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【発表原稿】Jへの伝言(2023年5月4日四国教区青年集会)


<はじめに>

この記事は2023年5月4日に開催された四国教区青年集会の発表原稿です。依頼時に、自分自身の経験や自分史を話してみてほしいと受けましたので、教区や教会のこれからのためのビジョンを話し合う材料にしてもらうことを願って話しました。実際には開始時間が遅くなったりと、協議の時間はあまり持てませんでした。
それぞれが私自身を培ってきたものであり、今、そしてこれからの自身の基本姿勢の基にもなっていることです。このような宣教観もあるのだと思って見ていただけるとありがたいです。また、読者の皆さまの宣教観も聞かせていただけますと、またマッシュアップして、新しいリミックス的な宣教の歌を響かせることができるかと期待しています。

当日はスライド資料も用意したため、一部分かりづらいところがあるかもしれませんがご了承ください。


<発表原稿本文>

1.根っから陽気に出来てるの

①  呼び方について

小野輝です。できれば「小野さん」とか「ヒカルさん」と呼んでください(「先生」と呼ばれるとむず痒くなってしまいます。つまり、「小野ちゃん」「ヒカル~」とかは構いません。ですが、皆さんが「先生」と呼ばないと違和感が凄まじいということであれば、その違和感を押し付けるつもりはありません。自由にお願いします。)。上下関係の厳しい部活動は時代遅れとなっているのと同じように、「教師/信徒」の関係についても、その権威や教える/教えられるという上下関係に見える関係性というようなものは宣教/伝道の面から改善したほうが現代とよくマッチすると思っています。具体的には緩めのサッカー部方式というか、だいたい「〇〇くん」、ちょっと上でも「〇〇さん」(〇〇に当てはまるのがニックネームだったりする)くらいの呼び方が浸透するのがいいんじゃないかと思っていて、先日の総会なんかでも、どの牧師に対しても「〇〇さん」と呼ぶようにしています。(ただし、小中、野球部補欠でしたし、呼び方・敬称は細かな一つの例であり、すべてではないとも思っています。)
 

②  普段の自分

いまのを一つの例として、基本的に軽いノリの人間であることは、今日のお話のタイトルとそれぞれの項目を見てもらったら、悟ってもらえるんじゃないかと思っています。この計画全体をつくった準備委員会の、Kさんからは、高校生からベテランまでと年代のレンジが広いと伺っており、いっそのこと、ポップソングの中でもはやクラシックというほどの作品のタイトルや歌詞を借りることで、ご自身がリアルタイムで知っていたという人、私のように父親がカーステレオで常にかけていて憶えたという人[1]、最近、新しいカバー曲なども含め歌番組で流れていて知った人、とそれぞれにお楽しみいただける可能性があるかな、と思いましてやってみました。
普段のことも自己紹介的に言いますと、高橋真梨子を聞くのは時々で、よく聞くのはヒップホップ、ロック音楽という感じです。もともとロック音楽は好きでした。ヒップホップは、妻が好きで、まぁ当然当時は妻ではなかったのですが、彼女と仲良くなりたいというところから聞きはじめ、今となっては「わたしの趣味を取らないで」とクレームを付けられています。『福音と世界』のヒップホップ特集(2020年6月号)から聞くようになったMoment Joonのライブ配信はよく見ますし、説教での引用回数圧倒的ナンバーワンで、聖書の歴代誌や民数記あたりと比べたら当たり前に多いですし、もしかしたらイザヤ書と同じくらい言及回数が多いかもしれません[2]。
他、趣味は将棋やスノーボードです。対局してくれる人、一緒に小田深山や久万高原、(まだ行ったことないけど)石鎚に行ってくれる人が居たらうれしいです。特に昨シーズンはもうすぐ5歳になる子が、そのくらいの年齢当時の私と比べて圧倒的な滑走スキルを持っていることを知ったので、ぜひうちの子と一緒に滑ってくれる人がいればと思っています[3]。

