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映画「迷子になった拳」でぶっ飛ぶ

 私が運転手を務める水道橋博士に、初めて映画の試写会にお誘いいただいた。映画を一緒に観るのも初めてだが、試写会というものに行くのも初めてである。

 本作は、ミャンマーの格闘技「ラウェイ」を追ったドキュメンタリー映画である。世界で最も危険な格闘技と言われているラウェイに挑む日本人格闘家達が主人公だ。

 数多の格闘家が未知なる格闘技に挑み、激しく戦い、そしてそれぞれの道に進んでいく。私は自分自身が今歩んでいる「芸人」という生き方に、ラウェイに挑む彼らの生き方を重ねた。

 格闘家も芸人も、職業カテゴリーとしては全く同じである。観客に何らかのパフォーマンスを見せるだけの仕事であり、なくなったとしても社会に迷惑をかけない。農家が無くなったら米も野菜も食べられない。医者が無くなったら診察も手当もできない。薬ももらえない。しかし、格闘家も芸人もいなくなったとして、人類の生活に支障はないのだ。

 どちらの職業も「生命の維持には不要」であるが、不要であるがゆえに、それがある事が人類を人類たらしめているのである。人類とそれ以外の生物の違いは文化の存在である。そして文化は進化するほど多様な芸術を内包していく。

 生命の維持に不要な存在がある事によって、私たちは自身が人間ある事を確認できるのだ。

 本作に登場するラウェイは、世界で最も危険な格闘技だと言われている。薄いバンテージのみで殴り合う、喉や脊髄などの急所への攻撃が禁止されていないなど、他の格闘技に比べて生命への危険度合いが圧倒的に高い。

 そのラウェイは、危険であるが残酷ではない、むしろ世界で最も美しい格闘技であると本作で語られている。

 私は2019年にラウェイを観戦した経験がある。なんとなく名前は知っていたが、正式なルールや成り立ちはその際に初めて知った。もちろん危険なルールではあるが、初期のUFCやバーリトゥードもかなり危険であった。むしろ私が驚いたのは、競技内容よりも「判定無し」「任意で試合中に2分の休憩タイムを一回とれる」という点である。

 このルールにより、必然的にKO決着を狙う戦いとなる。手数をどれだけ出しても、それでは決め手にならない。ダウンしても(ダウン回数によるTKOはあるが)最後まで立っていれば引き分けに持ち込める。いや、ラウェイには引き分けというものは存在しない。最後まで立っていれば、その2人は共に勝者としてたら讃えられる。つまり、最後まで戦いきる事で「勝者」になれる競技なのだ。倒れても「立ち上がる事」を猛烈に強要されているようにもとれる。

 さらに、「2分休憩タイム」の存在がこの競技を独特な過酷さに導く。他の打撃系格闘技は、ダウンした後に立ち上がってもダウンの影響でグロッキー状態になってしまい、そこから更にラッシュを受けてKOされるシーンというのをよく見かける。しかしラウェイは、そこで休憩タイムを取れる。カウント9ギリギリで立ち上がりさえできれば、再び仕切り直す事ができる。

 ラウェイが世界で最も危険な格闘技といわれるのは、素手で殴り合う事でも頭突きが許容されている事でもない。2人の戦士を徹底的に戦い続けさせるルールであり、戦いきる事で両者を勝者として賞賛する点なのである。

 危険であり、過酷である事によってラウェイは日本人格闘家を惹きつける。しかし、そこにあるのは残酷趣味などでは決してない。過酷な戦いであるが故の美しさと、その格闘美と表現したくなる神聖な儀式のようなリングに格闘家は引き込まれていく。

 とはいえ、すくなくとも日本における格闘技は「興行」であり、格闘家は「格闘事業者」である。それを職業とする以上、葛藤や自分と周囲への責任が生まれる。

 リング内外の、ラウェイに関わる多くの人たちの現実を本作はリアルに、ひたすらリアルに描いている。

 数年前にミャンマーを視察した際に、リュックを背負って1人で街を散策した事を思い出した。灼熱の国であるが、気温以上に人々の熱気があふれていた。急速な経済発展と熱心な仏教文化の混在もまた独特な雰囲気を生む。そんなミャンマーで生まれた格闘技ラウェイが日本人の心を捉えるのは必然であったように思う。急激な経済発展と西洋文化の流入により独自の文化を形成しているという点では極めて共通点が多い。

 本作で描かれるミャンマーは、私が知る限りミャンマーそのものである。演出や偏向を一切感じることはなかった。街並みも、文化も、そこにいる人々もまたひたすらリアルに描かれているのだ。しかし、唯一私が現地で確認できていなかった点がある。「ラウェイ戦士達が流す汗」である。LOST FIST BANDによる中島みゆきのカバー曲「ファイト!」を聴き終えたとき、私は心の中でその汗のリアルを確信した。

 格闘家も芸人も、自分勝手な人種の極みである。人間の生活に不要な仕事に人生をかけて、周囲を巻き込み、悲しませたりする。それでも、その姿を人前に晒して、時に罵声を浴びながらも闘い続ける。一瞬の賞賛と歓声がなおも闘いを続けさせる。自己満足を突き詰めたような人間なのだ。だから思う。最後まで立ち続けている事が勝者なのだ。

 では、途中で倒れた者は敗者なのか。負け犬なのか。負け組なのか。

 ラウェイでは、負けたとしても銀メダルが贈られる。戦 闘った者は負けても美しい。命をかけた行為はそれ自体が神聖なのだ。

 闘う君を、闘わない奴が笑うだろう。それは当たり前だ。闘いというのは、それを観ている者を笑顔にできるのだから。本物の闘い、自分自身とのリアルファイトとは笑顔と共にある。しかし、最も笑っているのは、闘っている者たちだった。

 私は「迷子になった拳」に殴られて吹っ飛ばされた。とりあえず2分の休憩タイムをとり、この文章を書いている。



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