仲野茂(アナーキー)インタビュー 「歳とってだた衰えていくだけだったら死んだほうがましだ。歳とってどんどんパワーアップしなきゃ生きている意味がねえ」

映画『GOLDFISH』でも注目を集めるアナーキー(現・亜無亜危異)のヴォーカリスト、仲野茂のインタビューである。2006年に集大成ボックスセット『内祝』がリリースされた時のもので、アナーキーの歴史を順を追って訊く内容となっている。掲載は『DOLL』誌である。

 今も昔も変わらぬ、仲野の率直でストレートな話しぶりが痛快かつ抜群に面白い。仲野には何度か取材しているが、どんな質問もまっすぐ受け止めて本音で話す、その姿勢はずっと変わらない。また発言の内容も非常に貴重なものだ。当時はまだ逸見泰成(マリ)が存命中だったが、彼に対する率直な、だが愛情溢れる物言いも感慨深い。 

 もちろん17年も前の発言であり、現在とはさまざまな状況が異なっている。また仲野自身の考えや感じ方も現在とは違う部分もあるだろう。だが発言の貴重さを鑑みて、あえて当時のままの内容で再掲する。

あの時は5人が5人とも365日アナーキーのことを考えていた。振り返ってみても、ああいうバンドは二度と作れないって思うけどね。

 アナーキーの衝撃的なデビューから26年。全オリジナル・アルバム、数々の貴重な映像、絶版となった単行本の復刻など盛りだくさんの内容のボックス・セット『内祝』が発売された。とりわけ、結成から現在に至る歴史をメンバー自ら振り返ったヒストリーと、オリジナル・メンバー5人がこのボックスに合わせて21年ぶりに新曲を作るまでを描いたドキュメンタリーDVDは、実に秀逸な人間ドラマとして、アナーキー・ファン、パンク・ファンのみならず必見の内容である。

 仲野茂の言葉には頭でっかちなところがまるでない。ちゃんと自分の経験と直感で裏打ちがされてるから、話が真実味と説得力があり、めっぽう面白い。理屈で考えてないのだ。紙幅の関係で話の多くを割愛せざるをえなかったのが残念である。

──ドキュメントのDVDでは、ものすごく率直に自分たちを振り返ってましたね。

仲野:まあね。せっかく撮るんだったら、やっぱり自分たちの中のぐちゃぐちゃなこととか、どれぐらい正直にしゃべれるかっていうのが、やっぱりテーマだったと思うんだけど。カメラが回っていたけど、みんな意外にちゃんと本音を言おうとしているとは思うけどね。

──どんなことでも包み隠さず本音でっていうのは、アナーキーのあり方でもありますね。

仲野:そう、それが最大の売りだもんね。やっぱりアナーキーになるとそういう意識は強いかな。一人になっちゃうと、そこまでじゃないっていうか、やっぱりなまけるし(笑)。久しぶりに5人で会ったりすると、やっぱり独特の緊張感がある。アナーキーっていう名前とかバンドそのものが重いっていうか。

──アナーキーって名前がついているだけでファンも違うものを期待する。

仲野:そりゃそうだよね。自分的には仲野茂バンドでアナーキーに負けないことやっているんだって言ったって、やっぱり世の中はさ……アナーキーの仲野茂っていうのはさ、これからずっとついて回るものだな。

──それを負担に思うことはないですか。

仲野:それはないけど、ああやっぱりアナーキーを抜けないなっていうのも思うけどね。

──うぜえなって思いませんか?

仲野:まあね。でもしょうがないよそれは。アナーキーで世の中出ちゃったからね(笑)・

──デビューしたときって19歳ぐらいですか。そんな若い頃にやってたことで、こうやって25年後も取材受けるってどういう気分です?