[1] これも小さなことではありますが、私のストーリーということですので、こういう見出しにしてみたという感じです。
[2] モーメントに限らず、商業音楽であっても、アーティストの背後に預言者性を感じることは少なくありません。
[3] なぜこんなことをわざわざ言うのかというと、スキー・スノーボードの自由さは、私の考えに影響をもたらしていると考えているからです。

③  教会から受け取ったいろいろ

少し説教の話に戻りますが、突然キーボードを弾きながら歌いだしたりとか、詩の朗読、音韻や言葉遊びを意識しながらのポエトリーリーディングのように語ったり、ニュース報道のような設定を作って演じてみたりと、結構やりたいようにやっております。この辺りも「まぁやってみようか」という陽気者マインドがそうさせているのでしょうか(ちなみに、説教時間は基本10~15分、20分を越えるのは稀ですので、教区の牧師の中で最も説教時間が短いんじゃないかと思っています)。
ただ、自分をこのようにした原因のひとつじゃないかと疑っている出来事もあります。高校生の私が衝撃を受け、今も鮮明に憶えているパフォーマンスを礼拝メッセージでやった人がここにいます。Kさんです。当時、敬和学園高で寮生活をしていた私は、2年生くらいから新潟教会に行くことが増えました。当時牧師だったのがKさんでした。ある年の、たしかアドベントを迎えるころ、主日礼拝前半の、子ども向けのショートメッセージのコーナーで、しゃべらず身体で表現してみます、というようなことでだったのか…、Kさんはとつぜん礼拝堂の段上周囲を、ゆっくり黙って歩き始めました。最初しゃがんで、だんだんと背を伸ばして。それでまた説教壇のところについたら、お祈りをして、そのメッセージを終わりました。今でもなんだったのかわからない。15年以上なぞのパフォーマンスとして記憶され続けています[4]。
私は教会で育てられたという現実があって、そして、これまでの生涯、旅人(外国暮らしをしたことはないけれどある種の移民)として渡り歩いて来る中で、今の話以外にもたくさんの教会(キリスト教/関係施設)から受け取ったものがあります。そしてそれらがミックスされて「新しい歌[5]」になっていくという思いも持っています。

[4] もしかしたら、衝撃が強すぎて、「謎」とインプットされたがために詳細を「より分からないように」記憶していたかもしれません。15年以上前なんでKさん本人も憶えているか分かりません。
[5] 歌詞や旋律自体新しいこともあれば、それらのどこかは同じでも、違う受け取りかたができるという新しさを経験することもあるでしょう。

④  今日全体のテーマとこのおはなしの関係として考えていること

この青年集会全体のテーマも、そのような自分なりの新しいリミックス曲を作っていく素材を提供し合うということだろうと思います。新しくなるための出会いをここで経験できればと考えています。その一つの例ということで、自分がこの生涯で教会から受け取ったいろいろをセットリスト的に述べていきまして、その上でそれらを一曲にギュッとマッシュアップ[6]したようなビジョンにも触れてみたいと思います。

[6] 2つ以上の曲を組み合わせて一曲にする手法です。

2.今度のバスで行く、西へも東へも

①  名寄(北海道道北地方)

私は北海道名寄市で生まれました。名寄は、旭川の北60キロくらいにある町で、教会のベテラン勢向けには次のように説明すると通りがいいと思います。『塩狩峠』の永野さんが、あの日、出発した地点。だいたいわかったでしょうか。両親がキリスト教徒でした[7]ので、日本基督教団名寄教会が初めて足を踏み入れた教会であり、関係幼稚園である名寄幼稚園が出身園であり、ここが受洗教会でもあります。地区の集会かなんかで、別室待機していた幼稚園~小学生の子どもメンバーでふざけてパンツ一丁で会議場に突入するという行動をしたりもしましたが、そこでどやされることもなく、のびのび育ててもらいました。子どもが中心になるというのは実はすごく難しくて、部屋の隅っこで大人を邪魔せずおとなしくしている限り存在を許可されるという事例が大半じゃないかと思いますが、「子どもに邪魔されるのを嫌がらなかった大人たち」というのが、私の教会の原体験と言えるでしょう。
また、北海教区道北地区には『教会教を越えて』(日本キリスト教団出版局)というテーマワードが眠っていました。1950年代から約30年間、カナダ合同教会から名寄へ派遣されたフロイド&ドリーン・ハウレット宣教師は、道北センター(道北クリスチャンセンター)を設置し[8]、周辺の教会活動を支え、農民のネットワークを構築するような働きをし、今もそれが継続されています。

