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トイレと私と日本地図

皆はトイレでの思い出をお持ちだろうか。
私は引っ越す前の昭和20年代に建てられた実家の一畳もないあの狭いトイレで、目の前に貼られていた大きな日本地図を眺め続けたあの月日を忘れることができない。

「ただいま」私はボソリと呟くと母の返事をあしらっていつも通りランドセルを横に置きトイレに駆け込んだ。大人が座るともしかしたら膝が壁につくかもしれない、あの狭苦しい空間は当時小学5年生だった私のシェルターだったのだ。


ある曇りの日、小学校で体育の授業を受けているといつものごとく先生が「時間が余ったのでドッジボールをしましょう」と前から声を張っていた。ガヤガヤとしていた男女1列ずつの縦列が少し静かになって、前から1、2、1、2と号令をかけていく。私は当時の身丈が130cmにも満たなかったので前から2番目。当然「2」と言って後ろの女の子に声をかける。しばらくして列の後ろまで号令が通り、2列に別れると先生が「ではこの列がチームとなって対戦しましょう〜」と指示。また静かになった男女の縦列が少しガヤガヤし始めて、男子が勝負に燃えている声が聞こえていた。

当時の私は身長が130cm、体重も30キロ台前半だったことを記憶している。小学5年生、と言うとちょうど女子たちが成長期真っ盛りで、縦にも横にも大きくなる時期だ。平均的な女子の身長から約20cmもリーチがある私は、ドッジボールが大嫌いだった。活躍の場面なんて一度もないどころか、猛スピードで自分に迫ってくるボールたちから逃げることで精一杯。間違えて当たってしまうとそれはそれは痛くて仕方がない。そんなわけで、その体の小さい少女はどうやってその小さいコートの中で生き延びられるかをぼんやりと考えていた。

そんな時、真後ろの女の子が「ねえねえ、チーム交換してくれない?」と声をかけてきた。その女の子はクラスの中でもリーダー格の女の子だ。理由を聞くと「〇〇ちゃんと一緒のチームじゃないと嫌だから」とのことだった。○○ちゃんはその真後ろの女の子と一緒にクラスの女子を牛耳っていたと言っても過言ではない。また、ついこないだまで仲が良く、毎日一緒に下校していたのにも関わらず些細な喧嘩で少し気まずくなってしまった女の子もそのリーダー格の女の子たちがいるグループに属していたのだった。

小学5年生の頃の私は、体は小さいが、気が強くて賢い優等生だった。なぜか何をしても許されていた。特に、気が強い、というところでいくと、小学校でよくある掃除しない男子たちのことを箒を持って追いかけ回し、謝らせて掃除をさせる、みたいなことをしてしまう女子だった。そんな、ただ気が強いでは収まらない暴力的な一面も、周りよりも少し賢い優等生だったことが起因してなのか、誰からも咎められることはない。自分は暴力を行使して生徒を指導する先生ともはや近しい存在なのだから、これくらいの暴力は仕方ない、とどんな大人を見て成長してるんだと今の私から叱りつけてやりたいくらい、傲慢な部分もあったが基本的には真面目な優等生だった。

そんな私に、真後ろの女の子が「○○ちゃんと同じチームがいいから、チーム変わってよ。もちろん先生には内緒で!」と笑顔で話しかけてきた。さすがリーダー格、そんな私のお願いなんて、もちろん聞いてくれるでしょ?当たり前だよね?という心の声がその笑顔に全て表れているように感じた。おおよそのケースでいくとそこですんなり極秘の闇取引が行われるのであるが、真面目な優等生の私は「嫌だ」と断ったのだった。「なんで?いいじゃん別に」と言われたが、自分が正しいと思ったことは正しさを突き通したい気が強い少女はその闇取引は納得ができなかった。そんなことをしてしまうとみんながみんな自分と同じチームになりたい人通しでやろうよ、みたいになって、この号令でしたとりあえずの組分けが成立しなくなるじゃないか、筋が通らない。その理由はさすがにうまく説明ができなかったのか詳細には話さなかったが、もう一度「嫌だ。なんで私がそんなことしなくちゃいけないの」と強めに返した。すると女の子は私にお願いするのは諦めた様子で、別の女の子に声をかけあっさり○○ちゃんと同じチームで楽しそうに最前線でボールと戦っていた。

