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他者理解という酷く傲慢な願望

言葉の曖昧さと理解の傲慢さ

相手を理解する、したいというのは酷く傲慢な行為だ
なぜか、そもそも理解するというのは、自分が理解しやすいように情報を整理するということだ
世の中で起きていることを数式化することで、多くの人が理解できるような形にした物理や科学が、その代表例と言える

つまり、相手を理解する、したいという願望は、相手というとんでもない情報の塊を自分の理解しやすい、理解可能な項目に整理して、勝手に型にはめ込むということだ

更には、それを伝えてる場合や聞く場合も言語化し、言葉と言うツールを介して行われる
言語化するというのは、「色々な感情や考えはあるけど、つまり表現するならば、これ!」と言ったように抽象化すると言う行為だ

そんな抽象化し合った方法しか、情報が抜け落ちた方法しか、相手を理解する手段しかないのだから、相互理解など到底無理なことなのである

つまり手段も拙いし、情報を自分たちで勝手に抽出をし、勝手に自分の中の枠に相手をはめているのだから、相手を理解する、したいという行為や願望は酷く傲慢なのである

傲慢さの象徴

その典型例が、相手や自分の行動を見て、自分や相手が「誰々らしい」という発言だ
相手や自分の行動を見て、互いが互いの枠内にその行動が収まっている場合に出てくる言葉であり、日常的に使用されるが、酷く失礼な発言だなと思う

多くの人が、普段は気にならないけど、たまに不快に思うことがあるのではないだろうか?

それは、自分が自己理解をしている枠と、相手が自分を理解している枠が不一致であり、どちらかと言うと、その行動や考えが、自分の中で枠の中心部にあった場合に、不快感を覚えるのでないだろうか

また、1人の人間を別々の人間が同じ様な状況下、視点で観察した際に、微妙に印象が異なるのも、とある人は四角い枠で相手を見ているが、とある人は三角の枠で相手を見てるということから、発生するのではないだろうか
それが関係性が浅い場合は、第一印象が、その枠を作ると思われる
だから、第一印象が8割などと言われるのだろうと考える

「ほんもの」とは

ここまで、他者理解を酷く傲慢だと言い続けてきたので、まるで悪い事のように、僕が考えていると思っているだろう

ただ、それは違う

相手を理解する、したいなどという酷く傲慢な行為や思いを、もし双方が思い、願い、それを許容できる関係があるのならば、それはとても素敵で、酷く尊いものだと思う
それは、アニメ「やはり俺の青春ラブコメは間違っている•続」で、比企谷 八幡が言う「ほんもの」なのではないかと思う

余談

ここまで他者理解の傲慢さについて語ったが、いかにコミュニケーションが難しいかが、伝われば良いと思う
なので、例えば「言ったのに伝わらない、理解されない」「言ったんだから、わかるでしょ?」というのは、極めて傲慢で、傲慢の極みであるということを伝えたい
我々は、言葉という拙いツールで、更には、そのツールの熟練度が異なるものを介してでしか、互いに理解を深めることができない
だからこそ、相手に礼節を尽くし、そして「言の葉」を丁寧に選び、紡ぎ、重ねていくしかないのだ

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