[7] ちなみに父親は高知教会の出身で、今も高知教会には一族がたくさんいます。 
[8] 実家はこのセンターの向かいでした。

②  敬和学園高(新潟県新潟市)

15歳で名寄を出て、新潟の敬和学園高に行きました。この高校の存在自体、教会で私たちの面倒を見てくれた兄さん姉さんがこぞって行っていたというところから知りました。ずっと私のヒーローだったあの人たちが、楽しみまくっている様子で帰省してくる「敬和」とは一体どんなところだろうか。そういうところから自分も行ってみようと考え、寮に入ることにしました。そこで体験したのは、さっき話した新潟教会でのKさんの謎パフォや、「信徒力」という雑誌企画[9]で特集を組まれるほどの新潟教会の、人に対する温かさとそこで自己肯定感を得た人たちの姿などたくさんあります[10]。その一つは合唱クラブで、祈りを込め歌で表現するということを体験的に知ったというものでした。その辺りから発展して、合唱コンクールは賛美歌を選んでアレンジし歌うというものだったのですが、「さやかに星はきらめき」を後ろの合唱隊に歌ってもらいながら、何人かソロのハモりパートにまったく違う歌詞を入れ、それをセリフとし、聖誕劇を完成させるという仕掛けをつくりました。「コレはやりすぎじゃないか」と職員会議、ちょっと揉めたんだぞ…とコンクール実行委員会のため陪席していた同級生に呆れられたりもしました。そしてそこまでしたのに、大賞は取れませんでした。

[9] 『Ministry』2014年春号、キリスト新聞社。
[10] 一例を言うと、ある方が初めて礼拝奏楽を担当したとき、ミスタッチが多かったのですが、最後の報告で、その方が別件の話をした後、「今日は緊張しちゃって心配かけました。またがんばります!」と明るく話していたのは、なんという信頼感だろう!と印象的です。

③  関西学院大学(兵庫県西宮市)

高校卒業後すぐに、関西学院大学神学部に行きました。実は、中学卒業のころ、一緒にトランプゲームをした牧師がやたらと「大富豪」が弱くて、「また負けた~」と言っているのを見て、子どもとカードゲームをして負けることが仕事になるということもあるのか、(後になって学んだ神学によって整理した言い方で言うと)弱いということが価値の高いことになるのか…と感じ、それ以来、牧師という生き方をしてみたいと思っていました。しかし、聖書の排他的に見える箇所が悩みのタネで、人とともに生きる生き方として牧師を目指したいが聖書は嫌いというデコボコな状態だったと思います。ただ、ここで批判的に読んでも、聖書を貶めることにはならないと受けとめることができ、少し肩の荷がおりました[11]。また、専攻は古代修道院にしたのですが、このとき、聖人たちの言葉がカトリックだけにとどまらずキリスト教会全体の共通財産であると知ったことは、「教会の公同性」(普遍性)についての考え方に影響していると思います。また、物心両面の福祉的機能を持つ教会という古い知恵が眠っていることにも気づきました。
また、この間に通った教会は東神戸教会と神戸東部教会で、子どもたちが「おのくん」と年齢関係なく付き合ってくれたことに、さっき話した原体験を再度味わいました。そしてもっと上の世代のおじさんが同じように子どもと遊んでいるのを見たとき、こういうおじさんになりたいという思いが中間世代の自分の中にあると気づきました。

