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【礼拝説教】翼の幻きらめく朝日(2023年12月24日)



<はじめに>

この記事は2023年12月24日@三瓶教会みんなのクリスマス礼拝の説教原稿です。

アフタートークで書きますが、自分にとってエポックメイキングすぎることになりました。



<聖書・礼拝で歌った賛美歌>

ルカによる福音書2章1〜20節

259「いそぎ来たれ主にある民」
269「飼いばおけにすやすやと」

また、この説教の後で、CSの子どもたちの聖誕劇(私もゲスト出演)がありました。

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。



<説教本文>

「子どもたちの笑顔に、新しい世界の光が輝いて見える」。思い出せる、静かな夜を語るこの歌が戦地を穏やかにしたという伝説。偉大なる規律違反です。でももうそれも100年以上前の話になってしまってる。あのケースは特別?それじゃあ困るんです!また今日も権力持つシオニストの欲望のために子どもたちが殺される。

もういい加減にしてほしいです。武力ででも聖書の字面上の「約束の地」を自分の手に入れるという考え方、シオニズム。そのために差別的な思考を子どもたちにも教え込む。ナチズムと何が違うんでしょう。KKKと何が違うんでしょう。

ユダヤ教でも字面上にこだわっている人ばかりでなくて、約束の地は心のなかに!と考えている人もかなり居るという話は大学の旧約聖書担当教授が言っていたことを本当によく憶えています。

それなのに、この惨状。力を持つ人たちがその権力を好きなように振るう。悲しすぎます。
 


今日の聖書。「ローマの平和」に対する抵抗の文脈です。平和を望んでいないというわけではないです。その話、嘘なんじゃないの?ということです。「安全保障」「治安維持」と言いながら、内実、凶悪な占領…なんてこと、この世界は何世代にも渡って経験してきてしまいました。誰かを犠牲にして、その上に比較的多数者にとっての平穏を作るというのが、繰り返されてきました。これに対する抵抗的な話です。

王宮で生まれないこと。それどころか道端か馬小屋かくらいの場所だったということ。属州ユダヤという当時考えられていた世界の隅っこであるということ。天使がどう言おうが、その話を聞いていない人が大半の地元ではあまり祝福されないようなこともあって、旅先で出産しないといけなかったかもしれないということ。お祝いに来たのは近くの野宿労働者と外国人で、当時どちらも権利をほとんど持たない人々であったこと。強いものが力をふるい小さくされた人々を押さえつけ、平穏を騙りながら、内実、いまイスラエルがガザの赤ちゃんたちにしているような凶悪な占領、凶悪な攻撃を続けている世界。これが新しく変えられていく明日の幻を見るのです。

残念なのは、ここで宣言された「キリストの平和」を「キリスト教の平和」という形でブレブレにして、強いものがただ横暴に力をふるう世界の継続を地球上で最も長く続けてきたグループの代表的な存在がキリスト教であるということです。しかし、私たちはここで、キリスト教徒でない方々と一緒にこの時間を過ごせていることによって勇気を得、世界を新しくする決意をするのです。そして、自らの中にある原理主義的性格、他者を貶めてしまうような部分を新たにされ、本来の祝福しあえる自分を取り戻し、原初の祝福、すべての生命に対する祝福を味わうのです。きっとそこではハトの翼、そして虹がきらめくでしょう。

幻かもしれません。幻想かもしれません。しかし、この傷ついた世界には、夢が必要です。まずはイメージが必要です。私たちはせめて、この世界の傷が癒やされる夢を、破壊が戻ってこない世界の情景という幻を、せめて、夢だけでも、幻だけでも語れないとなりません。
 


子どもたちにお願いします。夢は大きすぎるくらいでちょうどいいです。自分とお友達がより良く生きるためならば、ガンガンはみ出してください。大人の用意する型にハマりすぎないでください。(もちろんその行動で、誰かが不当に傷ついてしまわないかチェックするのは大切です。)幼稚園でも、教会でも、クリスマス休戦のお話をしました。規律違反のはみ出した人たちが、銃を捨ててサッカーし、歌い、笑い合い、誰も死なないという意味で、静かな穏やかな夜を実現したのです。

大人たちにお願いします。未来について子どもたちの夢にだけ頼らないでください。この世界はそのまま子どもたちに託すには傷つきすぎています。私たちがもし、子どもたちの手本になれるとするなら、私たち自身が少しはみ出してみることです。先例から、規律から。はみ出してきた人々が、いつだって世界を変えてきたのです。子どもたちがはみ出していいんだって思えるようにするため、私たちがはみ出して…、たしかに慣れていない私たちにとってこれはなかなか大変なことなんですけど、はみ出して、ずっこけて…というところを見せましょう。もちろん、自分が、そしてみんながより良く生きるため。不正義なことになってないかのチェックに関しては特に大人の経験が生きるでしょう。

そうして夢を一緒に見るのです。「若者は幻を見、老人は夢を見る」。

はみ出すことは恥じゃない。そして祝福には変わりない。教会は、そういう経験、「原初の祝福・神の公正のためなら、どれだけはみ出しても、根本の祝福には変わりない」を味わう経験をいっぱいするところです。
 


