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「やめたいのにやめられない」の仕組み―――依存について

好きなものが存在していることは精神生活にとって少なくとも悪いことではない。それらは、私たちを幸せにするほどの力はないが、少なくとも豊かにはしてくれる。

しかし、「好きなもの」との関わりは―――それが人間であれ、薬物であれ、ギャンブルや娯楽であれ―――場合によっては私たちを苦しめる原因になる。中毒や依存症と呼ばれる状態がそれだ。

「好きである」と「依存・中毒」の境界線はどこに引くべきだろうか?例えば単なる酒好きとアルコール依存の違いは、飲むことを楽しんでいるうちは「酒好き」で、必ず「飲んでしまった後悔」が伴うようになるのが依存だと言われる。「好き」はわたしを楽しませるのに対して、依存・中毒的行為は「それがもはやわたしを苦しめていると自覚していながらも」やめられないという状態におちいる。このような場合は、やはり意識内の自我ではない超自我、つまり無意識との葛藤を考えなければならない。



さて、前回は劣等感コンプレックスを理解するために「私が私を好きになれないのはこの特徴のためである」という私たちが自覚している範囲の力学ではなく、「私は私を受け容れていない、したがって私の特徴を憎悪する」という因果逆転の関係を検討しなければならないと説明した。この関係によって、「私が私を否定するための理由づけ」のために私の特徴にまつわって様々な劣等感コンプレックスが形成される。

同様に、繰り返す中毒的な行動、逃避的な依存行為に対しても「わたしがわたしを受け容れていない」ということの理由付けのためにマッチポンプ的に形成される、という仮定を持つことがひとつの進展をもたらしてくれる。私たちが依存するものはどれも、はじめ私たちの生活を豊かにするひとつの要素として何気なく受け入れられるが、私たちがそれにすがり始めるに従って罪悪感が付随するようになり、やがて自分を苦しめるために繰り返す(反復強迫の)対象になる。

「好き」が「依存」になるときの大きな変化として、行為の主導権が自我から無意識に引き渡されるということが起こる。つまり、「私は好きでそれをすることができる」という自由意志の選択による行為から、「私は(何かの力によって)それをしないことができない」という強迫的な行為にすり替わってしまう。これによって依存者は、それを「断つ」か「苦しみながら没頭する」という二者択一を迫られることになる。

依存症のモデルとしてひとつ秀逸な例があるので、ここで引用してみよう。



「きみ、そこで、なにしてるの?」
「酒のんでるよ」と、呑み助はいまにも泣きだしそうな顔をして答えました。
「なぜ、酒なんてのむの?」と王子さまはたずねました。
「忘れたいからさ」と、呑み助は答えました。
「忘れるって、なにをさ?」と、王子さまは、気のどくになりだして、ききました。
「はずかしいのを忘れるんだよ」と、呑み助は伏し目になってうちあけました。
「はずかしいって、なにが?」と、王子さまは、あいての気もちをひきたてるつもりになって、ききました。
「酒のむのが、恥ずかしいんだよ」というなり、呑み助は、だまりこくってしまいました。
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ)

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