスン・フリークとしては微苦笑するしかないエピソードである。後半部などちょっと眉つばだし、どうやら本作のセッション時とはちがうときの話のようだが、いずれにしろただうめき、叫び、4文字言葉を口走り、ステージの上を転げまわるだけだったというこの日のモリスンと、新しい音とアイディアを模索していたジミの出会いは、音を聴く限り、残念ながらほとんど創造的な成果を生んでいない。泥酔の挙げ句卑猥な言葉を吐き続けるモリスンに観客も呆れた。それ以前、ジミとモリスンの音楽的接点はほとんどなかったはず。お互いに敬意は払っていただろうが、少なくともこの日のセッションは、モリスンにとっては単なるストレス解消以上の意味はないだろう。ここでのモリスンのふるまいはただの酔っ払いであり、とてもドアーズという現役屈指の人気グループのトップ・アーティストにふさわしいとは言えない。

 ではジミの方はどうか。これは少し微妙だ。生真面目で周囲への気配りを忘れない心優しい性格だったというジミは、酒の上の大暴れとはいえ傍若無人に好き放題にふるまうモリスンを見て、馬鹿な奴と思ってはいても、内心うらやましく感じていたかもしれない。実際、この日のモリスンの振る舞いに迷惑がるどころか大喜びしていたという話もあるのだ。もちろん音楽的にジミがモリスンやドアーズから何らかの触発を受けたとは考えられないが、その3年後にはふたりともこの世から消え失せてしまうことを思えば、なにやら因縁めいたものを感じずにはいられない。

 ジャニス、ヘンドリックスと相次いで不慮の死を遂げたあと、モリスンは「次は俺の番だ」と言い放ち、その言葉通りにパリで客死した。そして彼らの退場とともに60年代は終わり、70年代が始まるのである。

1997年11月18日
 小野島 大

参考文献
●「エレクトリック・ジプシーズ」ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク著 岡田徹訳 大栄出版刊
●「天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実」ジョン・マクダーモット&エディ・クレイマー著 相川紀太郎訳 シンコーミュージック刊
●「ジム・モリスン ロックの伝説」ジェームス・リオダン&ジェリー・プロクニッキー著 安岡真・富永和子訳 東京書籍刊
●「ザ・ドアーズ 永遠の輪廻」野沢収著 音楽之友社刊
●「ジム・モリスン 知覚の扉の彼方へ」ジェリー・ホプキンス&ダニエル・シュガーマン著 野間けい子訳 シンコーミュージック刊
●「レコード・コレクターズ」誌 87年8月号ほか多数。


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