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不幸の正当化と自我意識

前回、 透明人間化する自己ー抑うつの入り口 では、主体が抑うつや無気力、無感動の状態に陥る前段階として、極端に機械的な価値観―――たとえば拝金主義、能率主義やリアリズム―――に同一化する過程を説明した。この過程では、私たちのやわらかで傷つきやすい感性を司っている主体が、機械的な価値観の侵略から身を守るために機械的自我を形成し、やがてその機械的自我が自我そのものとなって「守られていたはずの」主体が喪失してしまうことが起こる。

この状況は、個人が「現実適応のために現実そのものになってしまう」と表現できるだろう。たとえばある画学生が、自分の絵には金銭によって定量化できない価値があるという誇りを持っていたとしても、生活のためには自分の絵に付加価値をつけなければならないという快感原則と現実原則の葛藤が生じる。この画学生は、誰がなんと言おうとこれには価値があるのであって、評価のできない周りが悪いのだというふうに単純に現実から距離を置く道もある一方で、反対に絵にどのような価値が付くのか「だけ」が重要であり、自分は価値が付くように絵を描いているだけでそこには何ら人間的な動機や誇りは込められていない、というふうに振る舞うこともできる。

そして、このふたつの道は正反対であるようでいて、目的は同じように「やわらかな主体」である自我を外敵である機械的な価値観から守るということなのである。



認知の歪みを説明するために引き合いに出される「すっぱいブドウ(イソップ童話)」では、高いところにあって手の届かないブドウをキツネが「これは酸っぱくて食べられないものだ」と自己正当化する。これは、手に入らないものを価値のないものと考えることで自己を守っていると考えれば無理のない合理化だといえる。

しかし一方で、リアリズムや機械的価値観の内在化では反対のこと―――つまり、自分が手に入れられなかったブドウが甘くておいしいものだからこそ、今の自分は不幸なのであるというふうに、自己否定の方向へと正当化が働く。これは、正当化や認知の歪みの力が単純に自分の能力だとかプライドに働くと考えることはできないことを意味している。抑うつ(メランコリー)状態の人間がほとんどの場合で自らの不遇を愉しんでいることを鑑みれば不自然ではないが、それにしても何故だろうか?

前回までの話に戻ると、抑うつ状態では自己が完膚なきまでに脱主体化され、透明化した状態になり、他者や世界に対する干渉能力を失う代わりに驚くべき観察能力を得る。しかし、ここでは一種の観察者効果のようなものが不可避的に発生する。つまり、脱主体化された自己は、他者に干渉しないことによって観察能力を得るが、自分がどのように考え、何をしているのかという主体行為については完全に不可視になっているのである。

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