仲野:(笑)そんなこと考えたことなかったけどね。でもアナーキーで活動した5年間6年間。あの時は5人が5人とも365日アナーキーのことを考えていて、絶えず一緒にいたし、映画も5人で観に行ったり、ライブも5人だし。つねに5人だったからね、特に最初のころは。それは俺らにとっていい時期だった。歳も同じだし、同じ時期に同じことを考えて。振り返ってみても、ああいうバンドは二度と作れないって思うけどね。

──今回の取材で、全アルバムを年代順に聞き返したんですけど、これは5人の若者たちが成長して大人になっていく過程が、すごく克明に刻み込まれている成長物語だと思いました。

仲野:うんうん。まあ最初がヘタッピすぎたからね(笑)。一番下から始まっているから、うまくなるしかねえだろって(笑)。

──コンテストで優勝して、とんとん拍子にビクターに決まったわけですが。

仲野:まあちょっとあったんだけどね。初めはソニーに決めちゃって。で、村木さん(敬史。当時のビクターのディレクター)が、なんでソニーに決めちゃったのって訊いてきて。というのも、喫茶店で話したとき、村木さんはコーヒーだけだったけど、ソニーはピラフをつけてくれたから(笑)。そうしたら村木さんが、どうしてもアナーキーがやりたいって。村木さん熱いなって。じゃあビクターにしようって。それで次の日全員でソニーに行って、やっぱり辞める(笑)って。でも仮契約してて、ダメだって言われて。2時間も話して、だんだんめんどくさくなってきて、じゃもうソニーでいいよどこでもレコード出せんだからさあって。それで村木さんに電話して"ごめんね、やっぱソニーでやるわ"って。そうしたら俺たちまだ未成年だから、仮契約は無効だって。なんか親の承諾がいるとかで。で、ビクターでやれることになった。

──ファースト・アルバム『アナーキー』(1980年)のレコーディングはどうでした?

仲野:すごかったよ。生まれて初めてだったから。全部通してやって、間違えたらもう1回やり直し。ダビングってやり方を知らなかったから、6時間やってたもん、「ノット・サティファイド」だけずーっと繰り返して。誰かが間違えると、そこで止めてまた頭からやり直しで。さすがに疲れちゃって、合言葉は"間違えんなよ!"って。(笑)。ディレクターもディレクターだよ。ダビングできるって言わねえんだよ。6時間も歌ってたんだぞ。

──一発録りってやつですね。それは勢いを重視したってこと?

仲野:後で聞いたら"面白かったから"だってよ(笑)。それでやっとOKが出て、そうしたら(藤沼)伸一が俺のところに来て、"エンディングのとき、弦切れちゃったんだけど、大丈夫かな""大丈夫だよ黙っててやるよ"って。誰のレコーディングだよ!みたいな(笑)。

──なんか当時は、ほかのプロのスタジオ・ミュージシャンの演奏に差し替えてるんじゃないかって噂もありましたが……。

仲野:(笑)差し替えであれじゃ意味ねーじゃん!ヘタすぎて(笑)。本当に。

──あのアルバム、録音が妙にスカスカシャリシャリしてるでしょう。ロウが全然なくて。そういう音にしたかったってことですか?

仲野:いやいや、ダビングも何も知らないバンドが、そういう音にしたいもなにもないよ。

──でも、やっぱりあのときにしか作れないレコードっていう感じがしますね。

仲野:うん。そうだね。

──あの時期に、あのレコードを作ったことは自分にとってよかったと思いますか。

仲野:うん。もちろん。

──もうちょっとうまくなってから、とか思いませんでした?

