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森は私で私は森|主客未分

遡ること9ヶ月前。
突然、森に呼ばれた私は家を飛び出し裏山を歩き始めた。

歩くテンポが速くなるごとに、坂道を登るごとに私の呼吸は荒れ、体内にできるだけ多くの酸素を取り込もうと口を大きく開ける。

靴を脱ぎ、肌で土を匂う。

足を止め、林冠の隙間からの木漏れ日を感じようと大地に身を委ねる。

まさにその瞬間、私と森の境目が無くなった。
私の呼吸も、森の呼吸も、虫達も見えない動植物達の呼吸も、その森を形成する全てが私だった。

私と世界の隔たりが無くなったその時、西田幾多郎の言う真の世界、つまり「主客未分」の状態に在った。さらに、「私は」と言う一人称の主語の無意味さ −「私」を構成する身体は私でないものから生まれ、思考さえも私ではない他者の思考であったことを− 思い知らされた。


私(主体)と世界(客体)の境が溶け合い、無くなる時。
とても懐かしい感覚に陥るのです。それは、この地球に生命が誕生した時のこと、この宇宙が生まれた時のような匂いがします。



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