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文化的な生活は文化的な生活を守ってくれるか

「やさしい抵抗」は彼らにとって免罪符になる。なぜならこの思想に帰依しておけば、大声で戦争反対などと言わなくとも(そんなことは恥ずかしくてできない)、積極的に見聞を広めなくても(そんな暇はなく生活で手いっぱいである)、自分の楽しみを追求し、粛々と暮らしていれば戦争反対がセットでついてくることになるのだから。行動的でない人にやさしく、自信のない人にも唱えやすい。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。反戦の助けになるのだろうか。
「戦争に反対する唯一の手段は……/文化的雪かき」 野村レオ



たまたま読んだ文章(引用しているもの)が最近、頭の中で考えていたことに合致していたのでこのことについてもう少し考えてみなければならなくなった。このテーマは批判はいつから「悪口」になったか? で触れた「対立することを忌避する感覚の蔓延」に関連する内容で、また以下の糸井重里の発言も参照しなければならない。





個人的に、この発言を見た当時の感想(東日本大震災直後のもので、当然原発の是非をめぐってネット上まで大パニックに陥っていた時期のはずだ)は「それはまあ、その通りだな」くらいのものだった。何か物申したいことがあったとしても、それが人を傷つけなかったり、対立を巻き起こさないものであったり、あるいは下品でない言い方で表現できるのならその方がいいというのは当たり前だ。でも、既にいくつか指摘があるように、この言葉に「正常性バイアス」という視点を加えるとけっこう危ないものに見えてしまうのである。

たとえばいま、僕たちはマンガを読んだり、ゲームをしたり、見た映画についてああだこうだと盛り上がる権利を有していて、四六時中その権利を行使しているので、それが「権利」だということについて意識する時間はあまりない。それはちょうど、いつでも呼吸をできるのに空気の存在を意識しないことと似ている。

でも、最近はこの権利がほんのちょっとしたことで揺らぐ出来事が続いていて、たとえばコロナウイルスの影響で各種の文化的なイベントが相次いで中止になったり、ちょっと目を離した隙に香川県ではゲーム規制条例が施行されていたりする。こういった環境的な変化と「自分がその権利を行使すること」を同じ次元で捉えていてよいのだろうか、と思える。

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