仲野:いやいやいや、全然そんなことは思わなかった。とにかくレコードが出せればいいやって。もう、後も先もないし。それでどうなるかなんて考えもしなかったもんね。当時俺たちが喋ってたことって、"どうする印税の使い道?"とか(笑)。その当時、子供の気持ちがわかんねえとか親たちが騒ぎ出したときで。"そうか、これを聴いて子供の気持ちがわかるかも知んねえとかいってさあ、親も買うんじゃねえか。そうすっとよお、親とガキで一家に2枚ずつ買うかもしれないな!したら5千万枚売れるな"とか、くだらない妄想をさあ(笑)。"印税大変だぞー、とりあえず、ツェッペリンとかディープ・パープルとか、名前が入った飛行機持っているから、亜無亜危異って名前入った自家用飛行機買おうか"って(笑)。そのころまだ団地だったから"滑走路がねえじゃねえか!"なんて(笑)。なんで飛行機持ってて団地に住んでいるんだ、意味わかんねーよ! (笑)。だけどそのときは"そうだなあ、どこでも降りられるように俺たちはヘリにするか!"(笑)とか、そんなことばっかり話してた。"どうするお前グルーピー来ちゃったらよ。ほかのバンドはどんな風にやってるのかな。整理券とか配っているのかな"なんて。それでふた開けてみたらそんなもん一人もこねえし(笑)。"どうなってんだ、おい"って。それでまた反省会で、どっかのバンドが女たちを全部囲ってるんだって(笑)。"RCか?"とかいって。今度清志郎に会ったら訊いてみっかって(笑)。本当に何にも知らなかったからさあ。もう気分はロックスターなわけよ。でもレコード出てみたら全然売れねえ。俺なんか友だちにさんざん嘘つき呼ばわりされて、大変だったもん。"印税入ってくるからさ、おめえ何が欲しいんだよ。買ってやっからよ"なんて、友だちみんなに(笑)。実家のオフクロにも"車買い換えようと思ってるんだけど""待ってろよすぐベンツ買ってやっからさあ"(笑)。

──それで現実を思い知らされると。

仲野:そうそうそう。オリコンとか見てもさ"あれ?1位になんなかったぞ。50位にも入ってねえ、どうなってんだこれ?おかしいぞ"って(笑)。ずいぶん後になってからやっと90何位とかで出て。全然嬉しくねえの。(笑)。

──1枚目の反省点とか、ありましたか。

仲野:ディレクターを責めた(笑)。"なんだこのやろう、何でダビングって技教えてくれなかったんだ"って。でも結局、その後も同じスタイルでやってたんだけどね俺たちは。バンド全員で一緒にやるっていうのが良かったのかもしれない。もちろんギターかぶせたりもするけど、一緒にやるほうが未だにいいと思っている。だからあの6時間も悪い経験じゃなかったのかなとも思うし。

──「東京イズ・バーニング」のブザー(歌詞の<なーにが日本の象徴だ>の<象徴>の部分がブザーで消された)は、やむをえずって感じですか。

仲野:そうだね。ほんとは"東京イズ・バーニング"ってフレーズも、もっと過激だったんだけどね。"天皇バカヤロウ"と。でもさすがにそれはレコーディング無理っていわれて。それで"東京イズ・バーニング"に変えて。でも、ブザーを使うって事に関しては、全然。おれ外道が大好きでさあ、外道の1枚目もピーって入っているんだけどね。