[11] ただし、今も排他的原理主義というような読み方で、他者を貶めることを福音と教える教会に対しては「それはマズイ」と発信していくでしょう。そういう運用がまかり通っている現状も考慮せざるを得ないので、「聖書を簡単に全肯定できない」という思いは持ち続けると思います。

④  三次教会(広島県三次市)

2013年に神学校を卒業し、広島県三次市の三次教会主任担任教師になりました。ここ得たのは、人をお客さんとして招こうとするのではなく、どのようにして協働者になっていくことができるかという視点です。それは、同世代前後の人たちに限らず、小中学生についても同じことでした。信徒でないメンバーに、「手伝って」というと喜んで教会に来てくれるというわけです。同世代の青年たちには、クリスマス時期の即席聖歌隊に入ってもらう、小中学生には、役員会の間のベビーシッターを頼むという感じです。また、最後まですんなりといかなかったところがあるのも現実ではありますが、牧師職務に「信徒の主体性を引き出すコーチ」という意味づけを見出したのも、この期間です[12]。これも協働者という話は関わっています。
また、2020年に『新版・教会暦による説教集』というシリーズ共著説教集に参加させてもらいました。私にとってはとても貴重な経験とは思ってはいますが、版元のYouTubeチャンネルの宣伝動画で「賛否両論」と評されてしまいました[13]。<動画> 褒められているのか貶されているのか…。どうも聞いた話では、編集会議でこれを載せて良いものかと意見が割れたとのことです。もう出版まで1ヶ月切ったところで、編者・越川弘英さんから、「本当にこれで行っちゃっていいんだよね?」という電話もありました。「取り下げます」と言ってほしかったんでしょうか。版元の編集会議を揉めさせてしまうという結果になってしまいました。なんかやろうとすると揉めごとを起こすのが自分あるあるになっています。 

[12] 道北センターや名寄教会の取り組みを聞き、聖書と人との対話はいくつかの質問に集中していく(例:この聖書が、結局のところ私という人間に何を語りかけているのか?)のだと気づきました。そのような質問群を用意する祈祷会を前任教会で企画したところ、参加者の一人は分区の交換講壇のメンバー入りをしたほか、教区の出張可能説教者名簿(「タラント名鑑」と呼んでいます)への参加を希望するに至りました。
[13] いのフェスチャンネル「『新版・教会暦による説教集』シリーズ刊行記念 編者・越川弘英さん(同志社大学キリスト教文化センター教員)インタビュー(後編)」


3.気がつけばさびしげな町ね、この町は

①  地方民の「引け目」

いくつかの町を渡り歩いてきました。大学時代を除き[14]、都市に住んだことはありません(新潟市は政令指定都市ではありましたが、敬和は町中までバスで50分とかかかるところでしたし、門限の関係で自由に出歩けませんでした)。最近まで住んだ三次市は人口が5万人程度の小さな町です。名寄は3万弱。そして今いる宇和島は7万、職務教会がある三瓶町は6000~7000、西予市でみても3万。ずっと地方民として歩んできました。それも、地方都市まで90~120分以上かかるようなエリアです。なので、地方民ですという人の住んでいるところが10万人以上の街だったり、片道60分以内・電車1本で200万人以上の巨大都市まで行けるところだったりすると、すごく都会人に見えます。漫才師ウエストランドがM-1グランプリチャンピオンになったネタは、周りを傷つけると評されましたが、その中で井口さんが言った、「地方民が持つのは「引け目」」という言葉、個人的には正しいと思います。その点に区切ってですが、代弁してもらった安心感を覚えました[15]。

[14] 18歳までの過ごし方が影響するのでしょうか、都市の遊び方を知りませんで、例えば好きなアーティストのライブに行くとか、別世界のことでした。
[15] あのセクションに関しては相方の河本さんのほうが、むしろ構造的な格差に無関心な人々を表現しているように見えました。

