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劣等感アイデンティティ

劣等感、不安、自己否定感を内在化している人は、行動や思考を通じて様々な方法で自罰感情を表現する。言葉や考え方は自己に対して批判的になり、自分は救いようのない存在だと考え、言葉にしたり、自分を見下し、傷つけるような人と関わろうとする。行動による自罰では、不健康な習慣に中毒的に没頭したり、心身を痛めつけたり、また無自覚に衣食住のような環境を劣悪にして「自分にふさわしい」罰を与える。

中毒的な習慣はアルコールや薬物への依存、過食、人間関係、ギャンブルやゲームのような行動依存など様々な形を取る。こういった依存には、無力感や自罰感から一時的に逃避することに加え、自らを罰する感情を満たす目的がある。たとえばアルコールは中毒者に対して一時的に、罪悪感を司る脳機能を鈍麻させ、慢性的な無力感から開放するが、飲み続けることによって罰感情はさらに増し、罪悪感の原因はいつの間にか飲酒それ自体にすり替わっている。ほとんどの依存は、それ自体には含まれない第二の意味があり、自罰や逃避の他にも、愛情を供給するものの代替であったり、抑圧された怒りに対する無言の抗議であったりする。

しかし、これらの自罰的な習慣は「やめたいのにやめられない」の仕組み―――依存についてで触れたように、 一種のマッチポンプの構造を含んでいる。自己批判的な人は、自分のこの部分が恥ずかしい、と考えながら、同時にその部分に固執し、再現し続けようとする。自分が抱えている問題を恥じながら、それをあたかも「特別な」もののように重要視し、誰かに奪われないようにさえする。ある問題は、「自分は問題そのものであり、問題が解決したら自分が自分でなくなってしまう」という葛藤に置かれ、それを解決しようとする意志と解決を拒む意志に分裂する。

反復強迫という言葉を使うならば、この人は、失敗した過去を繰り返し再現することで、それが正しかったと証明され、報われる瞬間を待っていると言えるだろう。つまり、自分の過去の苦痛に「何か意味があったはずだ」と考え、支払った代償からその分の利益を回収しようとしているのである。したがって、自分の過去に紐付けられた悪習を改める前にまず、それが単なる悪習であると認める段階がある。



自意識への執着


欠点や恥、失敗した過去、劣等感を含めた一連の自己の形式に対する愛着は仏教では我執と呼ばれている。自己批判的な人は、自分自身を取るに足らないものと考えながら、取るに足らない自己の形式そのものを偏愛しており、この偏愛によって自らを苦しめるような葛藤に閉じ込められてしまう。

この自己の形式への偏愛は、思春期に発生する自意識過剰の延長にあると言えるだろう。自己批判的な感情は常に、自分の抱えている問題が「自分だけの特別な問題」であり、だからこそ解決が難しかったり、何かの特別な意味を持っていることを望む傾向と同時に存在する。

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