──消してますよってあえてみせちゃう。

仲野:うん。ほかの言葉に変えるより。

──その後CDに入らなくなりましたが。

仲野:うん、右翼問題。レコード会社がびびった。でもそういうところで戦ってもね。2枚目の時も「タレントロボット」って曲を外されたり。むかつくしさあ、なんでだよって思うけど、そのことに関して運動みたいなものを起こして、表現の自由がうんぬんってなっちゃうと、全然面白くないからね。やっぱり俺たちはロックミュージシャンだから。別に政治運動家でもないし、大した思想信条があるわけじゃない。結局雰囲気で書いてただけだからさあ、なんでも。そこまで突っ込まれてもかえっていい恥さらしになっちゃうもんね(笑)。アナーキーって名前だってさあ、なんとなく付けちゃったわけでさ。国鉄服を着る前にピストルズの真似とかしてやってたんだよ、自分たちでTシャツ作って、で俺、後ろに「アナーキー・イン・ザ・UK」って、ピストルズの一番好きだった曲のタイトルを書こうとして。でも字がでかすぎてはみ出ちゃって、イン・ザ・UKが書けなくなっちゃって(笑)。それでアナーキーだけになっちゃって。それでバンドの名前決めるときに、これでいいじゃねえかって(笑)。言葉の意味なんかあとで知ったんだよ。そんなもんだよ、しょせん。そんなバンドがさあ、言論の自由だ表現の自由だなんて、チャンチャラおかしくて笑っちゃうよね。何でダメか説明されたらさあ、きっとすぐやり込められちゃって、"あっそうですか、わかりましたあ"なんて(笑)。画が浮かぶもん俺。だってさ当時"「タレントロボット」入れなきゃ『'80維新』(1980年)出さねーぞ、とか言っちゃおうぜ""おお、言っちゃおうぜ"とか、すげー勢いでレコード会社の会議室行ったら、みんな黙っちゃってさあ(笑)。で得々と説明されて。入ってきた時の勢いはどこに行っちゃたんだよ(笑)。そんなバンドだよ。思想もへったくれもないもん。

『亜無亜危異都市』のレコーディング時からバンドが変わった

──他にも歌詞がひっかかって出せなかったって曲ってあるんですか?

仲野:忘れちゃったな。とにかく忙しかったから。1年に2枚アルバム作ってんだもん。当時。だから、1枚目だして、何日間も取材うけて、それ終わってツアー行って、次のレコーディングのリハして、レコーディングをしてってっていう、ずうっとその繰り返しだったからね。それで俺ツアー1回、逃げちゃったんだけど。それまでは、好きなことやって、金もらえて、すげえいいなって思ったけど、そういう繰り返しだからさあ、次の年のスケジュールまで決まってたりするわけじゃない。自分の意思にかかわらず勝手にさあ。やりたくてやってるはずのものが、なんか決まっちゃってるからやらされているみたいに感じるようになって。なんなんだろうって思って。
 まあその疑問に反抗するためにツアー逃げたんじゃないけどね実は。前の晩大阪で呑みすぎちゃって、次の日広島に行ったら声でなくて、これやばいと思って。なんか夢遊病者のようにそのまんま広島から逃げちゃった(笑)。ツアー初日だったんだよ。広島行って、ずうっと九州行くはずだったの。で九州ツアー全部中止になっちゃって(笑)。

──『亜無亜危異都市』(1981年)はマイキー・ドレッドのプロデュースでしたね。

仲野:基本的には陽気なジャマイカ人みたいな。ダブとかやって、いろいろ卓いじってて、見てて面白かったけどね。

──演奏や曲作りに対して注文っていうか、アドバイスはあったんですか?

仲野:マイキーはなかったね。プロデューサーとして、マイキーは当時まだそれほどそれほど大物じゃないからね。クラッシュの『サンディニスタ』ぐらいでしょ。どっちかというとエンジニアのスティーヴ・ナイのほうがイギリスでメジャーなエンジニアだから。でもプロデューサーはマイキー。マイキーがNOといえばスティーヴがもう1回やり直す。だからなんか険悪な雰囲気だしさあ、スティーヴは黒人大っ嫌いなのを露骨に出してヤな顔をして。いや、ほんとに嫌いかどうかわからないけど、厳格なブリティッシュの典型的なタイプでさあ。仲良くやろうよって思ってたんだけどさ。でも仕事ってさ、そういうことじゃない?別に仲良し会じゃないからね。だから、ああいうのもすごい新鮮だったよ。プロフェショナルの制作現場って感じだったな。

──その経験を経て、何か変わりました?