翌日、算数の授業を受けていると背中や頭に何かが小刻みに当たる感覚を覚えた。何かが飛んできている、と察した私は後ろを振り返ってみると、昨日お願いしてきた女の子と◯◯ちゃんと、クラスのリーダー格の男子がアートナイフで切り刻んだ賽の目の消しゴムを私に向かって投げつけている現場に遭遇してしまった。癖毛の中に入り込んでしまった消しゴムを手で払っていると、女の子は嫌な目でこちらを見ながら「昨日断るからだよ」とニヤニヤしながら呟いていた。

嫌な予感がした。その予感は的中して、次の日からもそれは続いた。毎日消しゴムが飛んでくる日々はどんどんエスカレートしていき、ついにクラスのほとんどの女の子から話かけられないようになってしまった。更には「寅女ちゃん、死ねばいいのに」と書かれている手紙をうっかり拾ってみてしまったり、通りすがりに「きもい」と言われたり、病院に通院をしてから少し遅れて学校に行くと(当時の私は全くこの出来事とは関係のない歯の病気で、入院と通院が必要だった)私の机の中のものを全部出されて机がモリモリになってしまっていたり。思い出せばキリがない。思い出したくもないので詳細描写はここら辺で終わらせたいが、とにかくそういった毎日が続いた。

当時の私は気が強かった。強過ぎた。どこからそのエネルギーが湧いてでたのかは自分にもわからないが当時の私は「毎日嫌がらせをしてくる人たちへの最高の嫌がらせはキモい私が毎日学校へ行き、顔を見せることだ」と考えた。結果的に歯の病気の入院と通院以外で学校を休むことはなかった。

当時の私は気が強かった。強過ぎた。だから誰にも言えなかった。大人になってから兄に聞いた話によると家族みんなは知っていたらしいが、当時の気が強すぎる私はそのことを誰にも言えなかった。毎日学校へ行き、嫌なことをされてから家に帰り、ドアを開けると「おかえり」と母がこちらを向いて声をかける。そこで本当は毎日泣きそうになっていたことは母親は知らないだろう。そして毎日、シェルターであるトイレに閉じこもり、日本地図を見つめながら「25歳とかの私って、元気に笑顔で生きているのだろうか」とぼんやり考えていた。毎日そう思っていたので、25歳の今にこの出来事を思い出した。


隣のクラスの女の子たちは、私のクラスでのそんな出来事を知らない。そこが唯一の救いだと思い、これまで全く仲良くしてこなかった女の子たちと遊ぶようになった。
今思うとその経験が私を強くした。それまでの私は、クラスの中で割と目立っている、力のある女子たちの軍団に属そうとし、それ以外のクラスメイトには目もくれなかった。強いとか弱いとか、ぱっと見の印象だけでその人を決めつけてはいけないということをその時初めて学んだ。人にはそれぞれのいいところがあり、悪いところもあり、強さもあり、弱さもあるということを今まで話そうとしてこなかった女の子たちと話すようになってから気づいた。それが小学5年生で本当に良かったと思う。

約1年間の時を経て、クラス替えが行われたことによりその嫌がらせはなくなった。


今思うと、その経験が私に教えてくれたことは人生の財産だ。ただ、その経験でないといけなかったかと言われると決してそうではない。何度も自分の生きる価値がないのではないかと10歳そこらで考え続けなければいけない状況は健全ではない。いじめられている人へ。誰かに言いたければ言えばいいし、誰かに言いたくなかったら言わなければいいです。自分がどうしたいのか考えてみてください、死ぬこと以外で。身近な人がいじめられていることに気がついた人へ。ひたすら、見守ってください。とても大切です。そのことを告白してきたら優しい顔でひたすら聞き続けてあげてください。ついでにどうしたいか聞いてあげてください。死ぬこと以外は否定しないでください。何も言ってこないなら、ただひたすらに見守ってください。



25歳の私は11歳の私に言いたい。「クッッッソ楽しんでるよ人生」と。



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