私はひとつ、平和と公正の幻を皆さんと共有したいと思い、そしてそのために礼拝・説教という枠組みからはみ出す決意を持って、やってきました。え、小野はまだはみ出す気かよ!?って方もあるかもしれませんが、はみ出せる大人は、それを見せるのが責務と言ったところなので大目に見てください。
 


私たちの原初の祝福を願う祈りを、より具体的なものとする提案をしたいと思います。日本YWCAの呼びかけで、今日「ガザ即時停戦を求める緊急サイレントアピール」をするというものがあります。これに参加するために、今日ここにあつまった皆さんで写真を撮って、教会のインスタグラムにあげたいのです。バナーを用意しました。顔を出すのはちょっと…という方はこれで隠すことができます。全隠しよりは、マスクに近い形くらいまでで留めてもらうと写真的にはありがたいですが。

確かに国家やそれに類する勢力同士のやり取りは複雑です。宗教も時に複雑になってしまいます。しかし、生命はシンプルです。原初の祝福はシンプルです。失われて良いものなどない。大切である。これだけです。
 


ここに、もしかしたら少しイスラエルに親近感を感じている方があるかもしれませんが、その方は賢明な方であると信じます。つまり、どれほど小さく見ても、今のパレスチナ地域の戦場は、「目には目まで」という報復を遥かに越えた惨状となっている点については少なくとも同意し、その意味において参加いただけるであろう、ということです。

そして、ここには様々な宗教信徒、門徒や無宗教者がおられ、尊重しあって生きる空間が実現していると受けとめられます。それぞれ、今後宗教所属は変わることがあるかもしれませんが、そこで無理強いや仲間はずれにするとかはなく、ランク付けや見下しなんかもなく、原初の祝福を味わい、平和に過ごす。そういう私たちと同じように、ガザ地区で私たちと同じく生命を授かった神の子どもたちが、信じる宗教によって争うことなく、穏やかな夜を過ごせるよう、私たちは祈ってきました。

確かに、こじれた国と国の問題は本当に複雑です。しかし、コーネル・ウェストの言葉を借りながら言えば、「パレスチナの人々を、パレスチナの赤ちゃんたちを思うことが他の誰かに対する憎悪だなんて、誰にも言わせない。」この行動は「ユダヤの人々を憎むものではない。私たちが嫌うのは、抵抗するのは、イスラエル政府による凶悪な占領体制だ。嫌うのは、抵抗するのは、ガザに対する凶悪な包囲攻撃だ。」生命が失われないように。そういうシンプルな話です。生命はシンプルです。原初の祝福はシンプルです。失われて良いものなどない。大切である。これだけです。共通善と言える、シンプルな話です。
 


これを私たちがここでやったところで…と思う方もあるでしょう。僕もです。実質的なところを言うと、政府集団に直接的に、ということはまずないのですが、イスラエル政府と取り引きがある、スポンサー的役回りをしている企業からすると「このまま行くと自分の企業の商品売上に影響あるかも?」という感覚がありますので、実は結構嫌がっている部分があるようだ…と聞きます。ただこれもどこまでなのかわかりません。それから、こういう行動ってなんか恥ずかしさみたいなのもあります。それからちゃんと事情を分かってないとしちゃいけない、って感覚とか。でも、生命はシンプルです。それから僕ら自身のはみ出す経験の練習ということにはなります。幻だけでも、夢だけでも描きましょう。この写真で。そういうところで、どうでしょうか。
 


何より子どもたちに同意をいただかないといけませんでした。

今、パレスチナという地域は、特に酷い戦場になっています。争いのリーダーになってしまっている人たちは確かに、どちらにも悪いところがあります。問題はとても難しいです。でも、悪いところがあるからといって、爆弾を落とし続けるのはおかしいと私は思います。だって叩くのは、力づくは、よくないでしょ?赤ちゃんが、子どもたちがたくさん傷ついています。お年寄りもです。病院や、他の国から助けに行ったお医者さんまで攻撃されてしまっています。たとえば、喧嘩した相手を叩くのだってよくないけど、その人の弟・妹(しかもまだしゃべれないくらい小さいね)や、叩かれちゃって怪我した子を手当しようとして来てくれた幼稚園や保健室の先生を叩いているようなことなのね。それがずっと続いています。爆弾落とし続けるのはおかしいよ!と意見を、今日集まったみんなで写真を撮って出してみたいなと思うんだけど、どうでしょうか。ぜひお願いします。

【ここでバナーを配布、下記投稿の写真を撮影した】



<アフタートーク的な>

説教の途中でアピール行動をしようと呼びかけてそのままする(しかもスマホを取り出して自撮りする)という前代未聞?の展開でした。が、礼拝参加の皆さんは、このことに同意いただき、みんなで一つの意識「生命は大切」を持って写真をつくることができました。

「牧師になってよかった〜」と思ったことは何度もありますが、この日も間違いなくそうです。話すのに心配がなかったわけではないですけれど、「聞き手に信頼して話してみよう」と決断したことが誇らしいです。
ありがとうございました!

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