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【礼拝説教】オレらは勝ち取る、人間であることを

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は2023年1月15日@三瓶教会の説教です。
録音はありません。

2022年1月16日に私がした「オレと行かないか?」という説教を全体として下敷きとしておりまして、そのリミックス版というような感じです。
締めくくりで参考にしているオーティス・モス三世の説教に関しては、当日週報のコラムにて当該部分を紹介し、それがM. L. キング Jr. 「わたしには夢がある」を元にしていること、この説教をした日はキングの誕生日であることなども合わせて記しました(下の画像)。

<聖書>

ルカによる福音書5章1〜11節

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>

投げ捨てたのは、本当に網なのか。いや、彼らがつきまとわれている「偏見」という名の足かせではないのか。もし、ここでイエスが、ペトロたちが漁師であることをやめさせていたとしたら、イエスってのも世間様とどう違うの?今の生き方やめたら人間として認めてやるよ、みたいな構図、何も変わらない。そしてずっと変わらないできた。教会の中でも。

いや「人間として認める」というほど露骨じゃなかったかもしれないけれど、でも最近になっても、例えば雑誌記事で、日曜午後に友人と遊園地に行ったというだけで小言を言われた~とかの体験談を見かけたし、日曜が休みの職業選びが望ましいとか言われたりもするらしいし。つまりが、教会が設定する「いい子」って枠が存在してきてしまったわけですよね。そういう状況で、この物語は、特定の「いい子」枠を強化する方向に作用してしまっていたんじゃないだろうか。貧しい人々に向かって、君たちが変わらないといけないと発信してきたんじゃないだろうか。

「ある人々は天国、他は地獄」。これだってそうですよ。地獄にいるとされた人びとを見下すしか天国に入る方法はない。地獄に残された人がありながら、喜べる?それをこそ地獄と呼ぶんじゃないんですか?奴隷制の時代、ある人が教会の椅子に座り、教会の外に待たせている御者たちの肌の色を見下し…。そこで聞く話は分けることが神の御心って内容であり…。そういう地獄が教会を舞台に再生産されてきた。奴隷制が終わっても、貧しい人々、虐げられた人々は、ありのままでは認められず、従順に、権力持つ人々の機嫌を損ねない限り生存を許可される。たとえば、掛け算や割り算より先に、警察を刺激しない振る舞い、名前を言うときから手を上げる…をマスターしてしまう黒人の子どもたちが現代でもいるわけです。日本でもあります。外国ルーツ者は世間のイメージ通りのキャラクターを演じることでその場をやりすごす、とか。本当は日本語の方が得意なのに英語で話しかけられ続けるのに耐える…とかね。命をすり減らして笑顔を作る…。

それから…教会内のことで言えば、自らを罪深いと言い、「変わろうと頑張っている人」というポジションを得ることで、原理主義的キリスト教集団で生存を許可される同性愛者。その人たちは自らを他よりも一層罪深いと思い、自らの心を捨て去る祈りをする。それは本人が望んだように見せられていますが、内実的には強制されています。そうしない限りメンバーシップを得られないことが明らかだからです。そしてこの人びとの存在は、周囲の人々が、自らを寛大な者と思い込むためにも一役買ってしまうのです。


ローマ帝国という「世界」の端。属州ユダヤ、そのまた隅っこ、見下された地域であったガリラヤの漁師たち。彼らはいないことにされていた人びとです。そこに同じく貧しい青年が声をかける。いないことにされていた人々が変わるって話だと、さっきまで言ってきた「いい子」の枠を壊すようにはならないんじゃないですか?

むしろこれは、惨めさを分け合う人びとの物語です。人以下と見下されるような環境に生まれた人びとが、人間であることを勝ち取るためにその腰を上げる、つまり世界を覆す。そこで語られる「人間をとる漁師になる」の意味は…きっと。「一緒に、人間であることを勝ち取るオレたちになろうぜ」。


そういう意味合いで考えれば、常識はずれの時間に「試しに漁をやってみちゃおうよ」、っていうイエスの言葉も、「どんどんはみ出していいんだよ、世間が決めた枠組みに収まっておくのはやめようぜ」っていう大きな筋道を見ていくことができるんじゃないでしょうか。


人間扱いされなかった人びとを見つけ出すのが、人間をとる漁師。その人びとの声をすくい上げるのが、人間をとる漁師。そうして、世界にはびこる、特定の人々を人以下とするレッテルを取り払うのが、人間をとる漁師。社会の底辺層に立たせられた人びとのひとりであったイエスとその仲間たちの境遇を思えば、人間をとる漁師であるというのは、彼らが自ら「人間であることを勝ち取る」という意味でもあり、自らの絶望をすくい上げて世界に見せるということでもあります。そして同じように悲しむ人々の絶望を拾うのです。

人間であることを勝ち取るオレたちになろう。それは、漁師である彼らの存在を肯定するということが一緒になっていなくてはならない、と私は思います。すべてを捨てた?何のすべて?漁師であることを捨てたと思わないでほしいです。だって、イエスの死後、彼らはまた漁をしています。少なくともツテや地元の仲間は残していたんですよ。これまでの自分を肯定し、そしてその哀しみを分け合う仲間ができた。それは、同じ生き方でありながら、同じ湖の風景でありながら、同じ通勤の道でありながら、全く違う景色を見せてくるものだろうと思います。自らを取り巻く偏見をすべて捨てるために立ち上がった。そういうことを今日の聖書は言っているんだろうと、私は受け止めています。

人間であることを勝ち取るための肯定の言葉、それが「人間をとる漁師」。「当時は賤業」と時に解説されることもある漁師ですが、漁師が漁師のままで世界を変えるというメッセージが、まことの救いじゃないですか!漁師をやめないとイエスの働きに加われないとするのでは、イエスがそのいのちをかけて語り歩いたメッセージの逆なんじゃないかなと思います。


俺の人生の推しは俺自身。そこで聞こえるイエスのコーリング(召命)。イエスの生き様が私たちの悲しみの中にも宿り、その慈愛は世界を覆い、世界を変える。みんなで上がろう。イエスはそう言って歩きました。だから僕らも神の子どもたちなんだ!

この思いでもって今日を歩いて行こう。自分自身を肯定しよう。自らを立ち上がらせるとき、イエスは近くにいるのだと感じてほしい。この信仰によって、わたしたちは絶望の山から希望の石を切り出すことができるでしょう。この信仰によって、この国に、そして世界にはびこる、教会が作り出してしまったものも多い数々の不協和音を、人間愛の美しいシンフォニーに変えることができるでしょう。この信仰によって、わたしたちはその日を早めることができるでしょう。


その日がくれば、全ての神の子どもたちが…、同性愛者も異性愛者も、シスジェンダーもトランスジェンダーも、地方も都市も、うちなんちゅもアイヌも、日本国籍者もそうでない者も、キリスト教徒もムスリムも、仏教徒もアミニズムも、無神論者も…そうあらゆる人々が互いに手をつなぎ、自由の鐘を鳴らすのです。

その時、懐かしい天のふるさとの歌を僕らはきっと歌うでしょう。「ついに自由だ!ついに自由だ!全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ!」


<参考資料>

オーティス・モス三世「十字架とリンチの木:アマド・オーブリーへのレクイエム」(翻訳は『Ministry』49号、キリスト新聞社。に掲載)

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