世の中には二種類の人間がいる【日記】
障害者福祉施設で利用者を殴って死なせた男が逮捕された、というニュースを、障害者福祉施設の利用者の部屋のテレビで見る。
この手のニュースは、福祉の仕事に関わる前から苦手だった。
酷い。あまりに理不尽だ。何故そんな奴が福祉施設で働いているのか。理解できない。被害者の痛みや苦しみと、周囲の人間の心痛を思うと涙が出る。そして理解不能な加害者に対して恐怖を感じる。
福祉施設で働くようになってからも、恐怖を感じることに変わりはない。画面を眺めながら、被害者が気の毒で視界が滲んでくる。と同時に別の恐怖が脳裏にちらついて、涙はすぐに引っ込む。
自分が加害者になる可能性が、ある、ことへの恐怖。
加害者に対して完全に理解不能とは言えない私、への恐怖。
反射的に、事件の起きた施設の就労環境について考えてしまう。
加害者は正規職員か? 非正規か? 障害理解に関する研修や指導はなされていたのか? 施設内の雰囲気は? この容疑者だけが異常に暴力的だったのか? 他の職員の介助態度は? 無理な勤務体制を強いられていた可能性は?
次々に浮かぶ疑問が加害者を擁護する方へ向いていくことに気がついてぞっとする。
私と一緒にニュースを見ている利用者は、無反応に見える。
福祉施設で働く前は、自分には障害者に対する差別意識など無いと思っていた。しかしそれは間違いだった。
「健常者のようには出来ない人」「弱い立場の人」と無意識にカテゴライズしていたことに、当事者と関わるようになってから初めて気がついた。
そのカテゴライズは、助けてあげる、教えてあげる、お世話してあげる、という意識へ繋がり、指導者・管理者意識が芽生えかねない。
利用者との関わりに慣れれば慣れるほど、その危険性は増していくように思う。
「言うことを聞かせるために殴った」と供述している殺人者と同じ感情の芽が、私に無いとは言い切れない。そのことが恐ろしい。
私自身の精神状態が落ち着いている時ならば、なんら問題はない。しかし、身体的にも精神的にも追い詰められて不安定な状態、疲弊した状態でトラブルが起きた場合、私は自分の感情をきちんと乖離して対応できるだろうか。
昨夜の私は疲弊していた。
(日)日勤+夜勤
(月)明け
(火)日勤+夜勤
(水)明け
(木)日勤+夜勤
(金)明け
というシフトの、木曜日の夜。
私は半ば朦朧としながら、利き手を骨折している利用者の入浴介助をしていた。
他人に身体を触られることが嫌いな利用者で、身体介助の時にはいつも暴言、暴力が出る人だ。
私も他人に触られることは苦手なので、彼女の気持ちは分かる。
「やめて、触らないで」という意思表示が「死ね」「消えろ」もしくは叩く、蹴るという言動に変換されるだけなのだ。頭では分かっている。
しかしストレスフルな状態でそういう言動を浴びると、どうしてもダメージを受けてしまう。
感情を抑えながら必死に明るい声掛けを続けて、なんとか身体を洗わせてもらう。どんなに嫌がられても、こればかりは仕方がない。
髪も身体も洗い終えて、あとはシャワーで流すだけという時だった。
身体を支えるために密着していた私の顔に、彼女は唾を吐きかけた。
初めてのことに驚いて一瞬思考が止まったけれど、すぐに気を取り直して介助を続けた。
彼女の身体をシャワーで流しながら、非常に不愉快だわ、と思った。思って、それだけだった。
無事に入浴介助が終わり、着替えとドライヤーも終わり、彼女は落ち着きを取り戻した。
私は洗面台へ向かい、唾を浴びた部分を拭き取った。
拭き取りながら思った。
世の中には、二種類の人間がいる。
顔に唾を吐かれたことのある人間と、そうでない人間だ。
顔に唾を吐かれたことのある全ての人から、ようこそ、と言われた気がした。
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