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批判はいつから「悪口」になったか?

2017年、今井絵理子参議院議員が都議選に向けて「批判なき政治」というスローガンを掲げた際、批判という言葉の中から「思想や見解、構想、システムに対する改善案」という建設的な側面が消えつつある事実が衆目のもとに晒されることになった。

当時、この言葉が本当に意図していたところに対する推測としては「ほとんどネガティブキャンペーンや人格攻撃と同一化している政治活動をもっと生産的なものにしたいというものではないか」という見解が持ち出されたが、恐らくそれは正しいだろうし、またこれに対応しての「ネガティブキャンペーンや人格攻撃の目的で繰り返された”批判”そのものが批判の意味から建設的な要素を排除してしまったのではないか」という内省的な解釈も正しいように思える。

ともかく批判という言葉の意味は少しずつ「非難、中傷、難癖、八つ当たりのクレーム」というようなネガティブなものに変化していったのだった。



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△自我と行動が結びついているために、批判はすなわち人格攻撃になる



「批判」が「人格攻撃」と同一化しているという理解は多分野でみられる傾向としてある。ネット上のイデオロギー抗争はほとんどこの構造に集約できて、政治的右派と左派、保守とリベラル、オタクとフェミニストといった形式上対立している集団同士の論争では、どんな発展的な視点を含む提言もその「部分的な否定」じたいが槍玉に挙がり、いっそう断絶が深まる結果となりがちである。ここでは違う立場にある両者の対話が最終的には互いの共通の利益を目指しているという前提がなくなり、ただ「全面的な肯定」ではないという事実によって敵対の条件が整う。10年、20年前のネット文化でも「批判」と「人格攻撃」が同一化する傾向は既に見られており、たとえば「殺人はよくない」と言った人があれば「あなたは過去に万引きしているからそんなことを言っても説得力がない」とされ、「殺人はよくない」という主張自体が無効にされるという具合だった。この「主張の内容が(本来関係ないはずの)発言者の立場、過去の言動と結び付けられて無効にされる」というプロセスは「ブーメラン」という死語で説明される。自分で言っていることが自分に返ってきている、という指摘は、人が自分の意見を(対話や反省を通じて)修正したり転換するのは間違っていることで、意見は「自我」と強固に結びつけられたものである(そしてそうでなければならない)という前提に基づいている。

また、SNSの発展によって創作の分野でも「批判お断り」のスタンスがこれまでよりも強固に擁護されることになった。ファン以外の第三者からの批判は、たとえば「これは盗作ではないか」というような妥当なものでさえ、「あなたはそう批判(単に悪口を言って邪魔することを指す)することで自分の嫉妬を晴らしているだけだ」と、言動や指摘をその人の自我や利害と連動させて分析することによって無効化できる。

この、「指摘している人の個人的な事情」を見破れば指摘が無効化されるという論理は上述の右派と左派、保守とリベラル、オタクとフェミニスト…といったイデオロギー抗争でも存分に活かされていて、要は相手の出自を見破るだけで「あなたがそう言うのはあなたの利益のためでしかない」というふうに納得することが可能で、いかなる批判も撥ねつけることができるのだ。


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