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他者を喰うこと

「なぜ、私たちは他者(他種)を喰うのか」

「カナルタ〜螺旋状の夢〜」を観終わった私は、松山城の麓に広がる芝生の上で思考を巡らせていた。

「カナルタ〜螺旋状の夢〜」

とても不思議だった。私は、アマゾンに行ったことがない。にも関わらず、山道で足を止め空を見上げた時、ふと「私は今アマゾンにいる」と錯覚していた。木々の隙間を通り抜ける風、葉の間を潜り抜け私のところまで届く光、匂い、マイキュア、、、。

当たり前だが、私も、これを読んでいるあなたも日々「他者」を体内に取り込んでいる。それは人参や蓮根などの野菜から、豚や魚などの肉まで、あらゆる自分ではない何かを摂取している。しかしながら、前提を問う学問に足を突っ込んでいる私にとって「なぜ他者を喰うのか」という疑問が浮かんできた。

人参にせよ、豚肉にせよ –− 現代では、スーパーに出かけてお金というものと交換するだけだが −− 私たちが体内に取り込むまでに多大な労働力や知識が必要とされている。そして、生態系の複雑なシステムの中で他者を喰うことにより、生態系のバランスが保たれている(はずである)。それにしても、なぜこの「他者を喰う」という多大な労働力と知識が必要とされることを日々私たちは行っているのか。

カニバリズム(cannibalism)

人間であれば、カニバリズム(cannibalism)、生物学では種内捕食(いわゆる共食い)と呼ばれる同種同士で喰い合うということということを聞いた時、何か得体の知れない気持ち悪さを覚えるだろう。そこには、倫理観や道徳観というものがあり、隣に座っている同種の人間を食おうと思っても、野菜や肉を食う時と同じようにはいかないはずだ。なぜこんなにも、「同種のものを体内に取り入れること」に気持ち悪さを覚えるのだろうか。

ただの憶測でしかないが、労力や知識を注ぎ込み他者を喰うことよりも、種内で食い合った方が、個体数の安定、そして全体の生態系のバランスも安定し易いように思える。それに、労力は断然かかりそうに無い。隣に座っている人を食えばいいだけだから。

われらみな食人種

私は、パートナーと小さな港に座っていた時、下船してくる人間たちを眺めながら「誰が一番旨そうか」という話をしていた。結局、私も彼女も解答は一致し、「お坊さん」と答えた。私は、私たち以外に −− 私も彼女も人間ではない –− 、こんな会話をしている者はいるのだろうかとふと思った。しかしながら、我々が赤児だった時、母親の母乳を飲んで育った人がほとんどだろう。まさしくそれを「カニバリズム」と呼ばずになんと言えようか!さらに、フランスの社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)は、臓器移植もカニバリズムの一種であると主張している。

また、彼女にこのことについて聞いてみた。すると、いつものように少しの間考え込んだ後「時間がかかるから」と言った。その時の私は、時間がかかるのになぜ?という風に心の中で思ってはいたが、そのままその話は終わった。しかし、後でじっくり考えてみるととても確信をついていたように思えてきた。

他者を知ること

自分と他者との関係を築いていく中で、急いで他者を知ろうとしてもなかなかうまく関係は築けない。例えば、あらゆる機会で行われる「自己紹介」というものは、もちろんそこでその人の全てを語ることなど不可能であるし、何か大切なことがこぼれ落ちてしまう。時間をかけてゆっくりと他者を知っていくことでしか知り得ない/見えない事があるだろう。また、あらゆる技術を身につける上でも、初めから上手くできる人はそう多くはないだろう。時間をかけてゆっくりと向き合う中で、上達していく。

また、シベリアのユカギールはエルク(ヘラジカ)を狩る時に、エルクを模倣する。狩の前には人間の匂いを消し、エルクになりきり近づく。そこに至るまでには、エルクを知る過程が存在する。

そんな風にして、「時間をかけること」は、「他者を知ること」とも言えるかも知れない。先の、レヴィ=ストロースも「他者を自分と同一化するいちばん単純な手段は、何をおいてもまず、他者を食べてしまうことである。」と言っている。食べるという行為に至るまでにも、それは本当に食べられるのだろうか、毒がないだろうか、どこに生えているのだろうかという風に、まず「知る」行為が存在する。

これこそが、私たちのほとんどが他者を喰う理由なのではなかろうか。



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