②  三瓶教会

現在の職務について話していませんでした。三次教会にいた9年間の後半は、宣教のテーマとして「公共性」を考えることが増えました。教会内をどうするかというより、この地に人が住める時間はあとどれくらいかを考えるほうが増えたということです。教会の働きが「物心」の「心」に偏りすぎてきて、このような局面になっても同じ教会組織を維持するための話がどうしても出てきてしまうけれど、特に地方においては教会が地域を作っていく視野を持つ必要があると考えるようになりました。物の支援を牧師のみに集中させやすい「謝儀」の方式自体ももう再考したほうがいいと考えています。
そんな中で、年間の町内出生数が10~20人ほどの区域で、幼稚園を運営している教会に赴くチャンスをもらったことは幸せでした。複業型の職務形態も、先述の教会システム再考の足がかりになると思いました。「フロンティア」という言葉を使用するのは非常に注意が必要ですが、教会がもう一度、福祉的機能を持ち直して地域と共生するために生き直す最前線という意味、かつて同化政策的な意味を持ち暴力的だったその言葉を新たによみがえらせるという意味で、未だ見ぬ約束の地の幻影を見ています。
具体的には、娯楽の少ない地域で子どもにとっての遊び場の確保、またその中で自分の新たな可能性に気付けるような仕掛けとして、クラブ・ダンスホール・カラオケ練習場的な礼拝堂の使用[16]、ボードゲームコーナーの設置という腹案を持っています。また、信徒でない人への支援機能をどう作れば、強制性を伴わずにお互い良い形で関係を持てるのか辺りを考案中です[17]。戦略的に考えても、「町の未来」というのはおそらく住民共通の課題なので、ニーズが眠っている可能性は高いと考えますし、そこで「信徒にはならない支援者」を得ることもできるかもしれません。
またこのような、町の未来を作り出すというところには、私の前史という言い方ができるでしょうか、ミクロネシア連邦ポンペイ島(ポナペ島)の宣教師の働きがあります[18]。私の父は、同地に宣教師として派遣されていた荒川義治さん・荒川和子さんのヘルパーとして、合計3年くらい、教団の信徒宣教者として派遣されていたことがあります。彼らの主な働きは、オア・ディベロップメント・プロジェクトと名付けられた地域の生活向上のための農業開発と学校設立計画のヘルパーでした。元々、日本も含め数々の国に支配されてきた地域で、島のほとんどがジャングルの、斜面の多い地形でしたので、自力で安定的な生産を得られる農作物があまりなく、輸入に頼らざるをえず貧しい国となっていました。そこで、胡椒や養豚などを指導していきました。豚は島民を支える主な肉、胡椒は一度、ある航空会社の機内食の材料に選出されるほどになったそうです。また、学校は戦前中の宣教師滞在のころにあった学校を再建し、農業科と普通科のハイスクールとなり、島民の教育に関わりました。この働きのための短期ボランティア(ワークキャンプ)に母は参加し、そこで父と出会い、帰国後結婚しました。

[16] とりあえずDJターンテーブルだけ買いました。カラオケ用マイクはどんなものがいいか考え中なので、詳しい方、教えてください。(追記:いわゆる「58」を一本買いました。)
[17] この話の原体験は、大学進学時に教科書代を支援してくれた新潟教会若木の会の皆さんです。
[18] 中村敏『日本プロテスタント海外宣教史』(新教出版社)という本に活動の概要があります。

4.私は私の道を行く

さて、今まで話してきたことをまとめると、次のようなテーマワード群になってくるかと思います。

子どもの権利、教会の公同性と公共性、町の未来、教会教を越える 

そしてこれらを統合して見えてくるテーマワードとして、「教義ではなく正義を追求する」を最近は考えるようになってきています。先日の「教団新報」の巻末コラムで藤盛勇紀さん(富士見町教会/教団副議長)が書かれた文は、このような私の思いを、直接的に聖書を引用しながら的確に語る内容でありましたので、ご紹介します。

(日本で生きる人々の自己肯定感の低さを述べ、「野の花、空の鳥」の聖書箇所を引用した上で)「信仰の薄い者たちよ」。イエスが問題にしている信仰は、唯一の神の存在を信じるなどといったことではない。「あなたがたは、鳥よりも価値があるものではないか」、「あなたがたにはなおさらのことではないか」、それを知らないのか、と主は問うておられる。萌え出るような命を、私たちは現しているだろうか。 

