透明人間化する自己ー抑うつの入り口
抑うつや極端な無気力、無感動は個人の生活や人間関係に支障をきたし、それを自認せざるを得なくなる決定的な契機を迎えるよりも前に、意識の水面下で穏やかに自己が無力化される段階を進行させる。
この段階では、自己がその内面、感情、主体性といった人間的要素を内部的に喪失し、他者にとっての自己、他者に期待される自己といった機能的な側面が代わりに自己を代表する。ここでは、「自己愛と自尊心の違い」で説明したような二種類の自己になぞらえて考えると、「私は存在している」という存在論的な自己と、「私は~である」という条件論的な自己のうち、後者の自己意識が肥大し、反比例して「存在としての」自己が透明化していくと言えるだろう。
この状態の自己とは、他者と比較可能な条件の羅列によって表現される、無個性で、機械的・機能的な存在であり、自分より優れた他者やもっと合理化・能率化された存在の下位互換に過ぎない。並行して無気力や無感動に陥る一因としては、比較対象としての「過去の自分」の経験が、未来にあたる現在の自分の行動を全て先取りして無意味化し、人間的主体から「行動する機械」に変えてしまうことが考えられる。
機能化された自己は、たとえば私はお金がある、美人で若い、私には優れた能力がある…といった条件を寄りどころにするために、遅かれ早かれ自己の存在証明を失う運命にある。このために、自己の機能化が進行している状態は既に、何らかの病的な兆候の準備段階にあると言えるが、問題はなぜ自己がそのような病的な状態を「進んで選択」するかにある。
△「自己愛と自尊心の違い」から
さて、自己が人間的な、やわらかで傷つきやすい主体から撤退し、きわめて機械的・機能的な部分を新しい自己として再定義しようとする傾向は、単純に「傷つく自己・やわらかで感情的な自己」の存在を否定し、傷ついている自己は存在していないとすることによって外傷を隔離しようとする努力の結果と見るべきだろう。人は大なり小なり、その重要さを過小評価することで精神的なショックから逃れようとするものであり、またその隠蔽行為によってより深刻な状態に陥るものである。
このような自己の機能化は、精神分析的に言えば防衛機制のひとつと定義することができるかもしれない。R・D・レイン「引き裂かれた自己」では、次のような例を見ることができる。
彼はたとえば彼女のからだに固着しているハマグリになる夢を見た。まさにこのような夢を見ることがあったためにこそ、彼は彼女を単なる機械に過ぎないものと見ることによって彼女をくいとめておく必要が一層大きくなったのである。彼は<臨床的>正確さで彼女の笑い、怒り、悲しみを描写したが、<それ>としての彼女を描写することに関しては、その効果においてひやりとさせるほどの伎倆(ぎりょう)に達していた。「そのときそれが笑いはじめた」。彼女は<それ>であった。なぜなら彼女のなすすべてのことが、予測可能な決定された答えであったからである。
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