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【礼拝説教】塵から萌える芽

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2023年2月5日@三瓶教会の説教です。
録音はありません。


<聖書>

コリントの信徒への手紙一 4章11節〜13節
ルカによる福音書8章4〜15節

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>

「教会の説明」ではダメなものとされた種だけど、それが他の野の花、それから空の鳥の生命を支えるものとなって、イエスのあのお話のスペシャルな裏方へなれるのさって裏話があるんだって。

これは私のつくった話ですが、でも結構、自信あります。もしも、イエスさんが本当に、福音書後半の教会の説明の通りに思ってこの話をしていたとしても、「食べられる種があるからキミの名作「空の鳥を見よ」が成立するんだよ」って言ったなら。それはきっと「子犬もテーブルから落ちるパンくずはいただけるから」って食い下がったあの人(マタイ15:21〜28)と同じように、福音書のどこかに登場できたかも…なんて。

いや、でもあまり笑えないかもしれません。こういう話が福音書に記録されておくべきだったと、今の世界を見て思ったりするんです。キリスト教徒が他宗教徒を圧迫してきた時代のいかに長いことか。今日読んだ聖書箇所が、そのキリスト教徒の横暴をどこか後押ししてきてしまったのではないだろうか。よく育った株とされたものが、そうではない株を価値の低いものと見てよい…というような、そういう思考回路に陥っていなかったかどうか。

結局それって、優生思想やエイブルイズム(健常者至上主義)に近いように思いますよ。
 


さっきから「教会の説明」という言葉を何度か使っていますが、今日の福音書の後半のたとえ話の説明部分は、教会による説明と言われています。おそらくイエス本人が言ったわけではないだろうというのはよく聞きます。しかし、こういう説明をしてもらえる人たちは特別に許されたことで、他の人は秘密にしたままにさせられると書いてあります。なんというかとっても怖い内容です。そして、教会が他の人々に対して横暴に振る舞ってきたことを思いますと、イエス本人の言葉ではないと説明はできても、この言葉が作用してしまって世界に悲しみが作られてきたところは否定できないし、「イエスじゃない」というだけで免責されるのかって悩ましいです。というか横暴は現在進行系で。数年前、とある神学校教授が「私たちの周りに居るのは、なぜ自分たちに救いが必要なのか、皆目分からない人たち」と言ってしまっているのを聞いたことがあるんです。なんというか、かなりおこがましくないですか?教会が設定した「救い」を得て、それで他者をそのように言うようになってしまうというのであれば、それってどのあたりに救いがあるのか…。
 


むしろ私たちは、この説明書きによって、広がる新しい枝を見逃しているんじゃないでしょうか。パウロは自分を「カス」と呼びましたが、しかしその「カス」からキリスト教は形作られたものが大きいわけで。育たなかったと思われた種から実は何か咲いているということを見逃しているんじゃないでしょうか。折られたと見られたイエスが終わらない生命を示した。そのことを見逃しているんじゃないでしょうか。説明書きが過多になって、それで、想像力を失うということ、自分で考える力を失うということ。実はあるんじゃないでしょうか。
 


「説明過多による根腐れ」ということで言えば、そしてその教会が恵みを独占していると自己理解しやってきた世界を不当に支配する行動の数々を思えば、「見ても見えず」に当てはまるのはむしろ教会の側だったんじゃないんでしょうか。聞くには聞くが、その説明ばかりを求め、イメージを膨らませていくには至らない。そしてその説明を唯一の答えとする。それは、育っていく神の国を理解していない、ということになるのでは?神に立ち帰っていないのは、むしろ恵みを独占するという思考の、排他的原理主義に陥っている教会になるのではないか。この言葉は、「教会は自らの罪深さに向かい合え」という意味として今は受け止められなくてはならないのではないか。
 