仲野:うん。やっぱり変わったね、いろんな面で。空港がストになっちゃって、手持ちの楽器が出なくなっちゃったんだよ。それであわててロンドンの楽器屋からレンタルして。生まれて初めて本物のフェンダーとかギブソンを手にして(笑)。で、やっと自分たちの楽器が出てきたら、全然違うの。スティーヴなんか"この楽器全然ダメだ、倍音が違いすぎる"って。ほかにも、いろいろアドバイスされて。そのあたりからだと思うよ。本物の楽器とか、いい音するやつを欲しくなったり。

──当時のパンクやっている人間のメンタリティーって、楽器に凝ったりするよりもっと精神的なことを重視してた傾向もありますよね。それこそ、パンク・スピリッツとか。

仲野:俺たちはないよ。どこにも所属していなかったからさ。ほかのバンド知らないじゃん。で、当時出てきたバンドは全部敵だと思って絶対負けねえとか思ってたし。なにが負けねえんだか、よくわからないんだけどさ(笑)。ルースターズとかロッカーズとかも80年にデビューしているし。スターリンもいたし。九州行ったときラジオ局でルースターズとすれ違ったわけ。そしたら池畑(潤二)がずっとガンつけてやがんだよ(笑)。頭きて、俺もなんだこのやろうって。絶対ぶっ飛ばすとか思って。あいつらわざと間違えやがって。"あの「ゴキブリ」が……"、「あぶらむし」だ馬鹿野郎!(笑)。やっぱりルースターズはすごい意識していたよね。なんかこじゃれているんだよね(笑)カバー曲も意外にセンスいいなって(笑)。それが気に入らねえ(笑)。

──オリジナル・アナーキーは8枚アルバムを作ったわけですが、その中で満足いく出来映えというと?

仲野:まあ、1枚目とかはさ、やっぱり初めてだし。記念もんみたいな。俺のなかでは、やっぱ『デラシネ』(1984年)かな。俺ずっとマンガしか読んだことがなくて。あるとき『4月の海賊たち』っていう五木寛之の短編があって、初めて読んで、感動しちゃってさあ。それがきっかけで五木寛之のやつだったら、読めるようになって、で『デラシネの旗』って本があって。その表紙がかっこよくてさあ。このイメージでっていうのがあった。ジャケットがこうで、タイトルがこれで、カタカナで、赤で……っていうのは、ずっと頭のなかにあってさ。『デラシネ』のときだけなんだよ、こういうのを作りたいっていう明確なイメージができあがっていたのは。

──音楽的にもだんだん幅が広がってきて、いろんなことをやるようになってきましたね。

仲野:それまでは一緒に住んでたりしてたから、どうしても同じの聴かざるを得なかったし。それがばらばらになって、それぞれ好きな音楽を聴きだしたりしてさ。こんなのやってみたいよなとか。ああ、いいじゃねえのとか。

──なんか決めごと、アナーキーはこうじゃなきゃいけないみたいなのはあったんですか?

仲野:ないよそんなの。あえて言うなら、そういうクソみたいな決めごとだけはやめようと。

──このころになると、作詞作曲クレジットが個人名義になってますね。

仲野:うん。『デラシネ』の前くらいからなんだけど、分業になってたから。それまではみんなでワーワー言いながらやってたけど、だんだん曲は伸一、詞は俺みたいなことになってきて。それまでは作詞作曲アナーキーだったんだけど、このアルバムのときはやっぱり、思い入れもあったし、もうほとんど誰も手伝ってくれねえから。

俺たちは所詮ロックバンドだからね。思想家でも運動家でもねえ。

──最初のころの歌詞とかはマリさん(逸見)が書いてたものも結構あったけど。

仲野:うん。あったよ。

──それがだんだんなくなってきたのは?

仲野:どうしてなんだろうね。マリが書かなくなったのは、『亜無亜危異都市』以降かな。なんかね、サウンド的にはいいんだけど、マリの書いた詞でちょっと気にいらないのがあって。俺がそこでちょっと付け足したりとか、変えちゃったりとかしてさあ。

──それで自信を失くしちゃったみたいな。

仲野:いやいやいや、それはわかんない。俺マリが書いた曲でちょっと嫌だなって思う曲が、実は『亜無亜危異都市』に1曲入っているんだよね。そういうのは俺、言わないんだけど、きっと露骨に顔に出るタイプなんだね。そういうのが伝わっちゃったのかもしれない。

──DVDにも、だんだんマリさんの居場所がなくなってきたんじゃないかってコメントがありますね。そういうことも関係している?