藤盛勇紀「命が萌え出す春」、『教団新報』第4995・96号(2023年4月22日)。

キリスト教が「物心両面」の正義を達成するためには、もう少し「物」の方にこだわって行く必要性を思います。イエスさんは庶民・貧しい人々の生活のためなら教義を新しく言い直し、本来の教義の意味をも取り戻す人だったと思っています(「安息日は人のために」など)。私の「Jへの伝言」は、だからこの道もまたキミにつながっていると信じているんだよ、ということです。
もちろん、これらを達成するためには、いわゆる迎合ということではなく、新しいように見えて実は普遍的であるというアップデートされた価値観の提示を求めなくてはならないと思いますし、そのために自己改革が必要なところも多いでしょう。正義のために教義を新しくすることができるかどうかが問われていると思います。『ヒップホップ・アナムネーシス』という書籍に収録されている、オサジェフォ・ウフル・セイクウの説教「ファーガソンの前線より」は、このことを的確に言い表しています。
 

アメリカにおいて馬鹿にされ、見下される若者たち。かれらの腰パン、かれらの口汚い言葉遣い、かれらが聴くラップ・ミュージックを、わたしたちは嘲笑の的にしてきました。(……)しかし、この若者たちこそがこの国の救いなのです。(……)
わたしたち宗教者が直面している問いとは、(……)神は腰パンの格好をしている、神は顔にタトゥーを入れている、そして神はクィアであることを見出すことができるかということです。(……)神はすでにそこに臨在し、この若者たちの生において働いておられます。

オサジェフォ・ウフル・セイクウ「ファーガソンの前線より」、『ヒップホップ・アナムネーシス』、新教出版社、86~105ページ。

これが、今までの経験をマッシュアップしながらの、私なりの新しい歌です。私の道、と言いながら完全な自分の発明ということはないのです。新しくなるためにこのような交流の機会はどの人にとっても有益だろうと期待しているのです。
 

5.友だちならそこのところ <そっと受けとめて>

さて、皆さんには、これといった実績の少ない(唯一のそれと思われる共著も揉め事のタネになっちゃった!)私の自分史を聞いてもらうという、考えようによっては結構退屈な時間を過ごしてもらっています。しかし、イエスの目線を通して得られる聖書の価値観から言えば、名もなき民衆のそれぞれのストーリーが改めて価値を持って語り出されるということは、おそらく神の国の情景の一つと言っていいのではないかと思います。イエスと出会った多くの人が「あなたの信仰があなたを救った」と言われていて、そこに、「キミの信仰は世界に記念されておくべきだ」という意味を読み取れるように思います。より直接的なのは、「この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14章)でしょう。そもそも聖書にはアモスのような一介の農民と自己紹介する人による本や、第2イザヤと言われる誰の言葉なのかよくわかっていない部分もあり、聖書自体が無名の民衆のストーリーを記録しようとした集成です。
ですから、私たちの物語も、聖書の続きの物語として語っていいはずです。それは、虐げられた人々の命の価値を世界に思い出させることでもあり、マーティン L. キング風に言えば、「自由の鐘を鳴り響かせよう」ということになるでしょうし、今回のおはなし題のように阿久悠作品にかけて言うと、「あの鐘を鳴らすとマラナ・タ[19]」となるでしょう。私たちそれぞれの道がイエスにつながっていくという信頼を持って、自分の道をイエスに届ける祈りの言葉(Jへの伝言)として、今日、重ね合わせていきたいと思います。
 
お互いにストーリーを受けとめあうとき、ここに友情が(新しく・改めて)生まれて、約束の地の色彩の一つを表してくれることでしょう。

[19] マラナ・タは、「主よ、来てください」という意味。「自由の鐘を鳴り響かせるなら、その日が来るのを早めることができるでしょう。」という「わたしには夢がある」の一部分からの連想です。


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