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病気はイデオロギーで扱えないという話

誰の目にも明らかなことではありますが、現在、新型コロナウイルスのリスクへの評価ははっきり言ってイデオロギー的な闘争に利用されており、単純に言えばリスクを低く評価せよという右派とリスクを高く評価せよという左派の綱引きのような状況が繰り広げられていますね。

感染症がイデオロギーの舞台になった原因としては、対策にあたった政府の責任を追及する立場にある左派(政府にはもっとできることがあったはずだという立場)、政府の対応に問題はないとする右派(政府は現状で精一杯だという立場)という二元論的な対立に現実の疫病が巻き込まれ、疫病のリスクを高く評価すれば左派的に、低く評価すれば右派的な立場に置かれるという構造が生まれてしまったという感じでしょうか。言うまでもなく実際は、右派であってもリスクを高く見積もっている人、左派であってもリスクは軽微だと考えている人もいるはずですが、そういう存在が度外視されるのが二元論的というものの危うさです。

感染症対策に対する認識では面白いことに、政府にはすべきことがあったという左派的な立場では政府にできたはず/できるはずのことに対する期待が大きくなり、想定される政府像が有能になっていく一方で、政府の立場を養護する右派にとっては、政府に多くを求めるのは筋違いだという文脈から、政府にできたはずのこと/できるはずのことはしだいに委縮し、期待はますます小さくなっていくという反比例的な関係が生まれているようです。



現代社会では病院経営やビジネスの専門家が小学生の自由研究のような「ぼくのかんがえた、さいきょうのコロナりろん」を思いつきで述べることは誰にも止められません。
しかし、こういう根拠薄弱な理論を視聴率目当てにメディアが取り上げてもてはやすのは害でしかありません。
新型コロナが弱毒化しているという根拠はない  7/26,忽那賢志)


さて、私たち一般人がイデオロギー的な都合でリスクをどう評価しようと、その現実のリスクに対して現実的に対処しなければならない最終的な受け皿になっているのは医療関係者です。感染した私がいくら「コロナはただの風邪だ」と強がっても、医療や公的機関はその現実的なリスクに応じたコストを投じなければならないので、治療はもちろん、どこで感染したか、誰と接触したかを把握して拡大を予防するところまで責任を負うことになります。現在、医療関係者はそのような偏った負荷を受け続けている状態だといえます。

こういった背景もあってだと思いますが、感染症医の忽那賢志さんは新型コロナウイルスのリスクについてネット上で情報を発信してくれています。SNS上で「感染拡大していても重症化例が少ないからウイルスが弱毒化している」という、リスクを下方修正するような記事が拡散していたのは記憶に新しいですが、そういった言説の反論にあたると思われる引用記事の結びは少し怒りが滲んでいるようにさえ見えました(誤解だったらすみません)。

ともかく私たち一般人は、ウイルスが自分に対してどの程度のリスクを持っているかについてよく知らず、不安に襲われるために「楽観的な情報」を選り好みしてしまうわけですが、そういった楽観視によってリスクが拡大したときに責任を負うのは決まってこの「現実の」感染症対策に当たっている人たちだといえます。

よく「コロナだコロナだと騒いでるが大して死んでないじゃないか」と言う人がいますが、今このレベルの被害で済んでいるのは感染対策にあたっている店舗や施設、自粛を心がけている個人、そして最終的な受け皿になっている医療関係者の努力の賜物だといえます。何より危惧されているのは医療という「最後の受け皿」が溢れてしまうことではないでしょうか。つまり、「感染が拡大しても問題ない」と考えている人たちは、一部の患者が重篤な状態に陥らないよう対応にあたっている医療従事者の努力を度外視したまま「重症化しない」と捉えているので、感染が拡大して同レベルの医療が維持できなくなった場合を想定していないのだと思います。



合理化の努力


感染症が全く収束しないために、医療分野の専門家やメディアはその現状やリスクについて連日報じることになるのですが、ここでひとつ不幸な行き違いが起きます。リスクについて報じる側は現状を伝えるとともに「(現実のリスクに対して)必要な対策を取ってください」と言っているのですが、受け取る側の一般人が「私を怖がらせようとしている、不安にさせようとしている」と解釈し、その恐怖とか不安そのものに対して予防線を張ってしまうということです。感染症のリスクについて報じる側は、どれがどのようなリスクを孕んでいて、どのような対策を必要としているかについて伝えたいのに、受け手は「私を怖がらせた」という結果から疑念や敵意を持ってしまうようです。

このような疑念から不信が生じると、こんどは自分が信じたい新しい現実というものが作られてゆきます。ネット上や社会のコミュニティでも「コロナは風邪だ(安全説)」とか「コロナ自体がフェイクニュースだ」とか「経済を麻痺させるため/政府が我々をコントロールするための陰謀だ」とかいった様々な新解釈が続々と生まれてきます。私たちはその中から自分を納得させてくれるストーリーを選択して信じ、精神的な負担を軽減します。

以前に書いた【コロナ】怖がってくれない人たちについてという文章では、防衛機制の視点から多く見られる反応について考察したのですが(※)、この文章のキモは人が病気という現実の脅威、不合理な不安をなにか合理的なものとして捉えて精神的な負担を軽減しようという努力です。現実界というのは非情であるので(というか感情がないので)、病気は良い人も悪い人も、金持ちも貧乏人もなく襲ってくるし、「自分にはやることがあるので待って欲しい」と言っても聞いてくれないのですが、私たちはとにかく病気やそのリスクが自分たちにとって既知の力学で動いてくれるものであってほしいと思っているのです。


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