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桑田真澄という男

割引あり

世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、桑田真澄さんを取り上げていきます。

後にドラフト4位で南海ホークスに入団する
西山秀二と中学時代はバッテリーを組み、
エースとして活躍。
出場した大阪府の野球大会全てを制覇し、
相手チームから、桑田の球はファウルにするのが
やっと。
負けて悔しいという気持ちも沸かないくらい
あまりの力の差に
唖然とさせられたと、その凄さを物語る
逸話が残されています。

捕手の西山も、中学生の頃から140kmの速球を
ミットを構えた所に正確に投げ込んできた。
俺の中では歴代ナンバーワンのピッチャーだ、と語り、

プロ入り後、後逸してコーチに怒られた際、
桑田は構えた所にしか来なかったのに、
なんでプロが暴投するの?と聞き返したという
笑い話も残しています。

高校はPL学園に進学希望の桑田でしたが
学校側は、桑田を欲しがる別の強豪校へ
進学してくれると他の選手5人もまとめて
引き受けてくれるので有難い、と
大人の事情でそちらの強豪校へ進学して
ほしいと頼み込みます。

しかし、問題児扱いされようとも
PL学園に入学し、その後のプロ野球まで
未来予想図を描いていた桑田は、頑として譲らず
中学3年の3学期、卒業を間際にして転校し
自分の意思を貫いてPL学園に入学したのです。

名門PL学園に晴れて入学出来た桑田でしたが
当初は全国から集まった
野球エリートの層の厚さに驚愕。

172cmと野球選手としては小柄だったため
登板機会も少なく、外野手転向を言い渡されたのです。

188cmの清原をはじめ、屈強な体格のチームメイトを見て、
自分はこのまま終わってしまう。
彼らと競い合っても駄目だ。
自分らしく、投げる、打つ、走ると
総合力で勝負しよう。野球以外の事や
メンタル面も強化しようと、本を読み、
色々なことを学んでいったと語っています。

さらに桑田が恩人として今も慕っている
清水コーチとの出会いが運命を変えていきます。
外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き、
清水は自分がマンツーマンで指導するからと、
投手に戻すことを監督に進言、
毎日、投手の体の使い方を教えこんだところ、
天性の肩の強さや腕のしなりも加わり、
すぐにレギュラー組に昇格。
1試合投げるごとに結果を出し続け、
ついに名門PLのエースとなったのです。

甲子園に5回出場し、4度決勝進出、
しかもそのうち2回は優勝という
今も語り継がれるKKコンビの伝説を
清原とともに打ち立てたのでした。

中学時代エースだった野球エリートたちが
桑田の投球を見てピッチャーを諦めたと語るほど、
桑田の力は、ずば抜けていました。
すでにプロ並みの速球に多彩な変化球、
コントロールもピカイチ、
投球のコンビネーションや組み立てる頭脳も
駆使して甲子園で20勝をあげただけでなく、
後にゴールデングラブ8回受賞する守備力に、
甲子園打撃成績
104打数37安打、打率3割5分6厘。6本塁打
と俊足好打にパワーまで兼ね備えた怪物でした。

同じ投手と対戦した清原和博が、
91打数40安打、打率4割4分、13本塁打で
あることを考えると、その凄さは、特筆すべきものがあります。

さらに驚くことに、高校時代の3年間、
桑田はストレートとカーブの
2種類しか投げませんでした。
キレのあるスライダーやシュートが
投げられるにもかかわらず、
なぜ使わないのかと、清原が聞くと、
プロに進んだ時の事を考えて
封印していると答えたそうです。

その言葉通り、ドラフト1位で読売ジャイアンツに
入団すると、次々と結果を出していきます。

2年目に15勝を挙げ、最優秀防御率と沢村賞を獲得。
3年目からスプリットフィンガー・ファストボールを
マスターし、89年には年間20完投、17勝をあげました。

プロ入り直後、桑田の打撃や守備のセンスが
非常に優れていたため、首脳陣の一部からは
野手転向を薦める声もありましたが、
本人の意向もあり
投手として野球人生を歩み、成功したのです。

斎藤雅樹、槙原寛己と共に三本柱と称され
チームの日本一に貢献、巨人のエース、
そしてプロ野球を代表する投手として奮闘を続ける日々。

度重なるケガによりトミー・ジョン手術を
経験しながらも勝ち星を積み重ね、
2001年、ついに引退を決意しますが

翌2002年、原辰徳が巨人の監督に就任すると
直々に来年も一緒にやろうと声を
掛けられたことで、引退を撤回、現役を続行します。

するとこの年、4年ぶりの二桁勝利、15年ぶりの最優秀防御率の
タイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献、
原監督の期待に見事にこたえたのでした。

心を打ち明けられるような親友は
チームにはいないです。目指してるものが違うんです。
と語っていた孤高のエースは通算173勝をあげ、

2006年9月24日、読売ジャイアンツ球場での
二軍戦登板を最後に

18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。
今はただ感謝の気持ちしかありません。
という言葉を残して退団となりました。

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