むしろ「教会の外」からの声が教会を新生させてきました。そうであれば、全員がキリスト教徒にならないためにイエスがたとえ話を語った、というのは本当かもしれません。それは、救われる者を選り分けるためではなく、みんなで一緒に救われるためです。この世界の全員がキリスト教徒になっていたら、私たちはこの世界を修正する力を失っていたかもしれません。キリスト教徒が多数でありながら、そのキリスト教徒同士での人種差別がまかり通り続けているという現実を見るとき、またキリスト教徒が多数の国同士での「全面戦争」が現在も続いていると報道を聞くたび、そう思わざるをえないのです。「何者かであれば救われる」という思考から解き放たれるためには、その「何者」に当てはまらない人との出会いが求められます。
 


パウロにとって、それはアナニア(使徒9章)や、旅の途上で出会った人たち。ペトロにとって、それはコルネリウス(使徒10章)。イエスにとって、それは「子犬」の話をしたカナンの女性。パンチネロにとって、それはルシア(『大切なきみ』)。マーティン・キングJr.にとって、それはマハトマ・ガンディーやマルコムX。オサジェフォ・ウフル・セイクウ(アメリカ、チャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライスト牧師。ミズーリ州ファーガソンでのマイケル・ブラウン殺害事件への抗議運動で教会の嫌う文化の中にいる若者たちと出会い「私はファーガソンのストリートにボーン・アゲインした」と言う)にとって、それはストリートの若者たち(『ヒップホップ・アナムネーシス』収録の説教)。

キリスト教徒はむしろ、実らない株とされた人々のように、あるいはそのような人々と共に生きていくというイメージを持つのです。イエス自身もそのように見られていたからです。そのほうがかえって、みんなが、実りも得られる、実りを見つけ出せるって感じ、しませんか。「規定通りの実りがないとダメ」だと緊張してしまうでしょう。その縛りから解放されるという方向性が、イエスの目指したものです。ダメとレッテルを貼られるべき人など誰もいない。「悪人にも注がれる雨」なんだから大丈夫です。
 


種のまま鳥に食べられる?ノープロブレム、それだっていのちを支えてる。この神の国から漏れるものは誰もいないのです。 


<参考資料>

山下壮起・二木信編『ヒップホップ・アナムネーシス』、新教出版社。


<アフタートーク的な>

今回も、前にした説教の一部を使い直しました。この聖書箇所は有名ですが、難しいな…といつも思います。しかし、何がよい実りか、ということも実はよくわからなく、ただただ「忠実」であればいいのかはかなり疑わしい、というところを、この先も大切にしたいと思います。

さて、このアップロードが週の後半になってしまったのは、火曜日に師匠筋の牧師が帰天し、そのお別れに行ってきたということが関係しています。私は大学院の2年間、その人が主任担任教師をしている教会で神学生(いわゆるインターン)をしました。

そのお別れに向かう際、三瓶教会には「まぁそこまで尊敬はしていないんですが」と言って出発しました。私は、礼を重んじる感覚や先輩を敬う感覚が非常に薄いので、基本失礼で馴れ馴れしく、師匠筋に関しても同じということです。ちなみに、彼と初めて会った時・交わした会話は、教区総会のスタッフバイトをしたあとのお疲れ会の席で、「もう着ない服あったらください」です。まぁ教会観に関しても、彼は割と現実主義、私は夢想家という感じもあり、「私はこう!」みたいなところはずっと持っていました。

しかし、そういう「忠実なる者」とは程遠いじゃじゃ馬の私をおおらかに見守ってもらい、無理やり矯正されなかったありがたさを感じています。私が今のようなスタイルで礼拝の話をするようになったと知った時も、「5年目にしてスタイルを確立してきたね」とニヤニヤするだけでした。
そんなこともあって、師弟で同じ説教集シリーズ(新版・教会暦による説教集、キリスト新聞社。私は1巻のアドベント・クリスマス編、彼は2巻のレント・イースター編)に登場させてもらうという、少し誇らしいひとつの到達点を得ることができたとも思っています。けいたさん、ありがとう。


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