仲野:そうかもしれない。あいつはデビュー当時、スポークスマンだったの。だから楽だったんだよ俺(笑)。取材行ってもうなづきトリオでよかったからさあ(笑)。でも俺にとっては、マリの思想みたいな……。

──理屈っぽい。

仲野:うん。だからこうこうこうして世の中を変えていくんだみたいなさ。そのためには何とかかんとかって。なんかうっぜえなって思って、俺は。そういうバンドじゃねえんだよ。でも周りは、アナーキーは政治的なバンドとか言って白々しく質問してきやがって、なんかそういうのにマリは乗っていってさあ。そういうのがなんか、俺にとっては愉快じゃねえしさ。俺たちは所詮ロックバンドなわけだからね。思想家でも運動家でもねえ。だったら1回ガツンと痛快なロックをやればいいわけでさ。で、そうこうしているうちに俺とマリ以外の3人は音楽に目覚めてさ、練習したりいろんな音楽を聴いたりしてさ。で、ボーカルは楽なの、練習しなくっていいじゃん(笑)その当時は小金もあったしさあ、六本木界隈で飲み歩いてたりしててさ、怠けてたんだよね、俺とマリは。で、どんどん行き場がなくなっちゃって。マリはスポークスマンなのか、楽器チームなのか。フロントマンではありえないわけじゃない?じゃあ客観的に見れるプロデューサーとしての椅子があるかっていうとさ、そうでもないからさ。行き場がなくなっちゃたんだよね。それでまあ、失速していくんだけどね。最後のアルバムなんて、いたの?ってくらいだったもんね。

──じゃ例の事件(逸見による傷害事件。収監されている間、アナーキーはザ・ロック・バンドと名を変え、2枚のアルバムを出した)が起こる前に、そういう予兆はあった。

仲野:うん。俺たちもさあ、なんかこう……やればやるほど売れなくなってくっていう現象にハマってくわけよ。上手になったアナーキーなんていらねえよとか、何で国鉄服脱いじゃうんだとか。で、『Beat Up Generation』(1985年)出したあとに、1年間休憩しようと。みんな好きなことをやって、それでまた改めて会おうと。新たにまたアナーキーをスタートさせようという話の矢先だったのね、マリが事件起こしたの。それで俺はすげえむかついた。

──なるほどね。でもDVDのなかでも、あの事件についてすごく率直にみなさん語ってますよね。マリさんも、いまだに後悔で煩悶してる感じがすごく痛々しかった。

仲野:うん。そういう場が欲しかったんだろうね。それがカメラの前じゃなくてさ、もっと早い時期にあれば良かったとは思うけど。いまさらそんなこといってもしょうがないけど。

──バンドはあの事件が起きても、続けようって意思ははっきりあったの?

仲野:うん。あったね。で、まあやっちゃったことは仕方ない。マリに期待してたとこもあったんだよ、俺。刑務所がどんなところなのかわからないけど、なんか寺に修行に行くみたいなさ、それでなんか悟りを開いてさあ、変わることを期待してたんだよ。だってさあ、前から失速しているわけだからさ、それがいいきっかけになればいい。じゃなかったら、一緒にやっていく意味がないじゃない? 出てきたとき、なんか違うあいつを見せてくれたらと。そんな経験しているの、マリだけだからね。それがさあ、出てきても全然変わらないんだよ。なんか恥ずかしいのか、酔っ払ってヘラヘラしてやがってさあ、もうキレるしかないよな、みたいな。

俺は音楽自体、どうでもよかった。ただ、アナーキーをやりたかった。

──ザ・ロック・バンドはどうでした?

仲野:うん、良かったよ。でも最終的には俺の怠け癖みたいなのが出てさ。4人になってさあ、すごいスリリングになって、即興性みたいなのも曲の中に盛り込まれてきて、で、それはそれで楽しいんだけど、3人が音楽を極めるほど、俺は退屈になってくる。そんなに音楽志向じゃないから。ロック・バンドのときのほうが辛かったからね、歌詞を書くとか。あまりにも広がりがありすぎたのかも。

──アナーキーって名前がとれて、制約がなくなったのがかえってよくなかった?

仲野:うん。なんでもありになって、ほかの3人は一生懸命楽器をやって、たぶん突き抜けて向こう側が見えたのかもしれないけど、俺はただ飲み歩いてただけだからさあ(笑)、あまりにもフリーな感じがして、それをずーっとやっていくのもちょっと俺的に辛いし。で、そうこうしているうちに、映画出てみてみねえかって言われて(崔洋一監督『十階のモスキート』1983年)。で、行ったら華やかな現場でさ。ああこういう世界もあるのかって。"そうだ俺、べつにもともとそんな歌い手じゃなくて<芸>っていうものが好きだったんじゃねえの" って。だから『4月の海賊たち』(ザ・ロック・バンド名義。1987年)が限界。

──音楽そのものに対して情熱が薄れてしまったということもあるんですかね。

仲野:うん。ていうかもともと俺は音楽自体、どうでもよかったんじゃないかって気はするんだよね。ただ、アナーキーをやりたかったんだよ。バンドをね。お祭りみたいなもの、暴走族だったり、ああいう雰囲気の中にいたいんだよね、ずっと。ばーっと盛り上がっている雰囲気の中に。だから、一人でソロ・アルバムを作りたいとか、さらさらないからね。単に音楽だけじゃないっていうかさあ。

──ミュージシャンじゃなくてアーティストってことですね。

仲野:そんな天才じゃないよ俺。まあ、才能はあんだけどね。でも才能って、磨かなきゃならなんだよね。天才なら磨かなくてもいいのかもしれないけど、ふつうは磨かないと全然輝かないんだよ。ほっとくとさあ、腐ってくるんだよね。でも俺、怠け者だからさあ(笑)。

本音で喋れて、ダサいところも、メンバーの悪口も言える強さみたいのが大事なんだよ。泣き言も言えるような。

──で、94年の再結成ライブを経て、4人編成の新生アナーキーが96年にスタートするわけですが。

仲野:俺的には赤坂ブリッツでオリジナル・メンバーでやったとき(96年6月)の感触がよくて、これならアナーキーやれるかもって、俺と伸一はすげー盛り上がっちゃって。したら、コバがちょっともうダメだと。当時は体の具合と、家庭の事情でやれないと。しょうがない、じゃあドラムを探そうってことになって。で、オーディションで名越(藤丸)が来た。

──マリさんが入るっていう選択肢は?

仲野:あった。マリ入れて5人でスタートするつもりだったんだけど、あの野郎がリハに来なかったから。それで伸一が話しに言ったら大喧嘩になっちゃったらしくて。で、伸一が"わりい、あのやろうやっぱダメだ"って。じゃもう4人でやろうって。

──最初の『ディンゴ』(1997年)のとき取材させてもらいましたけど、すごくテンション高かったですよね。

仲野:手ごたえあったよ。明確だったしね、伸一がね。それまで離れてたわりには、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンとかみんな聞いててさ。その指向をうまく伸一が具体化してさ。

──藤沼さんがかなり尻叩いて、ガンガン追い込んでいったって言ってましたね。

仲野:すごかったもん(笑)。家帰るたんびにさあ、カセットが届いているわけ、伸一から新曲が。どうだ、お前この曲に見合う歌を載せてみろぐらいな勢いで、もうガンガン来る。

──アルバムもすごいエネルギーですもんね。あの時期仲野さんにインタビューしてて印象的だったのが、"歳とってだた衰えていくだけだったら死んだほうがましだ。歳とってどんどんパワーアップしなきゃ生きている意味がねえ"という言葉でした。

仲野:パワーアップしたようにみせるだけなら、それほど難しいことじゃない。でもそれはあんまり正直なことじゃない。あのドキュメンタリーDVDみたいに、本音で喋れて、ダサいところも、メンバーの悪口も言える強さみたいのが大事なんだよ。泣き言も言えるような。それまではさあ、そんなことお前言ってダセエなっていうのがあったんだよ。でも、そこでいかにも強そうな答えを用意してさあ、バリバリ元気でまだライヴ6時間できるぜ、みたいなことを言うんじゃなくて、自分の弱さとかダサさとか逃げちゃったりすることを、人前に暴露できる強さ。だからパワーアップっていうのはそういうことも含まれているんだよ。本当に包み隠さずさらけだせる。

──自信がなきゃさらけだせない。

仲野:うん。だから歳を食うってことは、体力的な衰えもあるけども、正直になれる強さみたいなものも身に付いてくるわけじゃない?

──で、今回は新曲も作ったわけなんですけども、どうなんですか今後は?

仲野 ……アナーキーに未来はないから。新曲作るのはすごい辛かったよね。だって、思い出のボックスなわけだからさ。ブリッツ終わったときのような、またやろうぜっていう盛り上がりが全然なくてさ。昔の映像つなぎあわせて適当にパッと出してちょっと小銭もうけるぐらいのつもりでいたのに、新曲作れなんて言われてさあ。未来がないものにどう向きあえばいいのか全然わかんなくて。ほんと、何にも思い浮かばないんだよね。イメージも何も。そりゃ辛かったよ。どうしていいかわかんなくて、でもカメラ回っているし、みんな俺見てるしさあ(笑)。じゃあおめーら考えろみてえな。でもまあ、出来上がるとさあ、作ってよかったなっていう思える出来だったからね、今回の新曲はね。

──アナーキーとしては活動しないんですか。

仲野:やんないね。うん。

──そういう話は出たでしょ?

仲野:出た。出たし、俺はブッキングしちゃったの。1月21日新宿ロフト。ロフト30周年のあれで。てっきりやるもんだと思ってたから。でも伸一が、やっぱりやんないって。

──彼のなかにモチベーションがわいてこないってこと?

仲野:うん。っていうよりもモチベーション低いやつと一緒に立ちたくないっていう。それはすげえカッコ悪いことだって。そこに自分がいることが許せないらしい。だからこのボックスでもうアナーキーを終結したいなって思いがあったの。"これでもう本当に解散"って、言ったことがないから、今まで。もうとにかアナーキーを葬り去ろうみたいな。

──でもいい曲いっぱいあるでしょう。それを演奏できるのはアナーキーしかいない。だからアナーキーが活動しないとこの曲は永遠に演奏されないことになるわけですよね。それは残念じゃないですかやっぱり。

仲野:うん。だからね、世の中の求めているオリジナルのアナーキーと、新生アナーキーっていう、2つのアナーキーを持っちゃったわけじゃない。そうすると、どうしたってオリジナルのアナーキーを先にやっとかないとっていう、そんな感じが俺はするんだよね。4人アナーキーだったらやれないことはないって思いもあるんだけど。でもそれをやっちゃうと本末転倒って気持ちもしないでもないし。世の中って圧倒的にオリジナルをやってくれって声が多いからさあ。そうなると4人アナーキーって出る幕がねえなって。よっぽど4人がやりたいって思わない限り。

──しばらくは間を置いて。

仲野:うん。でもこれ出してアナーキーを終結したかったんだけど、意外に導火線に火をつけられたような気分もあるしさあ、それで先走って1月21日勝手にブッキングして結局やんねえっていう。まあ、そんなもんなんだろうな、アナーキーはっていう。

──そんなに人生カッコよくスムーズに進むもんじゃないですからね。

仲野:そう。ジタバタするのが似合ってるバンドだしね(笑)。

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